ゴールデン・リタイアーズ

S20年生、後期高齢ゾーン、人生最終コーナー「遊行期」の
徒然残日写真録

120228:九州国立博物館、特別展「細川家の至宝」観る!

2012年02月28日 | マイ家族

 家内が友達と観に行って良かったと言うので久しぶりに国博にでかける。熊本、細川家700年の珠玉の永青文庫コレクションといううたい文句。正月から始まり来月3日で終了。またカメラをぶらさげ、10時過ぎ自宅をでて、裏道をとおって歩いてゆく。20分少々で博物館につく。学生やシルバーの団体がぞろぞろ、ちょっと遅かったかなとおもいつつ、チケット購入、65歳以上2千円割引の1100円。音声ガイドのイヤホンセットを500円で借りる。館内はもういっぱい。歩いてきたので汗ばむ。音声ガイドに従って進もうとするがこれがなかなかすすまない。展示物の案内表示が小さいので、目がおぼつかない中高年が顔をちかづけてじっと読むものだから進まない。

 もと総理の細川護照さんは細川家18代の当主になるらしい。今16代当主の護立さん(1883-1970)が設立した永青文庫(東京)の理事長。
信長の部下として活躍した初代細川藤孝(幽斎)、能が好きで面(おもて)と装束がずっとうけつがれており、各種展示されていた。般若というのは仏教で知恵をあらわす言葉だが般若坊と僧侶がさいしょ作ったので般若の面といわれるようになったらしい。展示物の説明がマンガで書かれていてわかりやすく面白い。細川家の2代目は忠興(三斎)、光秀の娘、玉(のちのガラシャ)と結婚。1582年の本能寺の変で夫婦は離ればなれ。光秀は忠興が味方になってくれるよう依頼した覚え(手紙)が展示されている。がそうならず敗死。秀吉が天下統一した後、忠興は三斎の名で千利休から茶をならい、利休ゆかりの茶道具が展示されている。それにしても昔の武人は書がうまいね。秀吉の忠興あての書簡も展示されているがなかなか達筆だ。学がないといわれている秀吉がいつ腕をあげたのか不思議なくらいだね。

 1600年の関ヶ原の戦いで細川親子は徳川がたに味方、縁起がよいとされたその時のよろいかぶとが展示されている。よろいをつけた武士の重量は100キロちかくなるらしいがこんなのをつけて戦ったのだからすごいものだ。家康から論功行賞で熊本が与えられ三代忠利が初代藩主となり、以後二百数十年にわたり細川家が熊本を統治する。
そのとき招聘した宮本武蔵が晩年、五輪の書をまとめたがその一部が展示されている。
1867年大政奉還で江戸時代がおわり、同77年西南戦争で熊本城の天守閣が燃える。
その後、細川家16代の当主となった護立(もりたつ)が1970年に没するまで収集した国宝や重要文化財の書画刀剣類がずらっと並んでいるのは壮観。しかし細川家の財力でよくぞ集め残してくれた16代に感謝せねばならないね。しかし日本人の美意識と工芸技術は素晴らしいものだ。護立さんは幼少の頃病弱だったらしいが白隠和尚の「夜船閑話」をよみ感銘、内観強化で病気を克服したとのこと、爾来、白隠和尚の禅画や刀剣の収集にはまっていったらしい。こういう出会いは大きいね。
いずれにしても700年にわたる家系が面々と続いている細川家は驚嘆に値する。
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120223:二年ぶりの大阪、葬儀に参列、母の見舞い

