僕の感性

詩、映画、古書、薀蓄などを感性の赴くまま紹介します。

男子バレー

2008-05-31 23:54:05 | Weblog
 日本男子バレー、強豪イタリアに善戦しましたね。


日本はイタリアの高さにリズムをつかめず第1セットを失いましたが、第2セットから越川(サントリー)、山本(パナソニック)の攻撃が決まり出し、続けざまに2セットを連取。

 しかし、第4セット、24-17と大差でマッチポイントを迎えながらミスが相次ぎ、ジュースの末にこのセットを失うと、最終セットも主導権を握れないまま、イタリアに押し切られ、手痛い黒星を喫しました。

植田監督は、選手に強い闘争心をもって戦えと言い聞かせたそうです。
今日の試合にそれは充分感じられたので、明日以降の試合が楽しみです。

みやこわすれ

2008-05-31 23:30:08 | Weblog

家の庭の「みやこわすれ」です。
承久の変で敗れた順徳天皇は、幕府によって佐渡に流されました。
ある日、庭の片隅に一輪の清楚で小さな花に目がとまり暫く眺めていました。
「京の都が恋しいけれど、この気品ある美しい花を見ていると心が和む。束の間だけでも都を忘れさせてくれる。」
こう言われたそうです。
渺茫とした時空を超えて、天皇の微笑(ほほえみ)が感じられるでしょうか。

東海林はなぜ「しょうじ」なのか

2008-05-28 19:46:58 | 歴史
山形には、東海林で「とうかいりん」と読む苗字が多いです。東海林の発祥の地は山形県ですが、やがて東海林一族は秋田県に広がっていきました。
そして荘園の管理をする仕事につくようになりました。つまり荘園の管理者を荘司(庄司)といったので、東海林さんを「しょうじ」と呼ぶようになったのです。

東海林太郎、東海林のりこ、東海林さだお
いずれも「しょうじ」さんですよね。

前九年の役と後三年の役

2008-05-28 00:20:05 | Weblog
前九年の役と後三年の役について勉強しました。
前九年の役では陸奥の蝦夷、安倍氏が滅び、藤原経清も斬首されました。
後三年の役では、経清の息子清衡が、父の仇である源頼義の息子、義家を味方につけ、出羽の俘囚、清原氏を滅ぼしました。
後に清衡は藤原姓に戻し、栄耀栄華を極めた、奥州藤原氏の祖となるのです。
また、源頼義と源義家ら河内源氏の活躍が、後の源頼朝ら源氏の台頭へとつながるのです。

Back To The Future

2008-05-27 23:57:24 | Weblog


BSでまたBack To The Futureを観ました。
昨日のパート1は爽快でした。
特にマーティが演奏したチャック・ベリーの「ジョニー・B・グッド」には痺れます。
また、父親のジョージが立派な小説家に変身したのには、溜飲を下げ痛快ですね。

自分は、タイムマシン「デロリアン」に乗って、高校の頃に戻りたいな~

日本が接戦を落としたセルビアとは?

2008-05-25 23:57:29 | Weblog
バレーボール女子は惜しくもセルビアに負けちゃいましたよね。
ところで、セルビアはどこの国かご存知ですか?
もとは、ヨーロッパの火薬庫といわれた、バルカン半島にある、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国だったのです。

ユーゴスラビア社会主義連邦共和国は

七つの国境(イタリア、オーストリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、ギリシア、アルバニア)
六つの共和国(スロベニア、クロアチア、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、マケドニア)
五つの民族(スロベニア人、クロアチア人、セルビア人、モンテネグロ人、マケドニア人)
四つの言語(スロベニア語、セルビア語、クロアチア語、マケドニア語)
三つの宗教(正教、カトリック、イスラム教)
二つの文字(ラテン文字、キリル文字)
一つの連邦国家
といわれるほど複雑でした。


バルカン半島にあった連邦国家、ユーゴスラビア連邦。

第一次世界大戦でオーストリア=ハンガリー帝国から独立。

第二次世界大戦時には枢軸国によって占領されるが、チトー(ティトー)指揮するパルチザンの活躍によって自力解放を果たし、これがソ連軍の占領を受けた他の東欧諸国との運命の分かれ道となりました。

戦後、チトーの指導下に東西両陣営のいずれにも属さぬ独自路線を歩むことに成功します。

チトー死後内政が混乱し、1991年にクロアチア、スロベニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニア(旧ユーゴスラビア・マケドニア)の各国が独立し、連邦はセルビアとモンテネグロの2か国で構成されることになりました。

