島崎藤村は25歳のときに出した『若菜集』などで、詩人としての地位を確立しました。だけどその生活はあいかわらず貧しかったのです。藤村は結婚して、すぐに3人の子持ちとなりました。
小説を書くようになった藤村は1906年、代表作となる「破戒」を自費出版します。差別を扱った衝撃の大作は、大きな反響を呼びました。
しかし、その執筆の犠牲はとても大きなものだったのです。
極貧の中で書き続けたため、三女、次女、長女の順にこども3人ともが栄養失調で倒れて死亡してしまいます。挙句の果てには妻の冬子も目を悪くし、死亡してしまいます。「破戒」の執筆に集中し、家計を切り詰めた結果の悲劇です。
作家の志賀直哉は腹を立てて藤村を批判しました。
「小説の完成が三人の娘の死に値するか」
藤村は、小説のためには家族を犠牲にすることも厭わなかったのです。