2012年02月23日 | マイ家族

 大阪の弟から電話があり、奥さんの御母さんが亡くなった。91歳、消化器系疾患で入院しておられたが肺炎を発症させ急逝された。2年近く帰阪していないこともあり葬儀に出席することにする。パソコンで宿泊パックの新幹線格安チケットをさがしたが3日前予約でダメ。EモールのJTBに電話すると格安パックがあるという。外は雪がふっていたが夕方出かけ調達。24200円なり。団体で確保している余裕分があるらしい。
 葬儀は11時半。久しぶりに朝6時半のバスでJRへ。10時20分新大阪着、大阪環状線人身事故で不通。何があるかわからない。最寄りの駅まで地下鉄でいく。11時10分。タクシーに乗る。めざす葬儀会場しらないという。なんてこった。3台目でやっと乗る。5分前着。親戚あつまり写真どり。すぐ葬儀。ばたばたはいかんね。喪主である奥さんの最後のあいさつ。涙ながらに泣き母親の想いでばなし、ひたすらがんばってきた母親にみならい自分も頑張って行きたいという心に響く挨拶だった。葬儀が終わりお棺に花束をいれ最後のお別れ。感極まる時。火葬場に向け出棺、そして火葬。食事を挟んでお骨あげ、還骨勤行、初七日の法要。16時半に終了、弟の家にひきあげる。病院での死去、葬儀準備、残された老親のショウトステイへの預け入れ、お通夜、葬儀とさぞかし疲れたであろうことがうかがえる。

 しばし休憩の後、弟とわれらの母親をショウトステイ先に見舞いに行く。節電をしているのか夕方6時半、薄暗く、うすら寒い感じのする部屋にいく。同じような老人たちが車いすにのり、おしだまって集まっている。母親に2年ぶりに会う。名前を言っても認識できているのか、ただなにか独り言を言い続けている。過去のいつのことなのか定かでないがなにかを話続けている。弟の家にいるときは割と意識がはっきりしてるらしいが環境が変わると周りへの拒否反応を示すのか、話かけても反応が鈍くなるらしい。1時間ぐらいいてステイ先を辞去。3年前胃漏の処置をしたのが今となっては悔やまれる。親子双方にとって望ましくないようだ。

 8時前戻って弟家族と食事。生老病死は人間にとってさけられないこと。いろいろ思い出話をしながら9時過ぎお開きにして、予約してあるホテルに向かう。三井アーバンホテル大阪淀屋橋。地下鉄淀屋橋12番出口から3分と書いてあったが北浜界隈のビジネス街は夜は人通りも少なく暗くて目指すホテルがわからない。目がうっとおしく余計にわかりづらい。11時前やっと到着。風呂にはいり、1Fのコンビニでワンカップを買い込み、喉を潤した後、眠りにつく。疲れました。

 8時、バイキングの朝食をすませ、中之島界隈を散策。ホテルのそばに大昔の漫才師、花菱あちゃこの店という赤壁の串焼きの店、派手な作りにおどろく。超高層ビルのそばにレトロの喫茶店。証券取引所のある北浜界隈、緒方洪庵旧宅や中之島公会堂など古の雰囲気を漂わす建物がいろいろある

 浪速八百八橋といわれるように大阪は水都でもある。中之島公園の土佐堀川沿いにはハクセキレイなど野鳥も結構いる。
北浜に事務所を構えている友人に電話したがつながらず。1時間ほど散歩したのちホテルに戻る。その友人からTEL。西宮で昼食を約束。2年ぶりの再会。もう65歳になったらしいがコンサルの現役でがんばっている。しかし聴覚の衰えやその他、体力、知力の維持強化は大変らしい。お昼はごちそうになってしまったが再会を約し別れる

 テレビ報道などできいていた大阪ステーションシティにでかける。博多シティの2~3倍の規模か立派なものだ。鉄骨の城と言った感じだね。ばちばち写真におさめる。

 周辺は高層ビルの工事が何箇所か続行中。クレーンが大空で仕事をしている。壮観だね。福岡と比べると大阪は大都市、一日も休みなく動き続ける大商都だね。筑紫野の自宅に帰ったのは夜の10時であった。
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120217:太平洋戦争時、米戦略情報局に在籍した異才の童話画家「八島太郎」

