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初めて知る高齢という現実

最近、弱ってきたオット82歳。
何とか二人で明るく過ごしたいとあがく毎日を記録します。
だんだんグチに移行?

・木綿のハンカチーフ

2006年08月23日 10時57分30秒 | 思い出さまざま


「ハンカチ王子」で世の中大変です。
熱しやすくて冷めやすい…のに。
斉藤くん、またコレからが大変のようです。

ハンカチつながりで、今日の歌は
“木綿のハンカチーフ”

この歌の存在を教えたくれたのは、同じ職場の、
年下のミノウさんでした。

どこかへ出かけた車の中で、ちょうどラヂオから流れた曲に
「カルメンさんこの木綿のハンカチーフの歌詞知っていますか?」
「いや知らない」
「かわいそうな女の子の話で…一度歌詞を読んだらいいですよ」と
教えてくれました。

私は40歳を過ぎていたと思いますし、若い人の歌など興味なく
毎日を過ごしていました。
改めて歌詞を読んで、「なるほど、忘れていた感覚だナ」
とミノウさんに感謝しました。

愛唱歌にしたいのですが、オンチの私にはどうもズレルというか、
遅れる個所があって、最近よくテレビで流される太田裕美の歌に
遅ればせながらもついて行くのが精一杯です。かな?
こういうのを、自分の歌にして、一発熱唱したら気分いいでしょうネ。
う~~ん、生まれ変らないとダメですネ。

ではどうぞお歌いください!

「木綿のハンカチーフ」
松本隆作詞・筒美京平作曲
________________________________________

恋人よ 僕は旅立つ
東へと 向う列車で
はなやいだ街で 君への贈りもの
探す 探すつもりだ
いいえ あなた私は
欲しいものはないのよ
ただ 都会の絵の具に
染まらないで帰って
染まらないで帰って

恋人よ 半年が過ぎ
逢えないが 泣かないでくれ
都会で流行(はやり)の 指輪を送るよ
君に 君に似合うはずだ
いいえ 星のダイヤも
海に眠る真珠も
きっと あなたのキスほど
きらめくはずないもの
きらめくはずないもの

恋人よ いまも素顔で
口紅も つけないままか
見間違うような スーツ着たぼくの
写真 写真を見てくれ
いいえ 草にねころぶ
あなたが好きだったの
でも 木枯しのビル街
からだに気をつけてね
からだに気をつけてね

恋人よ 君を忘れて
変わってく ぼくを許して
毎日 愉快に過ごす街角
ぼくは ぼくは帰れない
あなた 最後のわがまま
贈りものを ねだるわ
ねえ 涙拭く
木綿のハンカチーフ下さい
ハンカチーフ下さい
________________________________________


・記憶の底の歌

2006年08月22日 09時55分41秒 | 思い出さまざま

二日がかりの高校野球…優勝戦。
どちらが勝っても文句のつけようがない互角の勝負でした。
「ガップリ四つ」とはこの試合のことです。

1点を守りきった、ハンカチ佑ちゃんに軍配が上がり
(今日はハンカチ王子だって)

