夢から慈しみの世界へ

神と自然と人間の共生
神一元・善一元・光明一元の生活
人間の生命の実相は『仏』であり、『如来』であり『神の子』である

若いアメリカ人

2011年11月13日 16時41分06秒 | コンコードの哲人 エマソン

われわれの家や町は苔や地衣のようなもので、弱々しくかつ新しい。

若さはわれわれが日々改めてゆく欠陥である。

またこの国の土地はノアの大洪水と同じ古さをもち、自然から授けられる装飾や特権には不足していない。ここには星、森、丘、動物、人間が豊かに存在し、同時に新秩序への大きな風潮が起ころうとしている。

人々が、われわれをここまで導き、なお導きつつある「精神」ともっぱら協力すれば、われわれは他人の非難がきこえないところに、またわれわれ自身の後悔の気持ちからも、たちまち脱出して、歴史に記録されたどれよりも新しいすぐれた社会の状態に入るであろう。

エマソン選集 若いアメリカ人より


名島城と名島弁財天

2011年11月13日 14時19分56秒 | 歴史

筑前 名島城(現福岡県東区名島)水軍の総師の小早川隆景が築いた海城。

天文年間(16世紀半ば)に立花鑑載が立花山城の出城として築城。

1587年(天正15年)3月 羽柴秀吉が九州征伐のため大阪を出発。

5月 秀吉が島津義久を降服させ九州を平定する。

豊臣秀吉は筑前国・豊後国・肥前国等を毛利の重臣小早川隆景に与える。

秀吉が淀殿を伴い名島城に立ち寄り宿泊する。弁財天を大阪城にも祀っていることもあり名島弁財天を参拝して“弁財天は福神なるに 荒れてさびしき貧神なり”と

水軍の総師である小早川隆景は三方に海に囲まれて、水軍の格好の立地である名島城を大改修して居城とする。

名島神社より弁財天を城内の弁天曲輪に移し城の鎮守とした。

1592年(文禄12年)3月26日秀吉肥前名護屋城に向かう。

1595年(文禄 14年)小早川隆景が安芸・備後(現広島県三原市)の三原城に隠居し小早川秀秋が307000石で相続する。

1597年(慶長2年)6月12日 小早川隆景の死。

           7月15日 巨済島の海戦で日本水軍敗れる。

1598年(慶長3年)8月18日 豊臣秀吉の死。

1600年(慶長5年)9月15日 関が原の戦い後小早川秀秋は岡山城に51万石で加増転封される。

1602年(慶長7年)      豊前国中津より黒田長政52万石300石で入城し名島城を廃城とし主な楼門・石垣等を福岡城に移築する。