2012年02月17日 | 趣味と交遊

八島太郎 ―日米のはざまに生きた画家―
野本一平著 創風社2008年発行 1700円

2月の写真愛好会の例会でHさんが去年末の忘年会で飲みながら話しておられた話題のひとの本ですということで2冊拝借した。
著者は元、北米毎日新聞の社長だった人でこの本の主人公の八島太郎さんとアメリカで交友があった人。
どんな人物だったのか?要するに明治生まれの鹿児島県人で若いころ体制に反感をもちプロレタリア芸術に転向、子供をおいて妻と渡米、太平洋戦争勃発しても日本に帰らず、米情報局に身をおき、日本兵士に降伏を促すビラをつくり、戦後は童話作家としてアメリカで名をなし69歳で脳溢血でたおれてもなお書き続け、数々の賞も受賞し、80歳でロスで死去した異才の芸術家、95~96年、日本で遺作展が開催されたという人。

八島太郎というひとは本名、岩松惇あつしと言い、1908年、明治41年鹿児島県根占町で4人兄弟の末っ子、3男で出生。後に妻になる笹子智江は同年東京で生まれている。16歳の時、結核で1年休学したが文筆絵画に才能、風刺漫画を南日本新聞などに連載。19の時、東京美術学校に入学するもプロレタリア美術にのめりこみ1929年、21歳の時放校処分をうけ、その道で生計を立て始める。22歳の時笹子智恵と神戸で結婚。25の時取り調べで虐殺された小林多喜二のデスマスクを描く。妊娠中の妻、光とともに検挙され拘置される。釈放後漫画を描き続け妻の絵も一緒に公募展入選。その後1939年31歳のときに日本に見切りをつけ、子供を神戸に残し、夫婦で渡米。絵で生計をたてる道を開いたが1941年12月、真珠湾で日米開戦、42年、交換船による帰国を断念、アメリカで生きる道を選択(34歳)。日本に残した子供が「日本の裏切り者」といじめられたらしいが信念をつらぬき破天荒な人生を送った。戦後、童話作家として名をなしたが故郷鹿児島への望郷の念たちがたく、アメリカ国籍はとらなかったとある。
まあ明治から大正にかけては日本にもいろいろユニークな人物がいたということだね
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120215:芥川賞受賞作品、田中慎弥著「共喰い」読む

2012年02月15日 | 辛口ひとりごと

この2~3日雨が続き家でくすぶっている。こんな時は小説を読むしかない。
毎年、恒例となっているが文芸春秋を買ってきて芥川賞受賞作品を読む。15年間、審査員をやってきて今回最後と言う石原東京都知事、どうも日本人の自我が衰弱してきており、年金が破たんすると言われても静観している。同じように新人作家の登竜門である芥川賞の候補作品も戦慄を覚えるような作品に一向にであわないというわけで老兵は去るということらしいが、「共喰い」で受賞した下関の田中慎弥さんが審査員批評や受賞してあたり前と言った記者会見が評判をよび、よく売れているらしい。
 内容は異常性愛者の父親と先妻との間の子供、17歳の高校生(主人公)を軸として18歳の女子高校生のセックス友達、後妻、誰とでも寝る近くにすむ中年の女などとの間で性と心の葛藤をえがいたもの。セックスをしながら相手を殴ったりしないと快感をえられない父親、それに翻弄される女たち、義手の先妻が最後に元夫を義手で刺殺する場面でクライマックスに至る。これまで多くの賞をとっている著者だけに読者をひっぱりこむ筆致にはなっている。石原氏いわく、戦後、場末ではやったお化け屋敷のショウのように次から次へとえげつない出し物が続くような作品と評している。まあ小説なんてものは楽しめりゃいいようなもんだけれど、これを読んでおもしろかったというもんじゃなかったね
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120212:「飛び梅や 主役不在の 撮影会」

