ゴールデン・リタイアーズ

S20年生、後期高齢ゾーン、人生最終コーナー「遊行期」の
徒然残日写真録

220323 桜が開花した。福岡恋愛白書!ゼレンスキー大統領、国会演説!

2022年03月23日 | わが青春の日々

 わが家の周辺も桜が開花してくれた。庭も川辺も春爛漫。しかしウクライナでは理不尽、不可解な戦争が続いている。はや1か月、泥沼の様相。大統領が国会でオンライン演説をした。アジアで最初にロシアに経済制裁をしてくれた。ありがとう。ぜひ継続してほしい。日本文化を愛していると・・・ソフトタッチ。

 

 ロシアが極超音速ミサイル攻撃、ウクライナ、女性が武器操作の訓練、なんという理不尽な闘いか、民間犠牲が拡大、消耗戦に入りつつあると言われる。玉石混交の情報戦で何が真実かわからない。ウクライナに1日もはやい春が来ることを願うのみ。

こんな時に天国と地獄の差とは思うが今日のブログは恋愛の話。もちろん私の話ではない。孫娘が合格した県立高校が舞台になったというKBC九州朝日放送の福岡恋愛白書という番組が深夜放送された。実話に基づく恋愛白書らしく、シリーズで舞台をかえて続いているようだ。たまたま学校が今回、撮影に協力したようだ。合格者説明会でも紹介されたらしい。どんな学校か知りたくてテレビをみた。

純粋でうぶなサッカー部員がマドンナと称する学校1の美少女Nに想いを寄せる話。リタイア族も若かりし頃あったような話。あらすじは

主人公Kは学校でのルーティンがあり、毎朝7時40分ジャストに下駄箱のある昇降口にいることでマドンナNが登校してくる時間だからだ。成績も運動も平凡で、うぶなKが彼女と話せるのは、昇降口から教室までの1分間だけだった。地道に作戦を続けるも彼女がただのクラスメートのKを意識する素振りは微塵もない。さらに、同じサッカー部主将でイケメンのSも彼女に好意を寄せ始める。最強のライバル出現に焦るばかりのK。

しかし、Kの母親が病気で急死したことをきっかけに、彼女とKは次第にお互いを意識していく。そしてついに、彼女を花火大会に誘ったKは、親友の手も借り、なんとか告白。すると、まさかの返事が!夢のような交際がスタートし、彼女の天真爛漫な可愛さに日々悶絶するK。しかし、あることをきっかけに2人の関係が崩れていく。さえない男子高校生と高嶺女子の物語はどんな結末を迎えるのかという展開。行き違いの高校大学時代、そして社会人になって5年後同窓会で再会し、互いの想いを告白しあうという話。

まあたわいのない話ではあるがたった1分間の幸せと言うのが同じような経験を私もした。通学のローカル電車の2両目にマドンナが乗ってくる。灰色の受験時期の唯一の楽しみだった。高校3年の時、舟木一夫の「高校3年生」がヒットした。その年の体育祭、この曲をバックにフォークダンスを踊った思い出がある。

「泣いた日もある、恨んだことも、思い出すだろ懐かしく、ああ高校3年生、ぼくらフォークダンスの手をとれば、甘く匂うよ黒髪が」「残り少ない日数を胸に、夢が羽ばたく遠い空、ああ高校3年生、ぼくら道はそれぞれ別れても、越えて歌おうこの歌を」プロの作詞家とはたいしたものだ。

「ホタルの光」や「仰げば尊し」が歌われなくなった昨今、こんなロマンチシズムは昭和世代だけの感傷かも知れない。

同じKBCが「旅立ちの日2022」という特集番組をくみ、ここでも孫娘のうかった高校が4つのモデル校の一つになっていた。コロナ禍で何もできなかった子供たちに教師たちがサプライズ企画、夏休み期間中に校庭で打ち上げ花火をやったり、卒業証書授与式の最後に、今をときめくシンガーソングライターのビデオメッセージを放映、卒業生を感激させた。

高校野球で応援演奏ができなかった吹奏楽部をローカル球場のアルプススタンドで野球部OBの前で応援演奏できる場を演出した担当教師。感激のシーンは異なるが多感な16,17,18の3年間は教えるもの、教えられるもの、ともに学ぶ仲間たち、やはりかけがいのない大事な期間なのだろうね。

いづれにしても孫たちにはおおいに青春を謳歌してもらいたいものだ。大事な青春を戦争でおしつぶされる国がこの地球上であるということをよく知って・・・・

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210618 故、作家田辺聖子さん、昭和20年、「18歳の日の記録」読む!