その後、ミロシェビッチ大統領時代を経て、2003年にセルビア・モンテネグロと改名。2006年にモンテネグロが独立し、連邦は消滅しました。

このように歴史的背景は複雑ですが、ユーゴスラビア自体、パズルのように組み立てられた人工的な国家だったのですね。
多様性を内包した国家でありましたが、長年にわたる紛争の結果、それぞれ6つの国が独立しました。



一握の砂

2008-05-24 00:12:06 | Weblog
 今日、いやもう昨日か、石川啄木著の「一握の砂」の復刻本が届きました。
岩手の人には、宮沢賢治は絶大の人気がありますが、啄木はその借金癖と不義理の性(さが)のせいか、あまり人気がないようです。
 自分は大学の卒論に啄木を選んだぐらいだから、彼の作品には愛着があります。

 君に似し姿を街に見る時の

 こころ踊りを

 あはれと思へ

久々に拾い読みした歌のなかで、珠玉の一首にこれを挙げます。

万葉集の木簡

2008-05-23 23:40:48 | Weblog
 聖武天皇が造営した紫香楽宮(742-745年、滋賀県甲賀市)跡で出土した木簡に、最古の歌集、万葉集の「安積山の歌」が書かれていたことが分かり、市教育委員会が22日発表した。万葉集の歌の木簡が見つかったのは初めて。

 反対の面には「難波津の歌」が記されていた。両歌は、平安時代に紀貫之が古今和歌集の仮名序(905年)で「和歌を習得する際に必ず学ぶもの」として「歌の父母」と記している。2つの歌が書かれた史料としては仮名序より約150年さかのぼり、古典文学の成立過程を解き明かす発見となりそうだ。

 木簡は1997年に出土。幅は約2センチ、厚みはわずか1ミリで、これまで木簡の削りくずとみられていた。一部が欠けており、長さは約60センチと推定されている。

 以上の記事が新聞に載っていました。木簡の発見は度々ありますが、万葉の歌が書かれているものは珍しいと思います。

 木簡片面には「阿佐可夜(あさかや)」「流夜真(るやま)」と、万葉仮名の表記が肉眼と赤外線写真で確認でき、万葉集の「安積山(あさかやま)の歌」と分かります。

 覆土の年代や紫香楽宮の造営時期から、木簡が書かれたのは744年末から翌年初めと推定。万葉集の成立は745年以降とされるため、この木簡は万葉集より古い可能性が高いのです。役人の間で広く読まれていた「安積山の歌」が、後に万葉集に収められたと推測されます。

 木簡のもう一方の面にも「奈迩波ツ尓(なにはつに)」「久夜己能波(くやこのは)(奈布(なふ))由己母(ゆごも)」と書かれ、万葉集には収録されていないが古代から伝わる「難波津(なにわづ)の歌」の一部がありました。

難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花

安積山影さへ見ゆる山の井の浅き心を我が思はなくに

 古今集仮名序は二つの歌を最初に習う歌と紹介、今回の発見で、2首を1対とする伝統が、仮名序を160年さかのぼる奈良時代から続いていたことが明らかになりました。
 また、万葉集編集の材料として、木簡も使われていた可能性がわかりましたよね。


 




死体蝋燭

2008-05-22 00:19:26 | Weblog

ちょっと長いですが、どんでんがえしが面白い作品です。
  

死体蝋燭

 

小酒井不木

 
 

