初めて知る高齢という現実

最近、弱ってきたオット82歳。
何とか二人で明るく過ごしたいとあがく毎日を記録します。
だんだんグチに移行?

・昔がいい?今がいい?(2)

2007年02月10日 10時58分40秒 | 孫に残す私の子どもの頃のこと
昔の人は辛抱しましたね。
贅沢なんて何一つしませんでした。

仏壇にあげるお灯明でさえ油が減るということで、すぐ消されました。
漬物にかける醤油だって、余るようにかけると叱られました。
食べ物を残すなど考えたこともありません。

たまに鰯が一人に一匹ずつ配られたりすると、
弟達と長く持たせる競争です。
チビリチビリと身をむしって、三日ぐらいは食べました。
母は私達の鰯の頭だけを食べ、身のほうは分けて呉れました。

卵を一個、ご飯にかける贅沢はしたことありません。
たまに…そう…たまにそういうことがある時は、
一個を混ぜて三人ぐらいに分けて食べました。
ご飯を多めにつぎ、醤油で味付けした
卵の匂いのするお醤油ご飯でした。
それでも美味しかったぁー。

鉛筆や消しゴムやノート、買って貰ったのかなぁ、
なんか喜んだ覚えがありません。

冬は寒かったです。ただひたすら寒かったです。
手はヒビだらけ。足もヒビとしもやけ。

外は木枯らしが吹き荒れ、壁の隙間から北風が遠慮なく入ります。
暖房(?)は火鉢だけ、それでも炭は買わねばなりませんので、
たくさん燃やす贅沢は許されません。
わずかな火に手をかざし暖をとる…
トイレだって一度外に出ないと行けないし、
雨の夜など泣きたかったよ。

困ったのはお風呂、五右衛門風呂は下から
燃やさないと湧かないし、薪も風呂を燃やすものは
決まっていて、手がかからなくて、
火持ちのいい薪など燃やすと怒られます。

根シバといって、秋の終わりに小さい竹を鎌で刈り寄せてあったものです。
火付きはいいのだけれど、すぐボーッと燃え尽きてしまい、
しょっちゅうそばに着いていてくべてやらないと、すぐ消えます。
風呂焚きは大変でした。

これも雨のときは、燃えないし風呂の焚口は雨が降り込むし、
傘差して焚口をのぞき込んだものです。


あーやだやだ。
もう、思い出すのもいやになりました。


・昔がいい?今がいい?(1)

2007年02月09日 13時37分35秒 | 孫に残す私の子どもの頃のこと

風ちゃんからこう聞かれました。

「おばぁちゃん、昔と今と、どっちがいい?」

風ちゃんと話していると、無意識に昔話が多いらしいです。

突然聞かれて答えを迷いました。

「そうねぇ、なんぼ昔がいいと良いと言っても、昔には戻れないし

昔が懐かしくても、昔はいろんなことが、大変だったから、

今の方が暮らしいいし、どちらかといえば、今の方が良いね」

納得したかどうか分かりませんが

「ふーん」といいました。

私の中で昔がいいという部分は、幼い自分への郷愁でしょう。

育った家は、二度も建て替えられて、

面影すらもありませんが私の頭に中では、

暑くて、寒くて不自由だった家しかありません。

夏は開放されて、ひんやりした部分もありましたが、

夕方は蚊柱がたち団扇を絶え間なくぱたぱたと蚊を追わなければ、

たちまち蚊の襲撃で手足はプクンと腫れ痒くてなりません。

蚊に食われて薬をつけるなんて昔の人に言ったら

目を丸くするでしょう。

寝るときは蚊帳が必需品でしたが、大抵は破れが目立つボロで、

穴から蚊が入ってきて、ブーンという音で眠れません。

蚊帳の中の蚊をパチンパチンと手で叩きますと、

手のひらは血の色で染まりました。

 夏中、戸は開けっぱなしでしたが夕立がざーっと来ると、

雨戸を急いで閉めました。間に合わないと縁側が濡れますが、

雑巾すら今の柔らかいタオルなんて考えられません。

なんかゴワゴワした布で、子どもの手では絞ることも出来ない

布切れでした。電灯も節約して、点けっ放しはタブーでした。

一部屋にひとつの電灯。ない部屋もありました。

隣の部屋の明かりで用を済ませるのです。

 

 


・思い出す母のこと 12

2006年10月14日 10時37分05秒 | 孫に残す私の子どもの頃のこと
それからこん睡状態に陥り、呼んでも話しかけても反応が無くなった。
ゴロゴロと喉に詰まるタンを看護婦さんが吸引するのが
むごくて、堪らなかった。
看護婦さんは、「ご本人は分からないです」と言うのだが…

入院から一週間目の1月26日早朝息を引き取った。
その夜は、妹が付き添っていて私は家に帰っていたが、
妹と一緒にいればよかったと後悔ばかり…
家族を優先して、母を見ていなかったと思う。

