早稲田大学ウリ稲門会

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YMCAとともに20余年

2011-06-27 21:37:42 | 私の意見・交流・日常

金弘明

東京、水道橋に在日本韓国YMCAがある。私の職場であり活動の場所でもある。
YMCAで働いていると言うと、耳にはしてもどんな団体か分からない、何をやっているところかとよく訊ねられる。
「全ての人の全人的な成長を願い、地域と国際社会に奉仕し、正義と公正な社会を目指す」団体だって言っても分かったようで分からない顔をされる。
無理もない。
世界中に(125の国と地域に10,000ヵ所、4,500万人の会員)YMCAがあるわけだが、それぞれが独立した法人で非営利かつ非政府組織である。
地域での働きを通して先に述べた理念を実現するために、その手段・手法は多種多様で、受け取る人の視点により見え方が変わる。

在日本韓国YMCAの話に戻る。
名前にあらわされているのだが、韓国のYMCAであり、日本のYMCAでもある。
これは世界のYMCAの中では非常にユニークな存在なのだが、もちろん日本の韓国強制併合の歴史なくしてはありえなかったことだ。
民族的な組織としてみても日本の中では2番目に古い団体である。
なにしろ今年で創立106年を迎えた。(※最も古いのは朝鮮奨学会の前身となろうか)

 この機会に私自身の話で恐縮だがYMCAにかかわるきっかけとなった学生のころの話、YMCAの長い歴史のなかでよく取り上げられる2・8独立宣言、そして今の活動のさわりを紹介させていただきたい。
82年時の入学で、ちょうど建学創立100周年だったことを覚えている。
1年目こそは韓国文化研究会に顔を出し、民族的なアイデンティティを、先輩方から揉まれ、同輩とのつながりの中で求め、徐々に根付いてきたように思う。
一方、80年代の初めは指紋押捺拒否“問題“の大きなうねりの兆しを感じ取られた。
このことのために大学内にとどまらず、学外の市民運動に夢中で飛び込んでいったように今にして思う。
民族的なアイデンティティを模索しながら、反差別と日本社会の市民的権利を獲得していく象徴として運動を自らの中に取り込んでいったのであろう。
在学中は在籍していた自主講座サークルで、第一次となる「教科書問題」をはじめ、その時代の課題であると思ったテーマで講演会をよく行っていた。
そういう縁で繋がった日本人、在日の学生たちと、在日学生を対象とした就職説明会を大学に求めるなど活動した記憶も懐かしい。

 さて、大学に入ってしばらくはあれこれのアルバイトをやり、それらを整理して一つの職場で生活と学費が成り立っていくバイトを探していた。
そんな時新築して間もない在日本韓国YMCAで宿泊施設の宿直バイトの紹介を受けた。これ幸いと働き始めたのが、結局今に至ることとなる。まあ、いわゆるバイト上がりの正社員というわけだ。
組織の意気込み(活動理念)に惹かれたというのも強調しておきたい。
文化活動を通して、青年に民族的なアイデンティティを形成する機会を提供し社会に有為な人材を育成する、
在日の文化を創り出し、また日本社会に韓国文化を紹介することで両国のかけはしになるという点だ。
今までやめずに続いてきたのも、時代の変遷に伴い「多文化共生をめざす」という理念を新たに掲げたことに思いを強くし、私自身がクリスチャンホームに育ったことで、キリスト教をバックボーンにする社会教育団体に馴染んだというところもある。
しかし、実際のところ営利を求めるわけではなく、かといって経済的には自立が前提で、収支にもしっかり追われるところや、在日も日本人も韓国から来た人たちも働いていて、言語やスタイルもばらばらで葛藤もうまれ、混沌とした組織に何となく魅力を感じていた。
このようにしてYMCAにどっぷりと関わっていくことになる。