 宵(よい)から勢いを増した風は、海獣の飢えに吠ゆるような音をたてて、庫裡(くり)、本堂の棟(むね)をかすめ、大地を崩さんばかりの雨は、時々砂礫(すなつぶて)を投げつけるように戸を叩いた。縁板という縁板、柱という柱が、啜(すす)り泣くような声を発して、家体は宙に浮かんでいるかと思われるほど揺れた。
 夏から秋へかけての暴風雨(あらし)の特徴として、戸内の空気は息詰まるように蒸し暑かった。その蒸し暑さは一層人の神経をいらだたせて、暴風雨の物凄(ものすご)さを拡大した。だから、ことし十五になる小坊主の法信(ほうしん)が、天井から落ちてくる煤(すす)に胆(きも)を冷やして、部屋の隅にちぢこまっているのも無理はなかった。
「法信!」
 隣りの部屋から呼んだ和尚(おしょう)の声に、ぴりッと身体をふるわせて、あたかも、恐ろしい夢から覚めたかのように、彼はその眼を据(す)えた。そうしてしばらくの間、返答することはできなかった。
「法信!」
 一層大きな和尚の声が呼んだ。
「は、はい」
「お前、御苦労だが、いつものとおり、本堂の方を見まわって来てくれないか」
 言われて彼はぎくりとして身をすくめた。常ならば気楽な二人住まいが、こうした時にはうらめしかった。この恐ろしい暴風雨の時に、どうして一人きり、戸締まりを見に出かけられよう。
「あの、和尚様」
 と、彼はやっとのことで、声をしぼり出した。
「なんだ」
「今夜だけは……」
「ははは」
 と、和尚の哄笑(たかわら)いする声が聞こえた。
「恐ろしいというのか。よし、それでは、わしもいっしょに行くから、ついて来い」
 法信は引きずられるようにして和尚の部屋にはいった。
 いつの間に用意したのか、書見していた和尚は、手燭の蝋燭(ろうそく)に火を点じて、先に立って本堂の方へ歩いて行った。五十を越したであろう年輩の、蝋燭の淡い灯によって前下方から照し出された瘠(や)せ顔は、髑髏(どくろ)を思わせるように気味が悪かった。
 本堂にはいると、灯はなびくように揺れて、二人の影は、天井にまで躍り上がった。空気はどんよりと濁って、あたかも、はてしのない洞穴(ほらあな)の中へでも踏みこんだように感ぜられ、法信は二度と再び、無事では帰れないのではないかという危惧の念をさえ起こすのであった。
 正面に安座まします人間大の黒い阿弥陀如来(あみだにょらい)の像は、和尚の差し出した蝋燭の灯に、一層いかめしく照し出された。和尚が念仏を唱えて、しばらくその前に立ちどまると、金色の仏具は、思い思いに揺れる灯かげを反射した。香炉、燈明皿(とうみょうざら)、燭台、花瓶、木刻金色(もっこくこんじき)の蓮華をはじめ、須弥壇(しゅみだん)、経机、賽銭箱(さいせんばこ)などの金具が、名の知れぬ昆虫のように輝いて、その数々の仏具の間に、何かしら恐ろしい怪物、たとえば巨大な蝙蝠(こうもり)が、べったり羽をひろげて隠れているかのように思われ、法信の股の筋肉は、ひとりでにふるえはじめた。
 和尚は再び歩き出したが、さすがの和尚にも、その不気味さは伝わったらしく、前よりも速めに進んで、ひととおり戸締まりを見まわると、蒼白い顔をしてほッとしたかのように溜息(ためいき)をついた。
 しかし、和尚は、何思ったか再び恐ろしい本堂に引きかえした。そうして、阿弥陀如来の前に来たかと思うと、真下にあたる勤行(ごんぎょう)の座につき、手燭をかたわらに置いて言った。
「法信、礼拝だ」
 法信は機械(からくり)人形のようにその場にひれ伏した。しばらく和尚とともに念仏をとなえて、やがて顔をあげると、如来の慈悲忍辱(じひにんにく)の光顔(こうがん)は、一層柔和の色を増し、暴風雨にも動じたまわぬ崇高さが、かえって法信を夢のような恐怖の世界に引き入れた。
「恐ろしい風だなあ」
 和尚の言葉に法信はどきりとした。
「時に法信!」
 しばらくの後、和尚は突然あらたまった口調で、法信の方に向き直って言った。
「今夜わしは、阿弥陀様の前で、お前に懺悔(ざんげ)をしなければならぬことがある。わしは今、世にも恐ろしいわしの罪をお前に白状しようと思う。幸いこの暴風雨では、誰にきかれる憂いもない。耳をさらえてよく聞いておくれよ」
 和尚はその眼をぎろりと輝かして一段声を高めた。
「実はなあ、お前はわしを徳の高い坊主だと思っているかもしれんが、わしは阿弥陀様の前では、じっとして坐っておれぬくらいの、破戒無慚(はかいむざん)の、犬畜生(いぬちくしょう)にも劣る悪人だよ」
「えッ?」
