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初めて知る高齢という現実

最近、弱ってきたオット82歳。
何とか二人で明るく過ごしたいとあがく毎日を記録します。
だんだんグチに移行?

・小学校2年生

2006年08月04日 09時56分27秒 | 思い出さまざま
バックを変えてみました。
オトナっぽくなりました。

清水小学校2年生

昭和18年、3月末か4月の初めに熊本に引き揚げました。

父に応召の命令が来たからです。(アカガミ)

3月4日に妹が生まれたばかりでしたが、父が居ない韓国には
いられないので、生まれて一と月も経たない妹を抱いて一家4人、
おじいさんの家に帰ってきたのです。

関釜連絡線で下関に着きました。海が荒れたことと、
のぞき見した海の色が、緑の色が濃く透き通り「きれいだな」と
思ったのが日本の印象でした。

父の入隊は熊本の16連隊だったので、わりと気楽に思って
いましたら、その日の午後慌てて帰宅して、これから外地へ行く
というのです。
別の人に命令が下っていたのですが、その人の都合が悪くなり
父が身代わりになったのです。
本当の別れでしたが、あれよあれよの間に、南の島へと旅立って
いってしまいました。

父の入隊は不幸とはいえ仕方がないことでした。

あのまま韓国暮らしが、終戦まで続いていたら、どうなっていたか、
当時の韓国からの引き揚げの、苦労話を見聞きするにつけ、
早く帰っていて良かったと、母は言っていました。

「私一人で3人の子は連れて帰られんけん、
韓国に置いて来たかも知れん」
「誰を?」「…」
よく冗談でイヤガラセを言っていました。

学校では隣の席のタジマという男の子が意地悪で私をいじめました。
思い出しても、憎らしい!ジメジメ・ネチネチ…ってやつでした。
タジマのヤツゥ、どこでどうしているのやら…

・小学校1年生

2006年08月02日 08時59分31秒 | 思い出さまざま
まだはっきりしたことではありませんが、7月30日に、
朝日新聞の「声」欄に投稿したのですが、新聞に載るかも知れません。
昨日電話があり、いま載せますとは言えないけれど、
検討しますとの事で2~3質問がありました。

載ればいいな。
題材はもちろんブログの事。
開設して嬉しいことばかり…の気持ちを書いてみました。
祈りながら、吉報を待っています。

   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

小学校1年生

その頃、小学校のことは国民学校という呼び名でした。
朝鮮・忠清北道・青州・稲荷町というところに住んでいましたので、
清州第○と名が付いた学校かと思いますが、思い出せません。

写真があったと思いひっぱりだしてみましたが、母の字で
清州神社前にて、昭和17年4月、マサヨ1年生 とありました。

先生と生徒70名が写っています。韓国人の子どもも10名くらいは
いたと思います。裕福な家の子は、日本人の学校に来ていました。
月に一度は、神社参拝が行われ、生徒は行列して、参拝にいきました。

韓国暮らしではありましたが、日本人は街中にもいっぱいいて、
お寺、神社、幼稚園、学校、すべて日本人ばかりの中にいましたので、
外地暮らしの感じはありません。

校門を入るときお辞儀、
奉安殿(両陛下の写真が奉ってあるところ)といって
どこの学校の校庭にも、コンクリート作りの小部屋があり、
そこの前では最敬礼。
下校のときも、同じことをします。

それより記憶に残ることは、身体検査です。
パンツ1枚になって体重を量るのですが私の下着はコンビネーションと
いうもので、シャツとパンツがつながっているものでした。
どういう訳かそればかり着せられていました。

つまり上・下と分けられないので、脱ぐならヌードしかありません。
なんぼ1年生だって人前では勇気いりますよね。
で、多分お得意の泣き…でどうにかしたと思います、
ハダカになった記憶はありません。

その時は、「どうしてコレを着せるの?バカ!」と母を恨み、
それからはコンビネーションの下着を拒否するようになりました。

韓国での小学校の思い出は1年生で終わります。


・スケート

2006年08月01日 13時48分08秒 | 思い出さまざま
今日から8月ですねぇ。
4日ぶりにプールへ
出かけるのに何だか足が重くって…
気分のほうでなくて、
事実の足が重い…ワカルって言って欲しくないヨ~