こんなに早く亡くなるとは…
つい先日、3ヶ月は二人で頑張ろうね、それから先はまた、
その時点で考えていこうと妹と話し合ったばかりだったのに…

1週間で坂道を転げ落ちるかのように、旅立ってしまった。
まさにその性格のようにあっさりと…さっぱりと…

母の言うことをもっと聞いてあげればよかった。

どうして私は後悔ばかりする、バカなんであろうか。
母のことを思い出せば、後悔の波が押し寄せる。


                   
母の思い出は、一応終わります。
永らく読んでくださって有難うございました。
               
         



・思い出す母のこと 11

2006年10月13日 08時46分44秒 | 孫に残す私の子どもの頃のこと
仕事を持っていて一番困るのは、家族のトラブルである。

休暇を取れる季節はよいが、私学の短期大学の教務課に
勤務していたので、定期試験の時期・入学試験の時期
・新学期の時期などは、もともと少数精鋭(?)で
運営しているので、一人の欠勤はにっちもさっちもいかないという現実。

母が倒れた時期は、入試を控えていたので、休めない時期で
同僚には迷惑を掛けるかもしれない…
が、なんとか乗り切ろうと、ハラを決めた。

ひと晩、家政婦さんに見てもらい、仕事が終わり病院へ行ったら
機嫌もいいし、今日は「饅頭を食べたい」と言われたので、
買ってきたら「美味しそうに食べられました」とのことで、
ホッとした。

しかし、その夜は私の名を呼んで大変だったと聞き
「しまった、夕べは私が泊まるべきだった」と大きな悔いが残った。

そして、次の日はおぼろながら話が出来て、
私たちが枕元で食べる弁当を
「ひもしい…」
と訴えるのでお吸い物を飲ませたが、
もうむせるだけで嚥下が出来なかった。
前日のお饅頭が最後の食べ物であった。

好きであったお饅頭…食べられてよかった。


もう少し続きます






・思い出す母のこと 10

2006年10月12日 08時24分23秒 | 孫に残す私の子どもの頃のこと
時間と共に学習したのか、おかしな言動は治まったと思った。
でも病院へ行って、点滴注射をしてもらうと、頭がスカッとする
などと言っていたので、健康でなかったことは確か…

自分が70歳になってみて、健康であればあんなものではなかったと
言い切れるが、親は年寄りで少しボケていて普通…
みたいな感じでいたのでコトはズレてくる。

日ごろよく言っていたことは、

「私はもう何も言い残すことはなか。
それぞれ大人になった子ども達に
迷惑かけて長生きせんでもよかけん、
私が倒れて何も分からんようになったら、
カンフル(強心剤)1本打たんでよか」

そういうことは始終言っていた。

結局、病院の先生が問われた「呼吸器うんぬん…」は、
その場面には直面しなかったが、
私は「母は一切の延命治療はしないでくれと
言っていましたので、しないでください」
と告げた。


      続きます

・思い出す母のこと 9 

2006年10月11日 09時06分09秒 | 孫に残す私の子どもの頃のこと

改めて母の言動を、思い返してみた。
母の病気は今回初めて来たわけではない。
もう、10年近く軽い症状ではあったが病んでいて
どこかの血管が詰まっていたと思われる。

今ほど、血液だ、血管だと一般的に知らされていなくて、
脳溢血とか、中風とかで片付けられることが多かった当時
CTスキャンなどで、詳しく調べることもなかったので
どの程度なのかは知る由もなかった。

よく頭が重いとか、四角いはずの、菊池電車が平行四辺形の
おかしな形をしていると言っていたので、
視神経もやられていたのかも知れない。

よく迷子になっていた。
遠くへ出かける訳ではない。
門の前で人と話していて、「じゃぁ」と分かれて
家には入らず、お隣のほうへ行くのである。

5~6歩も歩けば行き着く狭い家に中で
トイレはどこ?と迷うのである。

生来、陽気な人で開けっ放しであり、楽しい人であった
こっちも若く?そう深刻に捉えておらず暢気であったと思う。


    続きます 



  

・思い出す母のこと 8

2006年10月10日 07時36分13秒 | 孫に残す私の子どもの頃のこと


北朝鮮が思い切ったこと実行してしまいました。
彼らの道はどこへ行き着くのでしょうか。

世界から暴れ者の烙印が、ガッチリ押されました。

気の毒なのは、何も知らされていない大衆です。
これから寒さに向かうのに、燃料は、食料は
あるのでしょうか。

何時の世も犠牲になるのは、一般ピープルでありますよ。

選挙が、言論が、すごく大事なものだと分かります。

 母の続きです。

☆~~~~~☆~~~~~☆


昭和62年1月26日、母は死んだ。

その1週間前の1月19日の朝に、脳梗塞を起こしていて、
おかしいと思って掛かりつけの病院へ担ぎ込んで
それから慌ただしく、専門の病院へ入院させた。

これは長丁場の入院生活になると覚悟して、
当時仕事を持っていた私と自営業の妹は、
家政婦さんを頼み、夜も交代で看病することに
覚悟を決めて話を進めた。

病院の先生からは、
「いつ脳幹に出血があるか分からないので覚悟して下さい」
と言われた。
が、その時点では母の意識は、はっきりしていて、
機嫌もよく、食欲もあった。