 あまりに意外な言葉に法信は思わず叫んで、化石したかのように全身の筋肉をこわばらせ、和尚の顔を穴のあくほどながめた。
「わしはなあ、人を殺した大悪人だ。さあ、驚くのも無理はないが、お前がこの寺に来る前に雇ってあった良順(りょうじゅん)という小坊主は、あれはわしが殺したのだ」
「嘘(うそ)です、嘘です、和尚さま、それは嘘です。どうぞ、そんな恐ろしいことはもう言わないでください」
「いや、本当だよ。阿弥陀様の前で嘘は言わぬ。良順は、表て向きは病気で死んだことになっているが、その実、わしが手をかけて死なせたのだ。それには事情(わけ)があるのだよ、深い事情があるのだよ。その事情というのはまことに恥ずかしいことだけれども、これだけはどうしてもお前に聞いてもらわねばならん。
 わしは坊主となって四十年、その間、ずいぶん人間の焼けるにおいを嗅(か)いだ。はじめはあまり心地のよいものではなかったが、だんだん年をとるにしたがって、あのにおいがたまらなく好きになったのだ。そうしてしまいには、人間の脂肪の焼ける匂いを一日でも嗅がぬ日があると、なんだかこう胸の中が掻(か)きむしりたくなるような、いらいらした気持になって、じっとして坐っていることすらできなくなったのだ。あさましいことだと思っても、どうにも致し方がない。魚を焼いても、牛肉を焼いても、その匂いは決してわしを満足させてくれぬ。あの、したまがりの花の毒々しい色を思わせるような人肉の焼けるにおいは、とても、ほかのにおいでは真似(まね)ができぬ。
 お前は、わしがこのあいだ貸してやった雨月物語の青頭巾(あおずきん)の話を覚えているだろう。童児に恋をした坊主が、童児に死なれて悲しさのあまり、その肉を食い尽くし、それからそれに味を覚えて、後には里の人々を殺しに出たというあの話を。わしは、ちょうど、あのとおりに人界の鬼となったのだ。そうして、とうとう、そのために、良順を殺すようなことになったのだ。
 良順がしばらく病気をしたのを幸いに、わしはひそかに毒をあたえて、首尾よく彼を殺してしまった。まさか、わしが殺したとは誰も思わないから、ちっとも疑われずに葬式を出した。しかし、彼が焼かれる前に、彼の肉は、ことごとく、わしのために切りとられたのだ。そうしてそのことは、もとより誰も知るはずがなかったのだ。
 それから、わしがその良順の肉をどうしたと思う。さすがにわしもたびたび人を殺すのは厭(いや)だから、なるべく長い間、彼の肉の焼けるにおいを嗅ぎたいと思ったのだよ。そこでいろいろと考えた結果、ふと妙案を思いついたのだ。それはほかでもない、その肉の脂肪から、蝋燭を作ろうと考えたのだ。蝋燭ならば坊主の身として、朝晩それを仏前で燃やしてにおいをかぎ、誰に怪しまれることもない。それに蝋燭にしておけば、かなり長い間楽しむことができる。こう思って、わしはひそかに手ずから蝋燭を作ったよ。普通の蝋の中へ良順の脂肪をとかしこんで、わしは沢山思いどおりのものを作った。
 そうして毎日、わしはもったいなくも、勤行の際に、その蝋燭を燃やして、わしの犬畜生にも劣る慾を満足させておった。時には勤行以外のおりにも、蝋燭を燃やして楽しんだことがある。だが今日まで、仏罰にもあたらず暮らしてきた。思えば恐ろしいことだった。
 ところが、法信、わしの作った蝋燭には限りがある。毎日一本ずつ燃やしても一年かかれば三百六十五本なくなる。だんだん蝋燭がなくなってゆくにつれて、わしは言うに言えぬもどかしさを覚えたよ。この二、三日、わしはなんともいえぬやるせない心細さを感じてきた。これではなんとかしなければならんと、法信、わしは食べ物も咽喉(のど)をとおらぬくらい考え悩んだのだ。
 ここにいま燃えているのが、良順の脂肪でつくった蝋燭のおしまいだ。わしは先刻から気が気でないのだ。法信、わしは良順の代わりがほしくなった。わしは、法信、お前を殺したくなった。
 こら、何をする! 逃げようったとてもう駄目だ。この暴風雨は、人を殺すに屈竟(くっきょう)の時だ。これ泣くな、泣いたとて、わめいたとて、誰にも聞こえやせん。お前はもう、蛇(へび)に見こまれた蛙(かえる)も同然だ。いさぎよく覚悟してくれ、な、わしの心を満足させてくれ、これ、どうかわしの不思議な心をたのしませる蝋燭となってくれ、よう」
 和尚に腕をつかまれた法信は、絶大な恐怖のために、もはや泣き声を立てることすらできず、その場に水飴のようにうずくまってしまった。でも、今が生死のわかれ目と思うと、その心は最後の頼みの綱を求めて、思わず歎願の言葉となった。