2012年02月12日 | 趣味と交遊

 去年は小雨模様で参加しなかった西日本新聞主催の「梅とモデル」の撮影会にでかける。天気は快晴で10時ごろ太宰府天満宮へ。すでに参道は内外の観光客でにぎわっていた。10時半まで時間があったので本殿にむかう。右横の飛び梅残念ながらまだつぼみだね。

 飛び梅や 主役不在の 撮影会
 飛び梅の つぼみならべて 余寒かな


絵馬堂前にはスタンバイするアマチュアカメラマンでいっぱい。24年度の西日本写真協会の会費3000円受付をしていた。撮影は自由だが応募は会員に限られている。
10時半同行する講師と4人のモデルが紹介される。
 さっそく4班にわかれてぞろぞろ移動が始まる。出店がでている通りから心持池をへて、蓮池から国立博物館方面、そして手水舎、時打堂あたりと撮影がすすむ。観光客に邪魔になるとどなられたり、撮影者同志がおしあいへしあい、だんだんモデルへの注文も増えたり好き勝手なことをいう輩もふえてくる。

 講師が前の人、後ろの人と交代してやってくださいとお願い調で言っても知らんふりで夢中になってシャッターを押している。
 後ろにいるカメラマンガシャッターを押そうとすると急に前のカメラマンがたちあがりアウト。ぷりぷり文句を言っている。マナーを心得ている人は「立ちます」と声をだしてから立っている。えらいね

 一人のモデルの100人以上のカメラマンがぐるっととりまいて撮りまくる。異様な感じだね。人をおしのけて前にでる腹の立つ親父も多い。
 梅がダメだから天満宮の他の景観とあわせて撮るしかないが逆光を活かしてモデルの質感をどうだすかだね。200枚くらい撮ったがじっくり家でチェックしよう。

 ちょうど昼になったので豚バラとたこ焼きを買って帰宅。「やっぱり梅はまだだったでしょう」という妻と昼飯。部屋は暖かい。ビールを冷蔵庫からひっぱりだし飲む。うまい!
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120210:私が生まれた昭和20年(1945年)はどんな年だったのか!

2012年02月10日 | アフターセブンティ

 言うまでもなくハワイの真珠湾攻撃から始まった3年8カ月に及ぶ未曾有の太平洋戦争が広島、長崎に原爆を落とされることにより終結した年だが敗戦の色濃い5月に大阪で生まれた。3月にB29が東京や大阪、名古屋を大空襲し4~50万戸が焼失、焼け野原になってしまった。そんなときにまったくよく産まれたものだ。湯もわかせないような中で奇跡としか言いようがない。

 2月に米英ソがヤルタ会談。対独戦後処理、ソ連の対日参戦決定。米軍が硫黄島に艦砲射撃、戦車200両が上陸、栗林中将以下23000人玉砕(映画・・硫黄島からの手紙)
4月、米ルーズベルト大統領死去、トルーマンが昇格、イタリア、ムッソリーニが銃殺された。米軍が沖縄本島に上陸、6月23日戦闘が終わるまで軍人10万、県民20万、米軍7万が死亡。海軍、陸軍の意思不統一による、はなから兵力武器弾薬で負け必至の無茶苦茶な戦いであった。沖縄にむかった不沈戦艦大和が米艦載機の攻撃をうけ沈没。
5月。ドイツ軍が無条件降伏。米軍は戦力を欧州から日本へシフト、本土へ絨毯爆撃、民間人へ無差別攻撃をかけた。こんな状況下にもかかわらず、まだ日本政府は本土決戦に固執、国民義勇隊までつくらせた。こんななかで私は産声をあげた。