今年のヒーローが誕生したのでした。

私には春先のWBC以来の感動ものでした。

 ~~~~~~~~~☆~~~~~~~~~~~
目ン無い千鳥
    
サトウ・ハチロー 作詞  古賀政男 作曲
目ン無い千鳥の高島田 見えぬ鏡にいたわしや
 曇る今宵の金屏風 誰のとがやら罪じゃやら

千々に乱れる思い出は 過ぎし月日の糸車
 廻す心の盃に 紅はさしても晴れぬ胸

雨の夜更けに弾く琴が 白い小指に沁みてゆく
 花がちるちる春が逝く 胸の扉がまた濡れる

目ン無い千鳥の淋しさは 切れて果敢ない琴の糸
 青春の盛りの若い葉に むせび泣くよなこぬか雨
    ~~~~~~~~~~~~

誰も知らないであろう古い歌、はやり歌。
私が5歳のときに封切られた映画「新妻鏡」の
主題歌です。古賀さんの曲だけあって、
こぶしがたっぷりのメロディです。

母と見た映画ですぐ覚えて、ナマイキにも
人に歌って見せたそうです。

今も人に聞かせられる歌声じゃないので、
子どもの頃も上手な訳はないのに。

でも忘れられない歌であります。


・藤崎宮の随兵行列

2006年08月20日 10時54分25秒 | 思い出さまざま
台風一過
でも、すかっと青空ではありません。
昨日から秋風を思わせる風が吹き、涼しいです。

おっ、ズイビョウだ~随兵寒夜まで連想してしまいました。
随兵=(随兵行列・藤崎宮の秋の大祭)
随兵寒夜=(随兵前後、涼しくなる朝夕の気温)

12歳のとき、9月17日に父は亡くなりましたが
9月15日の随兵には行きたくてたまりませんでした。
その翌々日に父が死ぬとは思いませんもの…

年に一度の楽しみでした。

父は重病とはいえ家にはおりませんし、
母も看病で病院詰めですし、
おばあさん相手に「随兵に行きたい」と言いました。

「あんたは父ちゃんが、死のうとしとる時に随兵どころカナ!」
と私を叱りました。
叱られても、「行きたい、行きたい」の一心でした。

「駄目!」とお金も貰えませんし、とうとう行かせて貰えませんでした。
口惜しくて、行きたくて、随分泣きました。

子どもの心って、またあるとか、毎年あるって思わないのです。
いま!きょう!で精一杯!

60年前の子ども心を、思い出してしまいました。


・「少女クラブ」VS「少女の友」

2006年08月14日 10時58分26秒 | 思い出さまざま
昨日、こし餡を見つけたので買いました。

団子の粉をこね、小さく丸めて湯で冷やし餡こをまぶして
仏様に供えました。
今日は寒天を煮溶かし、餡を混ぜ「水ようかん」を
作って見ました。冷たくあっさりしています。

寒天はいいんですぅ。進んで摂りたいたべものです。
食物繊維が多いし…
ちょっと前は、お店の棚から姿が消え
色の黒い粗悪なヤツが大手を振っていました。

明日までご先祖様がご滞在なので、ちょこっとしたもので
歓待するつもりです。

~~~~~~~~~~~~~~~~

「少女クラブ」VS「少女の友」

二大少女雑誌が「少女クラブ」と「少女の友」でした。
読者対象は「少女の友」の方が少しお姉さん対象でした。

ライバル視していたモリタさんが「少女の友派」で
私は「少女クラブ派」でした。
ほんとは「友」の方が読みたかったのに、意地になって「クラブ」を
支持していたアホでした。
そうは言いながらも、お互いとりかえっこして、読みました。

何かにつけて、トラブったり、意地になったり、口を利かなかったり
その割には、気になって気になって…難しい年頃です、中学2~3年頃は。

そのモリタさんも昨年の1月癌のために、
アッという間にあの世に旅立たれました。
枚方に住んでいましたが。
フラ・ダンスの名人で、歌声がまた絶品で、
優れた人はお召しが早いです。
ご主人と共に、ありとあらゆる手を尽くされたのですが、
無念としか言いようがありません。


・本がない

2006年08月13日 09時16分03秒 | 思い出さまざま
今日からお盆。
子どもさん方の帰省でお賑わいのことでしょう。
お母さん、後で寝込むことのないよう、ほどほどの
サービスを心がけてくださいませ。
私達もあとでお墓参りをして、こころ安らかなお盆を
迎えたいと思います。
  ~~~~~~~~~~~~~~~

またも昔話。

現代の書籍事情からは想像もできない、
印刷物、本等の飢餓の時代がありました。

終戦直後は、その飢餓を埋め合わせるかのように、
ニョキニョキと粗悪な内容の月刊誌等が出版されました。
カストリ雑誌などと言われていました(内容エロ・グロ・ナンセンス)

カストリと言うのはカストリ酒からきていて、本来は酒かすから
作られた焼酎のことですが、工業用アルコールを薄めたり、
何かと混ぜ合わせたり、飲めば確実に目が失明すると言われていました。

(3合で潰れる=3号で潰れる出版誌)ホンマうまいなぁ。言うことが…

本を買ってもらった思い出は、町に母と出かけたとき、
本屋さんの前に吉屋信子の本が出ていて、私は欲しくて堪らず、
お金はないと知りつつ、母にねだりました。
言ってみるもんですよ、
苦笑しながら2冊買ってくれました。
「花物語」と「…」ひとつは忘れました。
宝物でした。何度も読みました。

その後1冊をトモダチのヤスコさんに貸したら
とうとう返って来ませんでした。
今でも私の宝物を返せ~~言いたい気分。
ウラミは怖いね。

・小学校6年生

2006年08月11日 09時13分35秒 | 思い出さまざま
ゆうても同じこつですが、暑かですなぁ~
今朝は曇っているので、あの日照りがなかと思っていましたが、
その分蒸しますなぁ~

昨日は熊工が勝って嬉しかったです。
もう一勝して欲しか~

   ~~~~~~~~~~~~~

