僕の感性

詩、映画、古書、薀蓄などを感性の赴くまま紹介します。

卓球に行ってきた

2011-08-30 20:42:28 | 卓球
昨日コメント下さったかたごめんなさい。
明日コメント返しますからね。

久しぶりに卓球に汗を流してきました。

3年のN.Aに遭遇、クラスマッチの練習を頑張っていました。いい顔してたな~

一年生たちは来る新人戦に向けて無欲で頑張っていました。
ダブルスが弱いということでした。
レシーブがお粗末なので、徹底的に苦手なレシーブを習得するよう
反復練習しました。
またコースに2度ボールを送られると、足がもたついてしまうので、
しっかり練習しました。

練習の途中で、S先生が挨拶に来てくださって
また繰り出しましょうとおっしゃってくれました。

また3年男子のT.KとS.Yも並んで挨拶してくれ、ちょっとこそばゆい感じがしました。
引退してからも後輩の面倒を見てくれる君たちはなんてすばらしいのだろう!

今日の練習は息も絶え絶えでなんか非常に疲れました。
日曜日はオールジャパンの県大会があるので是非応援に行かねば!

続 有島武郎

2011-08-29 13:22:22 | 文学
太宰治は紐をくくり付けられて、女と心中せざるを得なかった。
芥川は、本当は二人で死にたかったが、勇気を奮い起こし一人で死んだ。

文筆に携わる人は不思議と死を早めてしまう。

それでは有島武郎の場合、死に向かわせたものは何だったのだろうか。

彼は、フランス哲学で最もロマンティックな主観主義であるベルグソン哲学の心酔者であった。
「惜しみなく愛は奪う」の中でこう書いている。

「愛が完(まつた)ふされたときに死ぬ。すなはち、個性がその拡充性をなしとげて、なおあまりあるときに肉体を破る。愛したものの死ほど、心安い潔(きよ)い死はない」

これは、ベルグソンの哲学を、ホイットマンの個人主義の思想とをつなぎあわせることによって、有島武郎の恋愛至上主義の哲学に置き換えたものだ。

すこし通俗的な話に変えよう。
彼、有島武郎は、作風がヒューマニスティックでありながら、案外感傷的なその作風から女性の愛読者が多かった。それと同時に夫人を早くになくしているので、肉体的に清潔さを守り続けていることも強い魅力になっていたらしい。
波多野秋子も愛読者のひとりだったのだ。彼女の夫は金銭以外興味がない粗忽な男だった。まして美懇第一主義的な有島にとって美しい秋子はうってつけだった。
求愛の点では彼女のほうが積極的だった。そして前から胸を病んでいて、そのことが普段から死にたい欲求を植えつけていた。
まだ20代の秋子に夫のあることを知ったときには、もう秋子の魅力の網に中に深く包まれたあとだった。
二人の関係が波多野の夫の知るところとなった。
有島武郎は事務所に呼び出され、秋子の夫に脅迫されるのであった。

「それほどお前の気に入った秋子ならよろこんで進上しよう。しかし俺は商人だ。ただでは提供しない。それに相当した賠償金をよこせ。お前を苦しめるのには金をとるのが一番だ。ただし、一度だけ支払えばそれでいいと思うな。俺は一生お前を苦しめてやる。」


また二人が亡くなる前日、テロリズムを目的とした無政府主義者の秘密結社の中心人物たちに軍資金調達の名目で2000円巻き上げられている。


彼は、二枚目で紳士的なだけではなく、ヒューマニスト(人道主義者)であった。
1922年(大正11年)、北海道の八雲にあった農地二百何十町歩かをタダで小作人にわけてやった。
また、大杉栄が欧州に脱出する際、旅費として1万円渡している。今の1000万に近い金である。