2021年06月18日 | わが青春の日々

2019年6月なくなった91歳の女流作家,田辺聖子さんの昭和20年4月から昭和21年12月までの18歳当時の日記が伊丹市の実家から発見された旨の新聞記事が先日でた。早速、文芸春秋7月特別号に掲載、購入して読んだ。

私は昭和20年5月の誕生。6月には大阪大空襲があり田辺聖子さんの父親が経営する立派な写真館が焼失したいきさつが詳細劇的に記述されている。私の幼少期の記憶、記録が極めて少ないものだから当時の状況を知りたくて購入したのだが。

 いままで氏の著書は読んだことはなかったが700冊もの著作があり小説界のほとんどの賞を受賞し文化勲章ももらっているようだ。終戦の年は大阪の桐蔭女子大の国文科の学生で首席で卒業。裕福な家庭で育ったようだが6月2日空襲で米軍の焼夷弾絨毯爆撃で生まれ育った家も大事にしていた書物や書き物すべて焼失、ゼロになってしまった。茫然自失の中それでも小説家になるんだという意思が強固だったのは驚嘆に値する。

日本が無条件降伏したその日は墨書で日記がつづられ、いままで神国ニッポンは負けるはずがないと思わされ続けていたことに憤慨、無為に死んでいった若人たちやサイパンや沖縄など女性のの死は一体なんであったのかと憤慨するさまは軍国女子として意気盛んである。天皇の御心、アメリカの民主主義など知り、心機一転、頑張ろうとする心意気はすごい。

 肝腎要の時に父親は病気、ひとり白米を食っており家族はロクなものしかくえない。いざという時の母親の凄さに感嘆するなどおもしろい。昭和21年12月で日記は終わっているから以後のことはわからないが700冊の著作の中には戦争、戦後体験をふまえたものがあるようだ。ないないづくしの焼け野原からの出発で日本人は結構意気盛んだったようだね。ただそれぞれの日本人が何を発想しどう取り組んだか、その才覚により将来がおおきく変わったのだろう。田辺聖子さんは小説一筋という信念を持てたのは幸せなことであったようだ。

 6月2日の大阪大空襲の時、私の生まれた城東区の被害はどうだったのか、ずっと住んでいた長屋があったということは空襲で焼けなかったのだろうね。医療器械関係の技術者だった父親はもてる製作技術でなんやかや作って生計を立てたようだ。18歳の時、戦後創業した鉄工所が倒産、私が大学を卒業する2月末のことだった。米軍の焼夷弾攻撃で無一文になってしまったような状況。しかしその時は私の就職先は決まっていたので田辺聖子さんとは状況が違った。違っていたのは強固な意志だったのかもしれないね。メーカーに6年務めた後、経営コンサルティングファームに転職、会社はつぶしてはならないの理念の元、35年間仕事をやった。わが人生に悔いはなし?!!一度、田辺聖子さんの著作を読んでみよう・・・

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201014 ホームメンテナンスに多忙の日々。半世紀前の33回転ドーナツ盤を懐かしむ!

2020年10月14日 | わが青春の日々

ここ数日、家庭サービス、ホームメンテナンスに多忙。充電式トリマーを使っての貝塚の剪定、高速洗浄機をつかっての玄関、階段タイルの泥落とし、庭の枕木テラスへの防腐剤塗布、

台所換気扇のフィルター交換、不調のファックス機廃棄と迷惑電話防止のための電話機交換(固定電話は不要な気もしないではないがベスト電器の改装前セールで最安値の税込み6050円で調達)

乱雑になっている廊下収納室の整理整頓などなど。「自分の好きなことばかりして家のことは言われるまで何もしない」という妻の常套小言を封じるための先制攻撃みたいなもの。お陰で疲れましたが腰痛は発症せず。

 ところでこの15cm角のコンパクト電話機は「あんしん応答」という機能が親機にもワイヤレスの子機にもついており、呼び出し音が鳴っている時にこのボタンを押すと「あんしん応答モードになっています。あなたのお名前をおっしゃってください」とメッセージがながれ、相手がだれかスピーカーで確認でき、私の声なら受話器を取って対応、保険のセールスなどの時は左下のスターボタンをおすと、「恐れ入りますがこの電話はおつなぎできません」とメッセージがでて、電話は自動的に切断されるという仕掛け。

 食品通販会社などの電話は5回呼び出し音を放置しておくとファックスでPRチラシが送られてきて、せからしいの一言。もうファックスはお蔵入りさせたので、このあんしん応答を活用すればストレスが減りそうだ。