先生の言葉には続きがあって、
「この病状の場合、意識が無くなっても呼吸器を取り付ければ、
生命は永らえることができるのですが、それを望まれますか?」
と、大きな選択を迫られたのだった。

本やドラマでは知っていたが、実際目の前に、
母のこととして突きつけられると、「ウッ」と胸がふさがる。


しつっこく続きますお願い


・思い出す母のこと 7

2006年10月08日 08時05分04秒 | 孫に残す私の子どもの頃のこと

今日は、3号ちゃんの運動会です。
台風で日延べされた、藤崎宮の隋兵と重なりました。

今朝はちょっと寒かったです。
この暑がりの私が、長袖着てちょうどよろしい位。

昨夜は夕食を孫たちと一緒に食べました。
私の得意のだご汁です。野菜いっぱい入れて…
皆がおいしいと言ってお代わりしました。

では、昨日の続きへ…

   ☆~~~~~☆~~~~~☆

私がお金が稼げるもっといい働き口を見つけていたら…
自信のないイナカの子を脱ぎ捨て、都会を目指していたら…
商売の道に飛び込んでいたら…
今更しょうもない「いたら…」を繰り返してもね。
何にも出来なかった私の弱さが意気地なさが情けないと思う。

まだまだ古い因習にとらわれていたし、
アプレゲールには、程遠かった。

人をすぐ信じる無知な私、イヤなことを人に言えない私、
すぐボロ雑巾になり、踏み潰されていたことだろう。

…って、今で正解?
何がいいやら、悪いやら誰にも答えは出ない。

ずっと母は働き続けた。
伯父の店を辞めたあと、うどん、ちゃんぽんを食べさせる
小さな店を開き数年続けた。
病気をして店を辞めてからは、父の遺族年金が助けてくれた。

もろもろ書けないことも多くあったが、
泣いたり笑ったり、母は母の人生をしっかり歩んで
悔はないであろうと思う。


※アプレゲール=(仏)いまや死語、戦後の退廃的な傾向の人々のこと。


   続きます。よろしく!!!

・思い出す母のこと 6

2006年10月07日 07時27分58秒 | 孫に残す私の子どもの頃のこと


夫が戦病死して32歳で寡婦となった母。
強さが味方でなければ、へし折れたかもしれない。
私も味方でなければならない。その思いが私の底にあった。
そして母は強かった。

働かなければ、子ども3人は養えない。
母の兄が国立病院へ売店を開いて、母がそこで働くことになった。
個人商店ではあるし、そう高給が貰えるわけはない。
今のように就業規定があるわけではなく、
休みもろくに無く、伯父のいいように使われていた。

が、これは言ってもしょうがないし、そう云う風にいってはいけない。
就職口がいろいろあるとか、高学歴とかそんなもん何にもないんだから。
親子4人が食べられれば文句はない時代。
むしろ、伯父には感謝しないといけなかった。

やがて私も中学から簿記学校へ進んで社会人となるが
就職した鶴屋の給料が少なかった、これがもう…

「君の名は」のラジオドラマが女風呂をカラにした時代、
真知子巻きが一世を風靡していた時代、まだ戦争のアトを
引きずっていて、まだまだ皆が貧しかった。


まだ続きますが…読んでくださいませ。     

・思い出す母のこと 5

2006年10月06日 08時34分27秒 | 孫に残す私の子どもの頃のこと

母が育った家は、市のはずれで田舎ではあったが、
お大尽といわれる家であった。
暮れには、小作の人たちに作らせた米俵が荷車に積まれて持ち込まれ、
蔵やニワヤ(玄関内の土間)に俵が小積まれる家であった。

その頃の子は、わらぞうりが良い履物であり、もっといいのが焼き杉の下駄、
桐下駄などは、一生履かずに終わる人もいた時代、
学校に桐下駄を履いて通ったとよく話していた。

よく自慢そうに言っていたことは、近くの家の子が
「これはシキミさんの下駄」と言って汚れていればふき取ってくれるし、
履くときは揃えてくれたそうだ。

信長のぞうりを、懐で温めた秀吉を思い出す話である。
なんか親の話でも違和感があったりした。

そこが育ちみたいなもんかも知れない。うまく説明できないが…
母が娘盛りの頃、父の保証倒れで田畑を減らした不幸があった。

終戦の銀行封鎖でタンス預金のお金が紙くずと化したとき、
当主であった伯父が、私たちにおもちゃとして十円札をたくさん呉れた。

農地改革で、大半の田畑を手放したがそれでも、
まだ財産家であったし、現在も立派なものである。

そういう育ちであったので、その頃の女性にしては、鼻っ柱がつよく、
負けず嫌い、男性に対しても、対等に話し、立ち向かっていた。
建前より本音をずばっと言う人だった。
竹を割った性格というか、ぐじぐじするのを嫌った。


続きます