有島武郎の心中に対しては、賛否両論あろう。

師であった内村鑑三は「この度の有島氏の行為を称えるものが余の知人に居るならば、その者との交流を絶つ」と言明したそうだ。





有島武郎

2011-08-28 20:48:42 | 文学


この男性は、白樺派の中心人物、有島武郎である。

「カインの末裔」とか、「或る女」とか読まれた読者も多いことだろう。

彼は大農場の地主に生を受け、お金には不自由しないで過ごした。

それゆえに軟弱でお坊ちゃんというレッテルを貼られてきたように思う。

また逢ったことのない作家達は、わざとらしい気障な文章を書くと一方的にさげすんでいるものもいたらしい。

けれど彼は1923年、45歳の若さで天国に旅立ったのだ。
婦人公論記者の波多野秋子と軽井沢の別荘で心中した。

なぜ彼は、恩師もいて、愛する子ども達もいるのに死を選んでしまったのだろうか。

続きは明日書きたいと思う。

お土産と暑いのに寄せ鍋

2011-08-22 15:27:25 | 食べ物
真面目な大学生N君にお土産をいただきました。




恋の町札幌

いいタイトルです。ありがとう!


娘の同級生の親御さんからも送られてきました。

熊本MONARIOのキャピタルフーズの豆乳ゼリー

ぷるんぷるんで瑞々しくて最高でした!




マンゴーにメロン、イチゴ、ライチ、ラフランスでございます。


そして夕食は、すご~く暑いけれど汗をかきかき寄せ鍋でありあした。

きのこ、豚バラ、牛肉、エビ、シラタキ、白菜、ニンジン、ネギと盛りだくさんなり。



グリーンも興味深々でしたよ^^


昨日の食事

2011-08-12 14:22:22 | 食べ物
昨日の夕ご飯は、大根葉のお浸し。


ゴーヤとお肉の炒め物





そして・・・ちょっと抵抗あるかな??



エビに見えるがザリガニの素揚げ!

ってうそだぴょーん。

有明海直送のマジャク。 アナジャコとも言う。
シャコの名前がつくが、シャコはトゲエビ亜綱 口脚目シャコ科なのに対して
エビ科ヤドカリ下目、アナジャコ科とシャコとは似て非なる生物なのだ。

調理する前のお姿


食欲わきましたか?

捕まえ方が独特で、干潟の巣穴に筆を差し込んで
「邪魔だな~こいつ」と出てきたところをすばやくとっ捕まえるのだ。
縄張り意識を利用した漁だにゃあ。

天ぷらや素揚げにしたマジャク(アナジャコ)を頭から頬張ったら、オレンジ色の卵を抱えていた。そして意外にも殻が柔らかくパリパリとエビせんのような食感と味覚がした。
4種類のペッパーと塩をかけて熱々を食べたら、図らずも美味しかった。
エビと似ているな~ 多分ザリガニもこんな味がすると思う。


次は6億年前から姿かたちが変わらない「生きた化石」と言われている「ミドリシャミセンガイ」。メカジャ(女冠者)ともいう。
貝と名がつくが、アサリなどの軟体動物ではなく、腕足動物に属するらしい。




豆もやしに見える? それとも古代の三葉虫?
この奇妙な生物は砂泥に穴を掘り、長い尾を下にして潜っているそうだ。
最近、絶滅危惧種にも選ばれているそうだ。


そして、よく洗って、醤油と味醂とお酒で炒めてみた。
熱を加えると貝が開いて、内臓を含んだ身が露になる。珍味という感じ。
尾は筋肉質でコリコリと食感がよく、中身はアサリの缶詰のような濃厚な味がした。




絶滅危惧種? 生きた化石? へへへ~^^ 食べちゃった。

亀太郎の逃亡

2011-08-10 16:20:50 | 生き物

亀太郎と亀子である。
左が亀太郎。二匹はクサガメである。漢字で書くと「臭亀」。
腋の下に臭いにおいを出す腺があり、それで不名誉な名前を付けられた。
私は、「草亀」とずっと信じており、タライに水を張って棲息させているが
すぐ臭くなるので、餌のやり過ぎかなと勘違いしていた。

すぐ臭くなるので、水の交換を頻繁に行う。
外の水道の水の出が悪いので、水を出しっぱなしにしていてその場から離れた。
そうして仕事をしていたら、タライと亀のことを忘却してしまったのだ。

気付いたときには、水がたらいから溢れ、二匹はいずこへと逃げてしまっていた。

亀子は図体がでかくのろまなので、近くですぐ見つかったが、とても尋常では考えられないほど走るのが速い亀太郎は何処にも見つからなかった。
探せでも探せども見つからない。
車の下や側溝の雑草を掻き分けて探しても、その姿は杳として知れず。

今ごろ暑さで干からびていなきゃいいけどと思って何気なく自販機の隙間を見たら
いだ~!!