 6月、秋田の鉱山で強制連行中国人が蜂起。終戦まで100万人ちかい中国、朝鮮からの強制連行労働者があったらしい。ソ連への終戦あっせん交渉うまくいかず。
7月、トルーマン、チャーチル、スターリンがポツダムで会談。日本の戦後処理について米英中の名でポツダム宣言を出した。日本はそれを黙殺。
8月6日、広島に原爆、8日、ソ連が対日宣戦布告、満州が撃破され100万日本人居留民が暴行略奪にあった。9日に長崎に原爆。
8月10日、御前会議でポツダム宣言受諾を決定、連合国へ通知。陸軍大臣は無条件降伏すれば戦死者にすまないとなお全面反対を主張、天皇が軍の欺瞞を指摘、聖断をもって無条件降伏を決定、14日14時、終戦の詔勅が発布、23時録音テープへの吹き込み終了。テープ奪回のクーデターがおこったが失敗。阿南陸相、割腹自殺。

 8月15日、戦争終結の玉音放送。この戦争で300万人の日本人がなくなった。
私の父親は医療器具を製作にたずさわっており戦争にはいかなかった。この日以後、日本人は総虚脱状態におちいる。価値観の大転換を強いられる。
8月30日連合軍司令長官マッカーサーがコーンパイプをくわえて厚木飛行場におりたち、以後GHQ(連合国総司令部)による日本人の洗脳が始まり、東条英機など戦争犯罪人の逮捕、軍国主義から民主主義へ急速転換が進められた。

 廃墟であった東京、代々木にアメリカ村ができワシントンハイツと言われ、20年余りの間、繁栄、民主主義国家の象徴として、日本人のあこがれの現物モデルを示した。白い大きな建物に便利な家電製品、大型自動車、金髪の女性。日本は完全にアメリカナイズされてしまうのである(「ワシントンハイツ」秋尾沙戸子・・GHQが東京に刻んだ戦後。新潮社)


1946年(昭和21年)満1歳
 職人としての腕を活かして、鍋、釜やその他板金加工などして生計を立て始めたとか。私は満1歳でもっぱら母乳で育っていたのであろうが親はどんなものを食っていたのだろうか。小学校に入るまでの幼少期の記憶はほとんどない。家の近くの橋の欄干で母親の足元で着物をつかんで立っている3~4歳当時の写真が残っているのみ。

 敗戦日本は元日に天皇が神格を否定した証書をだした。いわゆる天皇の人間宣言でマッカーサーは満足の意を表した。軍国主義者の公職追放が出され、インフレ対策で預貯金が封鎖、払い出し制限がくわえられ新円が発行された。しかし円では物が買えず手持ちの家具などでの物々交換で生活。不衛生から発疹チフスが大流行、DDTの強制散布が行われた。
リンゴの唄や帰り船が流行歌ではやった。戦後初の衆院選挙がおこなわれ自由党が第一党となる。幣原内閣が総辞職した後、吉田茂が自由党総裁となり内閣発足。11月には日本国憲法が公布された。経団連ができ、財閥(三井、三菱、安田、住友)解体も不十分な形でおわった。
 1979年版「現代用語の基礎知識」の別冊付録、読める年表、昭和53年間の100の事件史をひもといている。あらためて戦後66年、日本人が戦い歩んできた道のりを感慨をもって見返している。こんなことがあったんだ!!!
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120207:作家桐島洋子、カナダの「林住庵」・・「林住期」五木寛之、幻冬舎刊

2012年02月07日 | アフターセブンティ

 ろうばいや 花の名知らず 妻苦言

 NHKラジオを聴いていたら、えらい早口で桐島洋子さんと娘さんの桐島かれんさんがゲストでしゃべりまくっている番組があった。桐島さんはシングルマザーで3人の子供を育て、作家活動を続けているキャリアウーマンの走りみたいな人で、今75歳になり、なお東京で森羅塾を主宰し、中高年のライフスタイル活性化にとりくみ、カナダに林住庵(50歳の時購入)と名付けた隠れ家をもっていて沈思黙考する場所、あるがままに生きる場所と位置付け塾生などを招集して楽しんでいる。今時のあたらしい?女の生き方スタイルの先導者であったらしい。

