夢から慈しみの世界へ

神と自然と人間の共生
神一元・善一元・光明一元の生活
人間の生命の実相は『仏』であり、『如来』であり『神の子』である

初盆と涅槃と天国と地獄の理(ことわり)・・・其の1

2019年08月17日 20時14分04秒 | 健康・病気・精神分析・心理学・先祖供養・霊的実在・心霊の諸相


今年は母の初盆なので菩提寺より棚経の連絡があり、

送り火の十五日の当日は台風接近でしたが、小雨程度の天気でした。

子供達は台風を避けて、前日にそれぞれに帰りました。

今年の棚経は住職の御子息さんで、

二十年程前の初々しい若いお坊さんの時は

塔婆を優しく抱き戒名を勧請され、感動したことを思い出しました。

百ヵ日法要の塔婆を持参され初盆を兼ねてのお参りとなりました。

今は堂々たる風格で、丁寧に勧請され

お経の読誦と木魚を叩く姿も大変すばらしかったです。

帰り際に五日後の『施餓鬼供養』の案内をされ次の棚経へと行かれました。

帰りに足下を見ますと雨天用の雪駄があることに初めて知りました。

外には運転手さんが待っておられました。
 
無常の賦

十二因縁という、人生を織りなす連鎖によって、

私たちの心は、猿が欲望のままにとびまわるように、

いつも無明(まよい)によって動かされています。

また、四苦・八苦の苦しみによって

私たちの心の奥はいつも悩まされ続けているのです。

燃えさかる三毒(むさぼり・いかり・おろかさの三つの根本煩悩)の

爓(ほのお)は、昼となく夜となく燔(も)え続け、

鬱蓊(うつおう)と茂る百八の煩悩の藪は、

夏といわず冬といわず茂りに繁っています。


万条の位の人の、宝のような姿も、

死後はただ一条の野辺の煙とともに

大空へ舞い昇っていきます。

千の嬌(なまめ)かしさの妙なる姿態も、

腐れ爛(ただ)れた身体になってしまえば、

だれがそのようなものに近づきましょうか。

無常という暴風は、神仙さえもようしゃしませんし、

精魂をうばう、どうもうな死神は、

貴賤(きせん)の身分などまったく区別しないのです。


墓所に生い茂る薜蘿(つたかずら)だけが

死後の私たちを覆う日常の飾りなのです。


あかつちを塗った堂宇(たかどの)や、

白壁の邸宅(やしき)はいまあなたが仕合せに住んでいますが、

これから永く続いていくわけではないのです。


人々の尸骸(しがい)は草の中に爛(ただ)れ果てて

もとの形を留めませんが、

神識(こころ)は裁かれて地獄等へいき、

そこで沸えたぎった大釜で煎られ苦しめられ、

自由などまったくききません。

恐怖におびえる人たちの哭(な)き叫ぶ声が

毎朝、朝がくるたびに大空にひびきますが

なんの反応もなく、毎夕、夕方がくるたびに絶望だけが残っています。


閻魔大王に頼んでも少しもきいてくれませんし

妻子を呼んでみても、もはや死後の自分にはかまってくれません。


嗚呼、何と苦しいことでしょう。

何と痛ましいことでしょう。



私たちが生きている間に正しい道に向かって努力しないと、

こうした地獄の苦しみ、辛さに会うことになるのです。

生きている間に勉め励みましょう。

光に向かって勉め励みましょう。

        三教指帰・・・(無常の賦) 弘法大師空海



春の花はやがて枝の下に散り、
秋の露ははかなく葉の上で沈(き)えていきます。




人生はすべて仏の光を浴び
仏に向かって歩むところにその意味がある。