さて、この組織の歴史を少し振り返ろう。
乙巳保護条約を日本が韓国に締結させ、統監府を置いた翌年の1906年、東京にいた当時の朝鮮人留学生が集まり、聖書や英語の学習を目的として、東京朝鮮基督教青年会(YMCA)が創立された。
場所は日本の東京YMCAの一室を借りていた。初代の総務は金貞植、理事長は晩植が就いた。
創立から2年後には活動の中から教会が生み出され(現在の在日大韓基督教会東京教会)、1914年には当時の神田区西小川町に新築の会館を得た。
朝鮮から渡ってきた学生たちの生活相談や日本語学習を行い、小規模ながらも寄宿舎を併設していた。
また、YMCAにとどまらず、学友会や各学校の主催する講演会、演説会、親睦会の実施がなされ、自然YMCAは留学生の活動拠点となっていた。
第一次大戦終了後、アメリカ大統領ウイルソンが講和原則の一つとして提唱した「民族自決主義」が、独立を希求する朝鮮人留学生を大いに勇気付け、3・1独立宣言の導火線となる2・8独立宣言に繋がっていく。
YMCA内にある「2・8独立宣言記念資料室」にこの独立運動に言及しているところがある。長くなるが引用したい。

『東京が30年ぶりの大雪に見舞われた1919年2月8日、中心メンバーたちは朝から集合し、日本語と英語に訳された独立宣言文、決議文、民族大会召集請願書を日本の貴族院、衆議院の議員たち、政府要人、各国駐日大使、内外言論機関宛に郵送しました。
この日は午後2時から、在日本東京朝鮮YMCAの講堂で「朝鮮留学生学友会総会」が開催されることになっていました。
会場は始まる前から結集した数百名の留学生で熱気にあふれていました。
総会の開会宣言、開会祈祷が終わると同時に「朝鮮青年独立団」を結成しようと「緊急動議」の声が挙がり、事前に独立団代表11名の署名入り独立宣言文が満場一致で採択されました。
警察官たちが乱入し、指導メンバーたちの一斉検挙が始まり、使命を帯びて日本から脱出していた2名を除く代表9名が逮捕されてしまいました。(略)
また宣言文はソウルにも伝えられ、3・1運動を引き起こす導火線となりました。(略)
当時のYMCA総務白南薫は、逮捕された留学生たちのために、面会に訪れ、食べ物を差し入れるなど、献身的に働きました。
また、朝鮮の独立を理解する日本の知識人に支援を求め、花井卓蔵、布施辰治をはじめとする卓越した弁護士たちが弁護を引き受けました。
彼らの弁護は、厳しい内乱罪を適用しようとした検事の論告を論駁し、結局出版法違反という微罪を勝ち取ることができました。』

さて、YMCA会館は1923年関東大震災で焼失したが、学友会、天道教と共に中心になって「罹災朝鮮人慰問班」を組織し、虐殺の実態調査を行っている。
翌年には「虐殺同胞追悼会」を開き、今も毎年9月1日行っている合同祈祷会に繋がっている。
暫くの間YMCAは事務所を間借りし、主だった集会は中国YMCA会館でおこなわれ、1929年に現在の地に新会館が建てられた。
現在の事業は韓国語講座・韓国伝統音楽舞踊教室を行っており毎週200名を超える受講生が通っている。
また次代のリーダーシップ養成を目的として日本語学校を運営し、アジアをはじめとした各国からきた若い学生たちが学んでいる。
財政的基盤を支えるホテル・研修事業も多くの利用客を得て、市民団体、民族団体、キリスト教団体の様々な講演や研修が行われている。
また、会員事業の一つに在日や移住者に焦点をあてた講座を開催している。
先に述べた「2・8独立宣言記念資料室」では展示、資料の閲覧に加え、映像資料も作成し、多くの方が来館し視聴された。
是非みなさまにも一度足をお運びいただいてご覧いただければと思う。

在日の世代も交代し、課題も時代が移るごとに変化していく。
民族的アイデンティティも多様化している。
ただ、人が集いめぐり合う機会、空間までもが喪失されると、次代へのバトンタッチもできず、存在やそれぞれの歴史すら失われていくことを恐れる。

ウリ稲門会のように各界で活躍されている諸先輩方がこの集いを守り、幅広い世代に呼びかけられているように、YMCAも一つの拠点として多くの人が集い、発信し、またさらに多くの拠点とつながり、そして次の世代を担う青年を育てて行きたい。
                               



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1 コメント

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YMCA (金 康治)
2012-08-08 16:43:22
僕もYMCAで働きたいです<笑>
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