6年生に時、父を亡くしましたが、精神的には成長して、
元気者ゆえのハジ多発、6年生の生活については反省のみ。

担任はマツオカ先生
若くてハンサムでした。
現在、益城町にてご健在でお暮らしです。

思春期にさしかかり先生に対してワケワカラン反発をしました。
ひょっとするとひょっとしていたのかも…

先生にご心配かけて申し訳なく思います。
数年前に先生のお宅にお邪魔しまして、昔話に花が咲き
先生ちゃんと私のこと、覚えていて下さいました。

そうそう、わたしが体調をくずし、父が入院していた病院で
検査したら、肺浸潤と診断され、母は色を失いました。
夫に続いて長女までと相当心配したと思いますが、
半年間安静を守っていたら、どうやら元気になりました。

当時の肺の病気には「安静・きれいな空気・栄養」この三つが
不可欠と言われていました。
安静は得意、寝てればいいのですから…
本を随分乱読しました。

栄養については、時々卵を食べさせて貰いました。
ほんに貧しい食生活でした。

中学は1学期休学し2学期から復学しました。

いきなり2学期からの復学は、自信を失くしかけましたが
6年次の時の元気さが身を助け、どうやら溶け込めました。

めでたし、めでたし。


・小学校5年生

2006年08月09日 10時05分35秒 | 思い出さまざま
5年生のある日、私は自信がつきステージを1段上がったという
記憶があります。
なになにって乗り出されると困りますが、ほんのちょっとした事…

担任は、ウエノ先生といって女の先生でした。
割合国語は好きでしたが、ある時、質問されて手を上げたのが、
私ひとり…
えっ?と思ったのですが当てられて、答えたら、
えらく褒められました。
その褒められたことですよ、自信になったのは。

あくる日からどんどん手を上げる私に変身していました。
それまで分かっていても手を上げる勇気がなかったんですね。
泣き虫まあちゃんが、尾を引いていて…

これははっきり覚えていますし、私って元気者だったんだと
意識しましたので、それから続けて6年生は、
我が物顔でクラスを牛耳ることになっていました。

子どもに自信持たせるのは、難しいことではない。
「それでいい」という大人の助言ではないかと思うわたしです。

・小学校4年生

2006年08月07日 14時42分56秒 | 思い出さまざま
昭和20年8月15日に日本が戦争で負けてしまい、
それからは、つぎつぎとめぐるましい事が起こりました。

昨日までの正義が悪、
いけなかったことが、ほんとは正しいんだって。
大人も子どももしばらくは混乱しました。

「天皇陛下」と姿勢を正してから言ったり聞いたりしたことが、
普通に言っていいのです。
それどころか、天チャンとか、へその下なんてトンでもないこと
を言う人もいます。
この謎々は、天皇が自分のことを言うのに、
「朕」(チン)と申されていたのに
答えがあります。

正に天と地がひっくりかえる珍事でした。

教科書にも大変なことがありました。
先生からの命令で、何ページの何行から何行までと、
そこを、墨のついた筆で、真っ黒く塗りつぶす事から
授業が始められます。

読むところがありません。読んでもワケワカラン状態です。

国のためとか、兵隊は戦うとか、いままで戦意高揚のために、
声高く叫ばれてきたことが、8月15日を境にぴたっと逆の
考えというか、真っ逆さまになりました。

偉い人は普通どころか、悪人になり、国から賊人と言われていた人が、
ほんとは正しい考えの人。

肩書きだけで威張っていた、ある階級の人は袋叩きに遭いました。

何が何だか分からない渦中にはいましたが、
肩身を広げ背筋を伸ばしていいよと、言われている様に感じました。

男が威張って女はいつも見下げられていたのが、男女同権が叫ばれ、
「それは戦前のことよ」で済ませるようになり、
オトコもうなづく世の中です。

結論を言いますと、こういう世の中の一瞬の大変化ともいえる状態を、
経験出来るチャンスには滅多に出遭わないと思いますが、
子ども時代とはいえ貴重な体験だったと思っています。

・ガラス工場

2006年08月06日 09時29分14秒 | 思い出さまざま
いやはや…
柚子ごしょうさんの人間形成への期待…困りますぜ。
流され流され生きてきましたので、ふらふら浮き草稼業でやんす。

『断固たる意思の持ち主』言葉にはあこがれますがのう、
私の実像はてぇと

コズルイ人間でやんす。争いは嫌いでやんす。
不快にならないように過ごしたいほう。

でも70歳を超えて、自由になりましたです。
自分をさらけ出して、大空に両手を伸ばしている実感。
ですから年を取ることは決してマイナスではない!
そして未知の世界はまだまだある!