 そんなことでホームメンテの疲れをほぐすために先般購入したマルチレコードプレーヤで半世紀前のレコードをチェック。とりあえずは33回転のドーナツ盤をかける。といってもLPレコードはなく、たまたま50枚ほどのドーナツ盤レコードがほこりをかぶって残っていた次第。雑音だらけというのは意外と少なく青春時代を懐かしめた。多分、高校、大学生時代に買って聞いていただろう代物。400円から600円のプライスがついている。

1、アルフレッド・ハウゼ楽団のコンチネンタルタンゴ。「真珠とり」は有名

2、ベルト・ケンプフェルト楽団の「星空のブルース、欲望のブルース」1960年、アメリカに先駆けて日本でヒットしたトランペットの哀愁の音色。

3、魅惑のラテン・ムード音楽。「シェリトリンド、ベサメムーチョ」なつかしいね。

4、ビリーボーン楽団の「テルスター、愛さずにはいられない」

高校時代、長屋で鉄工所をやっていた親父が受験勉強用に近くの魚屋を営んでいた人の2fの一間を借りてくれた。その家には娘さんがいて週1会っていたがおいていたステレオで一緒に聞いたのかもしれないね

5、米映画「アラモ」のサウンドトラック盤。西部劇の理想の男性像と呼ばれたジョンウエインが映画人として全生命を注ぎ込んだ西部劇大作、当時としては3時間20分という長時間の大西部劇映画。遥かなるアラモやテネシーベイビーがよみがえってくる。

6、4人組ボーカルグループのブラザースフォアが「グリーンスリーブス、グリーンフィールズ、遥かなるアラモ」を絶妙のハーモニーで聞かせてくれる

7、ママス&パパス、4人組混成グループ。「夢のカリフォルニア」が懐かしい

8、ポールアンカの「君がわが運命」。ユーアーマイデスティニイのメロディにしびれた。ニールセダカのカレンダーガール。アメリカの若者たちのライフスタイルが日本に伝搬。

9、ジ・アストロノウツのエレキギター&ドラムによる真夏のリズム、サーフィン。テケテケテケというエレキギターの空気を切り裂く音。「太陽のかなたに、パイプライン」などなつかしいね

10、エドモンドロス楽団のボンゴの響き。「エルクンバンチェロ、タブー」思い出すね

11、モダンジャズが映画音楽にとりあげられた。アートブレイキーとジャズメッセンジャーの「危険な関係のブルース」ほか。哀調と孤独感をテナーやトランペット、ピアノ、ドラムスがにじませてくれる。

12、デイブブルーベックカルテットの「タイムアウト」。有名な「テークファイブ」はアルトサックスとドラムの単調なリズムの繰り返し。記憶に残る曲だね

13、ボサノバ。映画、アランドロンの「太陽がいっぱい」のヒットから太陽と若者、青春の喜びを表現、音楽は静かに聞くという日本の古い習慣を塗り替えたとある。「サンライズツイスト、太陽の誘惑」など。

 敗戦から15年、そして東京オリンピック、高度成長へとつながってゆく。オリンピックの開催は私が大学の1年になった時。大学4年の冬、家業の鉄工所が倒産、大学卒業そして就職。社会人になってからはレコードを買って聞くという習慣はなくなったように記憶している。苦労知らずの10代に淡い夢を抱きながら聞いていたものなのか・・・・・・

 あと33回転のクラシック、10枚ほど、45回転の歌謡曲やポップス、グループサウンズなど20枚ほどあるが、また後日紹介したい。

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190315 孫娘が小学校を卒業、いきいきはつらつ!なぜ、卒業証書授与式というのかね?

2019年03月15日 | わが青春の日々

早いもので孫娘が今日、小学校を卒業した。式は両親がでて、われわれ老夫婦は孫息子と留守番。11時50分からの卒業生見送シーンだけ撮るつもりで娘宅に朝一で出かけた。

 でかける夫婦の後ろ姿にはなんとも言えない感慨を感じるね。娘が成人するまでまだまだ長い人生だが・・「歩み」という通知簿を見る。6年生の1~3学期終了。担任の先生のコメント。先生も大変だね。ひとりひとり良く観察していないと1クラス30名、きっちり書き分けられないのではないか。昔の5点法と違ってぱっと見わかりにくね。

入学時と卒業時の身長差から6年でこれだけ伸びましたと細長い紙が貼ってあったのはおもしろかった。11時すぎ学校にでむく。

 

クラスで先生の話があっている時間。そのあと体育館にあつまって集合記念写真らしい。

 7年前、頼まれて糸島のN小学校に卒業式の1日を撮りに行ったことを思い出す。20数名の卒業式で涙や笑顔の感動の卒業式であった。いまは近くの学校と合併されているはずである。地域一体となって子供の教育に当たっておられた記憶がある。

 昔の卒業式のイメージは?「仰げば尊しと蛍の光」のイメージでどうしても湿っぽくなる。ふと思うのは卒業式と言わずに卒業証書授与式というようになったのはどういうわけなのか?

