夢から慈しみの世界へ

神と自然と人間の共生
神一元・善一元・光明一元の生活
人間の生命の実相は『仏』であり、『如来』であり『神の子』である

吾が力では何事も成しえず、天の父、吾に居まして御業を成さしめ給う。

2015年09月20日 19時38分47秒 | 日記・エッセイ
孫娘の一人がお母さん、お父さん以外の人を見ると泣き出していましたが、お盆の送り火に玄関でオガラを燃やしていますと孫娘の一人が父親に抱かれてやって来て、私達にハイタッチをするようになりました。

人を見知る、人から見知られる、と云うようなことがありますが、この世に生まれてお母さんから擁かれ、顔を見て母を見知ることから始まります。お父さんはまだまだ遠い存在です。
やがてお父さん、他の人達とお母さんとの違いを知り、泣いたり笑ったりして、始めて見知られという事が始まります。
ここに無意識に自分自身と母、お父さん、他の人を意識するようになります。
愛は相手を見知り、また相手から見知られながら、生まれる前の胎児の頃、喜びも苦しみも、生きるも、死ぬるも母とその奥に存在する 
父と一身同体であった一如の世界を心深く求め、そこに喜びを感じ、
真実を見つめようとするひたむきな実践であります。

合掌すれば妙楽の世界今開く父を拝まん、母を拝まんと御歌があります。

先日施餓鬼供養が菩提寺であり、散華が終わり、お坊様から一人一人御先祖様、戒名が勧請され、施主の名前が呼ばれ施餓鬼棚の三界万霊牌の前で焼香していますと御先祖様への供養の功徳を全ての人々、有情非情、生きとし生けるもの有りとし有らゆるものへ慈しみの心をふりむけ、御供養が大切なことを教えられました。

三年生の孫が夏休みに学校から凄くやせ細った向日葵の苗を持ってきました。
肥料もやらず鉢に植えておりましたが、細い細い茎の上に見事な
向日葵の花が咲きました。
向日葵も環境の厳しい中を耐えて懸命に
生き、見事な花を咲かせくれた、ひたむきな姿に嬉しくも有りがたくも感動しました。

物事は善しきにせよ、悪しきにせよ、突然にやってきます。
凄く凄く過激な我が家にもこれまで幾度も、幾度も過激な喜びと悲しい物事が起こりその度に一切の現象は空であり、善一元の神のみ光で全てを照らす時一切の苦厄は除かれる、今見ている悪しき現象は覚めてみれば、夢の中の夢であり幻しでありますと教えられ。
ギャテイ、ギャテイ、ハラギャテイ、ハラソウギャテイ、ボジソワカと般若の真理の風が吹き貫け  神霊に導かれ、神の愛が今此処に顕われ、救われて参りました。






















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