初めて知る高齢という現実

最近、弱ってきたオット82歳。
何とか二人で明るく過ごしたいとあがく毎日を記録します。
だんだんグチに移行?

・五右衛門風呂

2006年07月31日 09時36分37秒 | 思い出さまざま
暑いですゥ
今日まで3日間プールお休みで、体重が増えたカンジ。

昔のお風呂の話。
今時のタイル張りの、カラフルなお風呂しか知らない
子どもには、想像しかねるお話でしょうが…

昔は現在のお風呂と違って、五右衛門風呂といって
(その大昔、どろぼうの石川五右衛門が捕らえられて刑罰として
釜茹でされたところから命名)、おおきい釜を据え付けて、
下から燃やして沸かすのが普通でした。
人手はいりますが、沸くのが早いので、普及したのでしょう。
沸くのが早いということは、燃やすことで釜が熱くなりそれで
お湯になるのです。
で、フチというか、周りの鉄に体がくっつくと熱いです当然…
そこで、底板というものが必要になり、木で出来ていますから軽い、
プカリと浮いた底板の真ん中を踏まないと、グラリと板だけ浮いたりして、
それは失敗。

子どもの力ではどうにも成らなくて、たいていはおとなと一緒に入りました。
私の失敗はもう分かりましたね。
     
板を踏み損ねて風呂の中で一回…か二回転…
釜の熱さを感じなかったのが幸せでした。
息の止め方も知らない小さい頃だったので、
風呂の水をハラいっぱい味わせて頂きました。

これもワァワァ泣いて、幕切れとなりました。
私はよく泣く子でした。

私とすぐ下の弟とは5歳離れています。
それまでオチチを飲んでいたというのが、語り草で
「下に子が出来たからおっぱいを離した」と母はよく言っていました。
昔はのん気だったね。
それで、いつも母にくっついていました。
「泣きべそマーちゃん」があだ名でした。

母とちょっとでも離れると不安だったように思います。

なんだかね、当時の思い出とはいえ書いてて恥ずかしいよぉ。

・辛い・からい・カライ

2006年07月30日 09時14分13秒 | 思い出さまざま
思い出すままに書きますので、話はいろいろ前後したり、
飛んだり跳ねたりします。
(はねるか?)

父の勤めの関係で、0歳から8歳まで、朝鮮で育ちました。
朝鮮って?そうです今の韓国です。
戦前(古ッ)は朝鮮と言っていたのです。
勿論その頃は、北も南もなく半島全体を朝鮮と呼んでいました。

父が先に行き、生活してところに、生まれたばかりの
私を抱いて母は韓国へ渡りました。
父は道庁(日本で言えば県庁)の仕事でした。

私の記憶の一番遠いもので思い出すのは「辛さ」です、
韓国の家庭ではどこのおうちの庭でも、唐辛子がいっぱい
干してありました。
赤一色ではなく、赤もいろいろで、それは綺麗でした。
私は、遊びに行っていたおうちの唐辛子を、1本口に入れました。
えぇ食べました!
今でも思い出してもカライ「辛さ」です。
  ヒー!ヒー!ヒー!
母も居たようですぐ取り出してくれたのですが、
その辛さと言ったら、「死ぬほど」といったらいいのか、
気が狂ったように泣いたことを覚えています。
水を飲まされても「辛い」何を食べさせられても「辛い」
口の中が腫上がった感じで、大変な体験でした。

二度とは食べませんでした。
そりゃそうだろ~二度食べたらバカだよね~

今も辛いのはニガテです、と言えばカワイイのですが
辛いの大好き人間です。

初夏、青胡椒をたっぷり入れた葉唐辛子の佃煮は、見かけたら
必ず作る定番です。
そして分かっているけど、形のままの胡椒を口に入れ、
キタ~~~ッ!!とばかりにのた打ち回り、脳天砕く辛さを
味わいつくす、自虐ニンゲンであります。

これも幼い頃の経験がどこかに残り、本能のなせるワザと理解
しております。ってアリ?



・孫に話したい私の子どもの頃のこと(9)

2006年07月29日 09時02分30秒 | 孫に残す私の子どもの頃のこと
そのあともう一度父を見舞いました。

そのときは父も最後と思ったようでした。
「母ちゃんの言うことを聞いて、立派なおとなに、なれよ」
ふりしぼった声で言いました。
私は父がすぐ死ぬのかと思って「とうちゃ~~ん、死になすな~~」
と大声で泣き叫びました。
父も母も泣きました。

結局、それが会った最後で数日後の、昭和22年9月17日の早朝に
亡くなりました。
数え年39歳、満で38歳。オガタツギト、若い死でした。

母は病院に詰めていて、ほとんど帰ってきませんでしたので、
これから母が家に居てくれるという複雑な気持ちも感じましたが、
父の死は大きな出来事でした。

声が出ないということで、あまり話が出来ませんでしたが、
フィリッピンで戦い、部下達をたくさん失い、弾が飛び交うときは、
この草1本で身を隠せるわけはないと知りつつも、その草に身を
隠さずにいられない、本能があるといっていたそうです。