 式に出席した夫君と話したがなにか淡々とした進行であったらしい。とにかく6年間の義務教育は終わりましたよ。その証の卒業証書を渡しますよと言った感じなのかね。3月の行事予定のボードには卒業式と書いてあった。この使い分けがなにやらうさんくささをかんじないでもない。

 それはともかく在校5年生が花のアーチをつくってその下を担任の先生と卒業生たちが晴れがましい顔つきでやってきた。FZ300の暗いファインダーで目をこらしていたのだが夫君と孫娘のペアーは撮り損ねてしまった。突然目の前に夫君が現れたのには驚いた。

 孫娘のランドセルには友達や先生の寄せ書きが描いてあった。これは驚きでしたね。私の現役時代のスクールものセミナーでは修了式で色紙に寄せ書きをしたものだ。

 学校の通用門前では恒例のもろもろグループの写真撮影。卒業生はそれぞれ希望の地域の公立中学や独自に私立中学に進学する。卒業生100人が4月から3つに分かれる。いかなる学生期が展開されるか、この段階で生まれた家庭環境の差がでてくる。

 家に戻り恒例の玄関まえ記念写真。晴れやかな孫娘の顔がそこにあった。このあと親友の卒業生と近場で食事をしに出掛けるとか。思春期のはじまりだね。

 私の場合、敗戦後の昭和28年の入学式、34年の卒業式、残された写真もわずかだし際立った思い出というのが浮かんでこない。それにつづく中学入学、そして卒業。なにか平板な感じ。高校1年。これは校区がひろがりいろんなところから生徒が集まり新鮮な感慨があったことを想いだす。とくにきらきら輝く女生徒には・・である。通学電車の先頭車にあこがれのダンス部の彼女。2年、3年は朝のひと時がときめきの時間であった。しかしそれも大学受験期を迎えると灰色に変化していった記憶が漠としてただよっている。思い出すのはジャストタイミングで舟木一夫の高校三年生がヒットし、その年の体育祭でフォークダンスを踊った・・・まあこの程度でしたね

 孫娘がこれからどんな人生を展開してゆくのか、私が80歳の時、孫娘は花の18歳だね・・・

 

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160114 田辺昇一氏の思い出、プロの神髄!!

2016年01月14日 | わが青春の日々

(宮若町清水寺の日の出)

 亡くなられたタナベ経営の創業者、田辺昇一氏はないないずくしの敗戦後、生きることが精いっぱいの時代に形のない知識、情報、判断を売るという誰もやったことのない経営コンサルタントの道を切り開き、上場企業にまで育てあげたプロコンサルタントでありプロ経営者であった。

 私が入社したのは創業17~8年の頃、社員も100人足らずであった。入社3年くらいの新米コンサルタントの時にある中堅食品関連企業を経営診断した。10名ほどのチームを組んで企業を診断しその結果報告会の時のこと。クライアントの役員10名を前に緊迫した雰囲気のなか報告会が始まる。途中、先方女子社員がお茶を出そうとしたとき、今、真剣勝負中です、後にしてください!と氏が喝、こちらもビクッとしてしまう。約2時間、各メンバーからの報告が終わり、師が最後のまとめ。

「こんな女に誰がした、こんな会社に誰がした・・・あなた方経営陣だ!!」と喝。こちらがびっくりしてしまった。魚は頭から腐る、企業をつぶすのはトップである。トップが変われば企業も変わる。当たり前の経営大原則である。入社時、コンサルタント指針という小冊子をもらった。その第一条が経営者を無視し軽蔑せよとあり驚いた。注文をいただいた経営者におもねていたら冷徹な判断ができないということだ。やとわれコンサルにはできない、真剣勝負をしているプロコンサルタントだからできること。新米コンサルタントだった私には衝撃の3時間であった。

報告会が終わって最寄りの駅そばの寿しやにはいり反省会。師が一番うまいものを出してくださいとばんばん注文。テーブルに料理が並び打ち上げ。冷えたビールが五臓六腑にしみる。うまい。師が各人の分析報告に点数をつける。営業部門、Aさん70点、生産部門Bさん65点・・。次なる仕事への決意がムラムラとでてくる。1時間あまりの反省会。板さん、勘定、領収書はいらないよ!驚く。師がポケットマネーで我々をねぎらってくれたのか・・・

(霧か雲海か?)

