昨日は春の嵐、庭の利休梅も右に左にゆらゆら。
明日ありと思う心のあだ桜夜半に嵐の吹かぬものかは(親鸞)
9歳の親鸞が天台座主、慈円上人に得度してもらうべく京に上る。夜遅く到着。もう遅いし疲れているだろうから明日、得度して進ぜようと言われたとき親鸞が読んだ歌。美しく咲く桜を明日も見れるだろうと思っていても今宵嵐がふいて散ってしまうかもしれない。
私の命もあすある保証はない。どうか今すぐに得度をしていただきたいと申し出たとか。
写真展で大先輩のSさんと話す。80歳になられたとか。数年前には大変元気で、写真愛好会にはいった私を車に乗せて、全紙大の写真づくりに同行指導いただいた。が最近は病気のデパートみたいなもので病気のことならなんでも聞いてと言われるような状態で写真を撮りにいく意欲がわかないとおっしゃる。後期高齢者とはよく言ったもので75をすぎるとあちこち体が悲鳴を上げ始めるとは仲間の弁。私も今年72歳、あと3年はやりたいことはやっておくべきか。
生老病死は人間のさけられないこと。梅宮辰夫が豪快奔放な生き様を示した松方弘樹の死を前にして「人間死んだらおしまいよ」と述懐したとか。ならば人間は生きているときは昨今の世相のようにやりたいことをやっておばいいのか。人間はいろいろであっても死ねば仏になれる。しかし末法の平安時代以降、死んだ先には地獄がある、浄土に行くにはどうしたらよいかと庶民は皆不安に思った。今時、日本人は死んだらどうなる、浄土に生きたいなど考える人間はいないだろう。しかし、なぜ自分だけこんな病気に苦しまねばならない、こんな貧困に耐えねばならないと嘆く人はいるに違いない。
アメリカ人は神の存在を7~8割信じる人がいるとか、どんな調査の結果か定かではないがね。瀬戸内寂聴さんは四国徳島の仏壇屋の娘だったとか。50歳で出家するまでは仏の存在など信じなかったという。しかし出家して94歳の今、仏の存在は信じているという。それは世の中が人知の及ばない不思議なことが多々あるから。確かにこの精密すぎる人間の体がどうしてできたのか、進化論ではなく神の存在を考えたくなるのもわかる気がしないでもない。
親鸞はただ「南無阿弥陀仏」と念仏をとなえれば浄土にいける、悪人はなおさらという「悪人正機説」をとなえ浄土真宗を日本国中にひろめた。信仰の信は任すことにあり。ただひたすら信ずることから信仰は始まる。こんな話をすると日本人はすぐにオーム真理教とかの邪宗に思いがゆき、宗教や信仰話をうさん臭く思ってしまうのだろう。しかし神棚や仏壇のまえで自らが謙虚になれる人は幸せと言える。
そこで生きながら、すこしでも心やすらかにいるために仏教は「六波羅蜜」を実践しなさいという。タイの黄色い法衣をきた修行僧のように出家して八正道を実践すべきというのが小乗仏教(南伝)、インドから中国をへて日本にわたってきたのが大乗仏教(北伝)。在家しながらこころの修業を説いた。六波羅蜜の6つの修業とは布施、持戒、忍辱、精進、禅譲、知恵の6つ。無明のない、こころやすらかな彼岸にわたれる6枚の切符というわけ。
1、布施・・・心施。ひとに声をかけてやる。おげんきですか? 顔施。ほほえみをなげかける。 悲しんでいる人に共感の意をしめし、自らの幸せに感謝する。天皇皇后両陛下がいつも被災者にしておられること。
2、持戒・・悪いことはしない、いいことをせよ。人の悪口をいわない。嘘を言わない。しかし誰もできない。だから常に反省しなさい。ライオンはシマウマを殺して食べても反省はしない。人間だけができる。
3、忍辱・・我慢すること。すぐ忘れてしまう。
4、精進・・生涯勉強、努力
5、禅譲・・・心をしずめなさい。写経や座禅、瞑想などで心を鎮める時間を持ちなさい。写経をしたからといってがん細胞が消えるわけではない。元来信仰というのは物々交換のようなものではない。しかし煩悩の炎が少しでも静かになる効果はある
6、知恵・・以上の5枚のチケットが手に入れば物事を正しく判断できる知恵をおまけに授けてやりますよというのが六波羅蜜、六波羅行の本質、この実践によりより人間らしくなれて、生きながら心の安らぎを得られますよ・・・というのが仏教の教え。
親鸞は南無阿弥陀仏を唱えていても一向に有難みは感じたことはない、死んだら浄土に行けるというが死にたくはないと弟子に漏らしたらしいがそれでもひたすら「南無阿弥陀仏」を唱えるのだけだと・・・妻帯もした人間親鸞の真骨頂だと寂聴さんは言う。