無理してない?
ンン!絶対無理してない!
     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
昨夕、孫1号来宅。
「夕ごはんたべるかい?」
「たべる!」と元気よし。
ちょうど冷蔵庫に秘蔵してあったステーキ1枚。
ご飯も茶碗に1杯。よかった~~

わりと無口な女の子であったが、ようしゃべった。
おとなになったのかな?
またおいで!

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ガラス工場

亀井の通学路にガラス工場がありました。
割合大きな炉が中央にあって、赤くドロドロに溶けた
ガラスのタネを、小さな穴から、手に持ったガラスの棒に
クルクルと巻きつけながら、小さい塊で取り出し、
ぷうと息を吹き込みます。

出来上がるものは、病院から貰う水薬の入った、
薬瓶が多かったです。
夏は、作業する人たちも地獄の暑さでしたが、冬はあけっぴろげな
工場でも、暖かいものでした。

毎日のように覗き込んで眺めました。
邪魔になると言って怒る人はいませんでした。
赤く溶けたガラスの色と、黙々と働く人、原料になるガラスの破片、
出来上がった青っぽい色のガラス瓶…

それが印象として残っています。



・小学校3年生

2006年08月05日 10時10分54秒 | 思い出さまざま
きゃほおぉぉ~~
載りますよぉぉぉ~
朝日新聞・8日(火)の【声】欄にご注意!!
なんてちょっとはしゃぎ過ぎかな~

「これからもちょいちょい書いてください」ですって。
稿料3000円の図書券だそうです。忘れた頃送りますって。

そんなものいいんです。
頭の体操になって、読んでもらえて、こんな良いことが
ありましょうか!
これもブログを始めたおかげ、読んで下さる皆様が
いらっしゃるおかげ。
ありがとおぉぉぉ~~

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
小学校3年生
戦争の色濃く、いろんな品物が身の回りから消えていきました。
そしてすべて配給です。
家族数やその他、何やらわからんもので色分けされて、切符制やら配給で
物を買うのです。

先生たちも軍国調になり、悪いことせんでも、全体責任とか言って、
並ばされてすぐビンタでした。先生も自分の手が痛いので、
スリッパとかムチを使うようになりました。
話の中に天皇陛下と言う時は、「気をつけ!」と言い、そして一息入れて
「天皇陛下におかせられては…」としゃべり出すのです。

オイデ先生かコイデ先生か忘れたけれど、うら若い女の先生が、
とても戦争かぶれで、気性が激しくて、廊下に子どもを並べて
ビンタをよくしました。理由などありゃせんです。
さすがその時は、年配の先生の留めが入り、問題になって翌日女の先生は
生徒に謝ることになりました。

先生は「今頃日本の兵隊さんたちは、銃後のみんなの為に命をかけて
戦っています、あなた達の態度は何ですか?」と言うのです。

今の子達なら「知らねーよ」「それっておれらには関係ないじゃん」
と言うでしょうが、そんな言葉知りませんから黙って殴られていました。

校庭は畑になり、一面耕されて走り回る場所もありません。
畑の堆肥を作るために、木の葉を集めて、カマス(ワラで編んだ袋)
に詰めて、背中に背負って登校していました。

もう勉強どころではありません。
それに校庭には防空壕をいくつも掘りました。
敵が空襲してきら皆で防空壕に隠れるのです。といってもふたもなく、
四角い穴だけのものですから、今考えるとおかしいよ。
それで東から飛行機が来たら、東のほうへ寄る、西から来たら西へ寄る、
近くで爆弾が落ちて破裂したら、親指で耳を押さえ、他の指は目を押さえ
地面に伏せろと言われていました。

口を大きく開けて息をしろ、とも…
練習させられました。ハッハッハー笑っちゃうよ。ね。