5年、10年、15年とコンサルタントとしての修業が続く。180センチをこえる上背の師がおおいかぶさるようにこちらの顔にちかづけて話しかけられる。その迫力にいつも圧倒されていた。

 いつぞやクラブに連れていってもらったことがある。アフターファイブ、気分転換が大事だよ。臍から下は人格がない、本能の世界だよ。しかしここで人間としての器もでるよ。一流の店で遊び一流のママさんから学ばないとだめだよ。本来サービスすべきホステス嬢が師の話のおもしろさに聞き入ってしまいホステスの仕事を忘れてしまっている。遊び方の迫力にも圧倒された。

(朝霧におおわれる田園)

一流ではない、超一流をめざせと叱咤激励された。今はなき人かと思うと感慨ひとしお、無常観ひとしおである。

 

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160112 日本の経営コンサルタントの草分け、田辺昇一氏ご逝去

2016年01月12日 | わが青春の日々

 日本の民間経営コンサルタントのパイオニアで経営の神様仏さまタナベ様と言われた株式会社タナベ経営の創業者、田辺昇一氏が昨年12月22日に93歳で他界されたことを知りました。車椅子で生活しておられるとはもれ聞いていましたがご逝去されたと知り大変おどろきました。

 大学を卒業した年に家業が倒産するという原体験をした私が6年の営業マン生活をへて29歳の時にタナベ経営の門をたたいたのも田辺昇一という偉大な人がおられ、「心に革命をおこせ」や「人間の魅力」という著作に多大な感銘をうけてのことであった。爾来35年、コンサルタントとして第二の人生をおくったが常に経営の師、こころの師としてありつづけたひとであった。修行時代、元気にがんばってますかと声をかけれるだけでやる気がわきおこった偉大な人であった。衷心より哀悼の意をあらわすのみである。

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40年ぶりの同志社カレッジソング、わが青春のノスタルジー

2010年11月04日 | わが青春の日々
 
わが母校、同志社大学のキャンパスフェスタと交友会福岡支部の総会懇親会がアクロス福岡国際会議場で開催され、40数年ぶりに大学の香りをかいだ。来春の入試を控えた学生、親など100名あまり、OB、大学関係者など300余名の集まりで盛会だった。グリークラブの合唱するカレッジソングを久方ぶりに聞いて、なつかしき青春時代の想いがよみがえり血が騒いだ。昭和43年に卒業して以来、ビジネスの世界に埋没、一部友人との賀状交換が継続するのみで接触はないに等しかった。勤務地が大阪から九州、沖縄など西日本中心になったため大学時代の友人との交遊は疎遠になってしまった。
 このフェスタは福岡県人に創立135年の同志社のよさを知ってもらうのが狙いで開かれたようだが、受験生へのアドバイザーとしてあいさつした3人の女子大生はなかなかはつらつとしたあいさつで大したものだった。政界、財界、官界との立ち位置のブレが目立つ昨今の情勢下で、「良心が全身に満ち溢れたますらおを育成する」として新島襄が設立した同志社、今こそその真骨頂を発揮すべき時が来たというわけだ。

 学長のあいさつの後、神学部OBで「知の巨人」インテリジェンスの雄として知られる佐藤 優氏の講演があり学生時代の思い出、神学部があってこそ総合大学、世界の読み解き方など知的情報の豊富さに圧倒される。やはり凡人とは頭脳構造がちょっと違うような感じで、どの教授の教えが自分の今を決めたのどうのとその記憶力はけた違い。ロシア、北朝鮮、中国の動きなど勘所の押さえるにはそれぞれの歴史体験がどう影響しているか押さえねばならないなどおもしろかった。
 講演のあと、交友会福岡支部の総会が開かれ新役員が決まったようだがOBは福岡県で1300人くらいいるらしいが今回100人の参加で43年卒業生など数人しかおらず、知ってる人はこの会を紹介してくれた人以外皆無で、さびしい想いがしたがリタイするまでまったく大学のことは頭になかったのだから仕方がない。
 場所を西鉄インに移して懇親立食パーティが開かれた。ここでもグリークラブの演奏からスタート、関係者紹介で時間がくったが約二時間行われ、最後にカレッジソングの合唱で終了。今後は福岡良心塾と銘打ち交流しているようなので、遅ればせながらぼちぼち交流を深めてゆこうと思う。
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