 実は「林住期」なる言葉を知ったのは定年後、嘱託として新幹線通勤になる前によく読んでいた作家の五木寛之氏の「林住期」なる幻冬舎文庫を読んでからである。退職時、これからは林住期を自由に生きますと挨拶をした(この言葉を何人が知っていたかわからないが)
仏教発祥の地インドでは人生を4つに区分、四住期(しじゅうき)という考え方があった。日本では今や100歳を超える人が3万人近くいるらしいが人生を4区分して最初が学生期(がくしょうき、25歳まで)、庇護され学ぶ時代。次が家住期(かじゅうき、結婚し、働き、家族を養う50歳まで)、そして林住期(りんじゅうき、仕事、家族から解放されて生きる意味を問う75歳まで)、最後が遊行期(ゆぎょうき、ひとり静かに人生を終了する整理期100歳)というわけである。中国では青春、朱夏、白秋、玄冬と区分されている。50歳まではすばらしい林住期にはいるためのホップ、ステップ(準備期)であり、勇躍、解放されたライフステージにジャンプせよということ。

 現実的には家住期は私の場合65歳まで伸びたが現在は完全リタイアした身で、一人阿蘇の麓で山小屋生活をしようと思えばできないことはない。しかし、いったい死ぬまでの十数年間、私は何がやりたいのか? 宮本武蔵のように山にこもって兵法書をかきしたためるのか、軽のキャンピングカーで全国縦断、写真を撮り続けるのか、ケセラセラで適当に生きるのか?
今、思っているのは、私が先に逝くとして、ベッドサイドにいるであろう妻に「ありがとう、楽しかったよ」と言って、生涯を閉じればそれで万々歳なのではないかと・・・
そうなるように妻には求めず、自分のできることをやっていく。どうでしょうか?


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120203:雪の太宰府天満宮、「節分厄除大祭」

2012年02月04日 | 趣味と交遊



昨晩降った雪が庭を一面真っ白にしている。毎年、妻が節分の日、太宰府天満宮の厄除け福うちわをもらっているので、節分厄除大祭を撮影がてら10時前でかける。太宰府ゴルフ場のまえの坂道はいつも凍結するので心配だったが大丈夫だった。
参道も凍ったりして足もとがこころもとない。蓮池や心字池氷がはり、太鼓橋は通行止め。タイシャープの社員旅行の一団がワイワイ記念写真を撮ってた。この寒さに驚いていることだろう。
10時過ぎ本殿で厄払いの神事が始まる。清め、磨き抜かれた本殿でおごそかに行われる。赤、白、金、床の光沢、色、光を撮りこむ。

本殿前の櫓からの豆まきが始まる。「鬼は外、福は内」参詣者の手がのび豆袋をうばいあう。このあと天満宮幼稚園の園児たちによる豆まきがあり、鬼役やおたふく役が人目を誘う。



鬼にだきかかえられて泣く子やおたふくに頭をなでられ微笑む子、平和な日本がここにはある。一方、きびしい寒さの中、東北の仮設住宅が水道管凍結で水が出ず難儀されておられるようだが復興作業はまだまだこれからのようだ。明日は立春、日足も伸びてゆく、あたたかい日差しがまちどおしい。


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120201:アワーフェレット「マーブル」死去

2012年02月01日 | マイ家族

 朝食をとっていると涙ぐんだ妻が降りてきた。「まーちゃんが死んだ」
ここ1~2か月肺に水がたまったり心臓が弱ったりで入退院を繰り返していたがこの1両日ぐったりした状態で妻がだっこしたりしながら部屋をいったりきたりしていた。今朝がた動かなくなっていた。2月17日が7歳の誕生日であったが寿命は7~8年と言われており人間で言うなら70すぎのおばあちゃんだった。
 妻の部屋にいってみると安らかな表情で眠っているように見えた。

ここ数年、息子や我々を癒してくれた存在だった。

好きだったおもちゃなどと一緒にねかせる。今夜はマーブルの御通夜だ。

長い間ありがとう・・・
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