彼は身動きできず隙間でもがいておった。
虫取り網で下から掬って救ってあげた。

ていうかすべて私の不徳とするところであったのだ。

追記
亀太郎と亀子は仲が良いので、毎年2個ぐらい卵を産む。
けれど暫くするとどちらかが食べちゃうらしくたらいに殻だけが残るのだ。




保科正之

2011-08-02 14:55:25 | 歴史



昨晩、BSで「ナンバー2保科正之」という番組を観た。

保科正之というと、秀忠の息子であるということと、白岩一揆の首謀者をだまし討ちで処刑した人物という悪いイメージを持っていた。

けれど、領民のことを真っ先に考える慈悲に溢れた人物だということがわかった。

彼は本来、生まれてくる人物ではなかった。二代将軍秀忠の正室お江は、乳母の侍女である静(しず)の子を面白く思わなかった。
お江は気性が荒く、大奥の秩序のため幸松(正之の幼名)を堕胎せよと命じた。

けれど秀忠の老中職の土井利勝(家康のご落胤と言われる)の進言により、幸松は武田信玄の次女の穴山梅雪に匿われることになる。
(静の手紙)

その後、旧武田氏家臣、信濃高遠藩主保科正光に預けられ養子となった。

徳川家の本流を為すことも叶わず、幼くして波乱万丈の道を余儀なくされる運命(さだめ)を背負っていた。


彼、保科正之が名君だという数々のエピソードがある。

会津藩主とともに幕政にも身を置いていた正之に1657年江戸で明暦の大火が起こる。
当時イロハ火消しもまだなかった頃で、江戸の町はことごとく灰燼に帰した。
約10万人もの民が亡くなったといわれている。

このとき、正之はまず何をしたか。

浅草にあった米蔵の火を消すために
「米蔵の火を消し止めた者に、米の持ち出しを許す」という御触れをだした。
正之のすばやい機転で、火が消し止められ、領民を救うといった一石二鳥を成し遂げた。

そのほか、焼き出された人たちに7000両かけて、粥の炊き出しを行った。

最初は腹をくださないよう、柔らかい粥を作り、そのあと固めのお粥を食べさせた。
細かいところまで行き届いた気配りである。

火災で逃げ場を失った人は隅田川に逃げてきたが、川を渡れず多くの者が亡くなった。
そのことをきっかけに正之は武蔵国と下総をまたがる大橋を架設した。
武蔵と下総の両国を結んだので「両国橋」と言う。

また上野に広小路を設置。煙や火の拡張を防止した。

驚いたことに焼けてなくなった江戸城の天守閣を新たに復興するのを止めたのも保科正之の政策である。
ただ遠方を眺めるだけの天守閣を必要としなかったのである。


3代将軍家光は亡くなる床で、正之に家綱の後見人になってくれと託して死ぬ。
彼は家光の遺言通り、幼い家綱の補佐役に徹する。
正之が行った三大美事(三大善政)も家綱の政策になっている。

①殉死の廃止
②大名証人制度の廃止(人質の廃止)
③末期養子の禁の緩和

そして、絶対的水不足を解消するために玉川上水の掘削を行った。
敵の侵入を容易にすると言う理由で多くの幕僚に反対されたが、正光はいつものごとく断行した。
それが350年の今日の都民の水も供給しているのである。



会津藩主としてもたくさんの善政を敷いた。

それまで耕地不能の土地にも年貢をかける悪政がまかり通っていたが、この負わせ高の廃止を行って農民を助けた。
また武断政治を行わず文治政治に取り組み米を蓄える社倉をたくさん設置し、不作の年には安い値段で米を放出した。

今でも会津の人たちに愛される所以である。


保科正之は正室「菊」を19の若さで失う。また長男幸松も4歳で夭逝する。
次男保科正頼も明暦の大火で失ってしまう。
彼の胸中はいかばかりだったろうか、その悲しさは計り知れない。

けれど徳のある文治政治を全うしたのは、これらの境遇があったからであろうと推測する。
また彼は行った政治の証となる文書を悉く燃やし尽くした。
彼の滅びの美学といったものもそこはかとなく感じ入る。