「和尚さま、どうぞ勘弁(かんべん)してくださいませ。わたしは死にたくありません、どうぞどうぞ、生命をお助けくださいませ」
「ふ、ふ、ふ」
 和尚は悪魔の笑いを笑った。その時、暴風雨は一層つよく本堂をゆすぶった。
「これ、この期(ご)になって、お前がいくら、なんといっても、わしはもう容赦(ようしゃ)しない。さあ、覚悟をせい!」
 こう言ったかと思うと、和尚は腰のあたりに手をやって、ぴかりとするものを取り出した。
「わッ、和尚さま、後生です、どうかその刃物だけは、どうか、御免なされてくださいませ! わたしは厭です、殺されては困ります」
 この言葉をきくなり、和尚はふり上げた腕をそのまま、静かに下ろした。
「お前はそれほど生命がほしいのか」
「はい」
 法信は手を合わせて和尚を拝んだ。
「それでは、お前の生命は助けてやろう。その代わり、わしの言うことをなんでもきくか」
「はい、どんなことでもします」
「きっとだな?」
「はい」
「そうならわしの人殺しを手伝ってくれるか」
「え?」
「お前を助ければ、その代わりの人を殺さにゃならん。その手伝いをお前はするか」
「そ、そんな恐ろしいこと」
「できぬというのか」
「でも」
「それならば、いさぎよく殺されるか」
「ああ、和尚さま」
「どうだ」
「ど、どんなことでも致します」
「手伝ってくれるか」
「は、はい」
「よし、それではこれからすぐに取りかかる」
「え?」
「これから人殺しをするのだ」
「どこで……」
「ここで」
「誰を殺すのですか」
 和尚は返答する代わりに、殺気に満ちた顔をして、左手で、阿弥陀如来の方を指した。
「それではあの阿弥陀様を?」
「そうではない。あの尊像の後ろには、今、この暴風雨に乗じて、この寺にしのび入った賽銭(さいせん)泥棒がかくれているのだ。それをお前の身代わりにするのだ。さあ来い」
 和尚は立ち上がった。が、法信が立ち上がらぬ前に、そこに異様な光景があらわれた。
 阿弥陀如来の後ろから、巨大な鼠(ねずみ)のような真っ黒な怪物が、さッと飛び出して、あたりのものを蹴散らかし、一目散(いちもくさん)に逃げ出して行った。法信が、それを覆面の泥棒だと知るには幾秒かの時間を要した。
「やッ、和尚さま!」
 不思議にもその時恐怖を忘れた彼が、こう叫んで、泥棒のあとから駈(か)け出そうとすると、和尚はぎゅッと彼の腕をつかみ今までとは似ても似つかぬやさしい顔をして言った。
「捨てておけ。逃げたものは逃がしておけ。だが、法信、勘忍(かんにん)してくれよ。今のわしの話した蝋燭の一件は、あれはわしがとっさの間にこしらえた話だよ。さっき、わしは阿弥陀様の後ろに、ちらッと動くものを見たので、さては、泥棒がこの暴風雨に乗じて賽銭を盗みに来たのだと知ったが、うっかりわめいては、先方がどんなことをするかも知れぬと思ったから、これは策略で追い散らすより外はないと考えたのだよ。刀でもふりまわされた日にゃ、二人とも殺されてしまうかもしれないからなあ。でも、幸いに、泥棒もわしの話を本当だと思って逃げて行った。なに、この蝋燭は普通のものだよ。良順は病気で死んだに間違いない。実は今夜わしは雨月物語を読んでいたのだ。それから思いついたのだ、お前をびっくりさせたあの話を」
 こう言って右手にもった光るものを差し出し、さらに続けた。
「お前が刃物だといったのは、この扇子(せんす)だよ。恐ろしい時には、物が間違って見える。きっとあの泥棒もこれを刃物だと思ったにちがいない……」
 暴風雨はいぜんとして狂いたけった。




四葉のクローバー

2008-05-21 23:56:03 | Weblog
 クローバーとも呼ばれる「シロツメクサ」。
江戸時代にオランダからガラス製品が送られてきたとき、詰め物として使われていたので「詰め草」と呼ばれました。
 これまで記録された中で、最も多くの小葉を持つクローバーは18枚の小葉を有していたそうです。三つ葉のクローバーの個体10,000につき、おおよそ1の頻度で四つ葉のクローバーが出現すると推定されています。
 わたしも小さい時、林檎畑で5枚葉、6枚葉、7枚葉、8枚葉のクローバーを見つけて、ちょっと喜んだ思い出があります。今でも、四つ葉のクローバーを見つけるのは得意ですね。ただ偶然発見した時に幸運が訪れるのであって、意識して探す人にはあまり効果はないようです。
 伝説によれば四つ葉のクローバーの小葉は、それぞれ希望・誠実・愛情・幸運を象徴しているとされています。