やはり毎日鍛えないと、筋肉が戻るらしい…
ハードで知られるヒトミ先生の水中エアロでしたが、
何とかついて行けました。

帰宅したら嘘みたいに身軽になってる…
余分なものは、水に流してきました。
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思い出ばなしへ

弟が生まれるまで一人っ子でした。

5歳離れると人が世話を焼き、「下がなかなか生まれんね」
という話題になるのは昔も今も同じ…

ある時、母が「主人の出張が多くて…」とオトナの話を
しているのを聞きました。
別の人と、その話題になったとき、私が母より早く
「父ちゃんの出張が多いから…」
と答えてオトナの大笑いを買い、何か違うことを言ったのか
不思議に思いました。
子どもは生半可なことを言ってはいけませんよという話です。

韓国の冬は寒いです。零下10度くらいは当たり前。
窓は二重のガラスになっていました。
雪は降らなかったように思いました。積もった思い出はありません。

日本の田んぼは米を取り入れたら、すぐ麦を蒔きますが、
韓国では米を刈っても田んぼには水を張ったままです。
冬は恰好のスケート場に変ります。
家の前のドブ川も凍ります。

小さかったのでスケートは出来ませんでしたが、
木箱の底にカーテンレールを打ち付けて、私が乗り、
ねえやが押してくれるものを父が作ってくれました。
父は器用ですぐ手作りして呉れていたのです。
(私がDNAを受け継いだようです)
そんなもの人は持っていませんでしたから、
みんなで寄ってきて押してくれるので、
ちょっとしたお嬢様でした。

日が暮れる頃の空気を思いだしますので、遅くまで遊んでいたのでしょう。

・五右衛門風呂

2006年07月31日 09時36分37秒 | 思い出さまざま
暑いですゥ
今日まで3日間プールお休みで、体重が増えたカンジ。

昔のお風呂の話。
今時のタイル張りの、カラフルなお風呂しか知らない
子どもには、想像しかねるお話でしょうが…

昔は現在のお風呂と違って、五右衛門風呂といって
(その大昔、どろぼうの石川五右衛門が捕らえられて刑罰として
釜茹でされたところから命名)、おおきい釜を据え付けて、
下から燃やして沸かすのが普通でした。
人手はいりますが、沸くのが早いので、普及したのでしょう。
沸くのが早いということは、燃やすことで釜が熱くなりそれで
お湯になるのです。
で、フチというか、周りの鉄に体がくっつくと熱いです当然…
そこで、底板というものが必要になり、木で出来ていますから軽い、
プカリと浮いた底板の真ん中を踏まないと、グラリと板だけ浮いたりして、
それは失敗。

子どもの力ではどうにも成らなくて、たいていはおとなと一緒に入りました。
私の失敗はもう分かりましたね。
     
板を踏み損ねて風呂の中で一回…か二回転…
釜の熱さを感じなかったのが幸せでした。
息の止め方も知らない小さい頃だったので、
風呂の水をハラいっぱい味わせて頂きました。

これもワァワァ泣いて、幕切れとなりました。
私はよく泣く子でした。

私とすぐ下の弟とは5歳離れています。
それまでオチチを飲んでいたというのが、語り草で
「下に子が出来たからおっぱいを離した」と母はよく言っていました。
昔はのん気だったね。
それで、いつも母にくっついていました。
「泣きべそマーちゃん」があだ名でした。

母とちょっとでも離れると不安だったように思います。

なんだかね、当時の思い出とはいえ書いてて恥ずかしいよぉ。

・辛い・からい・カライ

2006年07月30日 09時14分13秒 | 思い出さまざま
思い出すままに書きますので、話はいろいろ前後したり、
飛んだり跳ねたりします。
(はねるか?)

父の勤めの関係で、0歳から8歳まで、朝鮮で育ちました。
朝鮮って?そうです今の韓国です。
戦前(古ッ)は朝鮮と言っていたのです。
勿論その頃は、北も南もなく半島全体を朝鮮と呼んでいました。

父が先に行き、生活してところに、生まれたばかりの
私を抱いて母は韓国へ渡りました。
父は道庁(日本で言えば県庁)の仕事でした。

私の記憶の一番遠いもので思い出すのは「辛さ」です、
韓国の家庭ではどこのおうちの庭でも、唐辛子がいっぱい
干してありました。
赤一色ではなく、赤もいろいろで、それは綺麗でした。
私は、遊びに行っていたおうちの唐辛子を、1本口に入れました。
えぇ食べました!
今でも思い出してもカライ「辛さ」です。
  ヒー!ヒー!ヒー!
母も居たようですぐ取り出してくれたのですが、
その辛さと言ったら、「死ぬほど」といったらいいのか、
気が狂ったように泣いたことを覚えています。
水を飲まされても「辛い」何を食べさせられても「辛い」
口の中が腫上がった感じで、大変な体験でした。

二度とは食べませんでした。
そりゃそうだろ~二度食べたらバカだよね~

今も辛いのはニガテです、と言えばカワイイのですが
辛いの大好き人間です。

初夏、青胡椒をたっぷり入れた葉唐辛子の佃煮は、見かけたら
必ず作る定番です。
そして分かっているけど、形のままの胡椒を口に入れ、
キタ~~~ッ!!とばかりにのた打ち回り、脳天砕く辛さを
味わいつくす、自虐ニンゲンであります。

これも幼い頃の経験がどこかに残り、本能のなせるワザと理解
しております。ってアリ?



雨音で思い出した53年前

2006年06月26日 14時38分24秒 | 思い出さまざま
今日は6月26日。53年前熊本が大水害に襲われた、忘れられない日であります。
昭和28年当時、私もいっぱしの社会人で、熊本市の鶴屋百貨店で働いておりました。

26日は開店一周年の記念日でしたので、記念式典がありましたが、朝からそれはもうバケツをひっくり返したような豪雨で、夕方には下通りの太洋百貨店前は水が溢れておりました。それもあれよあれよのうちに電車通りを水が流れ出し、沢山の材木とともに「助けてー」の声を残して人が流れて行ったそうです。

その日どうにか歩ける道を探しつつ、我が家に帰り着きました。歩いて数時間掛かりました。我が家も、ボロ家で屋根はあっても雨が降る状態で布団もひけず、ろくろく寝られませんでした。
27日はどうにもならず、家におりましたが、今のように電話はなく職場に連絡も取れず状況は分からず、53年前は今から思うとテレビはもちろんなく、頼りはラジオでしたが、それこそ秘境さながらでありました。
で、八景水谷駅まで来ても、電車もバスも当然不通で、立ち尽くしていたとき、キャンプ・ウッドの大型の軍用車両が通りかかり町まで連れて行ってくれました。

その時の光景は想像を超えたものでした。
水は亀井から一面、湖です。海です。
室園から三軒町、薬園町と泥水のなかです。
これが普通の生活に戻れるだろうか、何もかも崩された思いでした。
鶴屋へ着きまた驚きました。1階の水こそ引いていましたが、地下は満水、ホース数本でポンプ排水が精一杯。その地下に溜まった水で、洗える商品は洗い屋上で干す、という作業です。実際その仕事をしたのに、夢の出来事のようでした。
洗った商品は「冠水商品」として、大安売りされました。
二日ほどは上の階で商品の間に挟まり寝泊りしましたが、食事はどうしたのやら記憶にありません。
強烈に覚えているのは、階段に山積された商品の中から、羊羹を一本頂いて友達と分け合って食べたことです、暗がりでみんなにばれない様、音のしないよう、水も無く食べた羊羹は、胸焼けを起こした以外に何も無く、ただ苦しい味でした。
「悪いことをしたらいけません」と言う教訓を味わったのでした。

外の強い雨を見ながら、かすかな追憶をたどりました。
各地に被害がでませんよう…お祈りいたします。