ジャングルの山の中で、名も知らぬ島で、たくさんの兵隊さんが亡くなって、
遺骨すらも見つからない方々に比べると、看病もした、臨終には末期の水も
とったというのは、それなりに良かったとは思いますが…

長々と書きました。読んで下さって有難うございます。
昭和16年から22年までの約6年間の、一小市民の戦争との
かかわりですが、私にとっては、父が戦病死したことで、
大きな傷跡が残りました。

「父が居たら…」何度思ったことでしょう。
そう、父が居たら違う道が開けて、違う人生を歩んだでしょう。

私も70歳を過ぎ、やがて終わるであろう時代を迎えて思うのは、
人生はお試しが出来ない、一本道である、と。
曲がりくねっていたとしても、歩んだ道が間違っていたとは
思いたくありません。

父ちゃん、母ちゃん、頑張って生きてきたよ。命を有難う。

・孫に話したい私の子どもの頃のこと(8)

2006年07月28日 09時30分04秒 | 孫に残す私の子どもの頃のこと
その夏、母は用事で病室にいなくて、激しい夕立があり、雷が稲光と共に
ゴロゴロ鳴って怖かったことがありました。
窓辺のところに包丁を入れた容器にハマグリが置いてあって、
この包丁に雷が落ちたら怖いと思って、病室に包丁を入れようとしたら、
父が「心配せんでよか、それが心配なら病院中の釘とか金のものを
隠してこい」と言いました。

そのとき男親の考えの一端を知りました。
「目先のことばかり考えるな、大きくとらえよ」と言うことでしょうか。
何かにつけて、思い出したということは、たった一言の重さを感じています。

別の日には父は熱がひどかったので、タオルで頭を冷やしていましたが
「タオルを押さえてくれ」と言いました。
両端を押さえると、額に添うので、ただ乗せるだけより、
気持ちがいいということでした。

父は若い頃アメリカ俳優のゲ-リー・クーパーによく似ていたと
母は自慢していて、写真で見てもハンサムです。

今はもう、私の目から見ても末期の様相でやせ細り、目は落ち窪み、
鼻はますます高く見えました。

タオルを取り替えながら、私は一所懸命に押さえ続けました。
「マサヨの力で押さえるのが、ちょうどよか」
父は気持ちいいのか、目はつぶったままでした。

今思うと、父は私と別れをしていたのだと思います。
「もうすぐ死んでいくオレ、この子達はどういう運命をたどるのか。
しっかり生きてくれよ」と親として考えずにはいられなかったでしょう。

言いたいことは山ほどあったろうけど、出ない声。

タオルを押さえてもらう時間は、父にとっては永遠だったのだと
思わずにいられません。


・孫に話したい私の子どもの頃のこと(7)

2006年07月27日 09時57分00秒 | 孫に残す私の子どもの頃のこと
昔のことを、あれこれと思い出し、感傷にひたるワタシ…
おおかたの話は、だれかれと重なる部分もあり、聞いたことがあると
思われるでしょうね。
終戦の日のお天気の良さは、その時生きていた人は、
皆が経験したことですし。

では、~~~~~~~~~~~~~

周りでも息子やお父さんが無事に復員
(兵隊から解放されて家へ帰ること)して、喜ぶ家庭が多くありました。
命を落とさず元気に帰れてよかったと羨ましく思いましたが、
なかなかうちの父ちゃんは帰って来ませんでした。
父ちゃんの部下だったと言う人が、尋ねてきて「オガタ中尉は、
無事です。やがて帰還されるでしょう」と伝えてくれたりしましたが、
いつのことやら…待つしかない私たちでした。

別れて4年経っています。生まれて半年で別れた妹は
もう4つになっていました。
父の顔なんて知りませんし6歳の弟だって覚えていないでしょう。

待ち続けた私たちにやっと、父の帰還が知らされました。

終戦から1年後、病院船で帰ってきましたが、やせ細っていて
私の目にも重い病気に見えました。
肺結核に罹り、喉頭結核ということで、かすれ声しか出なくて、
父の声は失われていました。
国立熊本病院へ行って、父に初めて会ったあの時…
青葉がやたら繁った季節だったのと、あの当時の病室は暗く感じました。
父はマスクをしていました。「マサヨ大きくなったな」かすれ声でした。
弟や妹にも声をかけましたが、妹は初めて見る父に、不思議そうな様子を
見せ、そばには寄って行きませんでした。

当時結核は不治の病といわれ、空気感染をするといわれていました。
つまりくっついて話したりするだけでうつるといわれていたのです。
ですから気を使った父は離れていました。
恋しかったけれど、想像していた再会ではありませんでした。

やがて菊池のほうの病院に移り、療養しましたが、
亡くなるまでの1年半母ちゃんは父ちゃんを支え続け、看病しました。
私も入院中に何度も見舞いに行きました。
きょうだい達は小さかったので、病院にはあまり連れて
行けませんでしたが、6年生になっていた私は、何度も行きました。

・孫に話したい私の子どもの頃のこと(6)

2006年07月26日 10時40分51秒 | 孫に残す私の子どもの頃のこと
気象台より早く私が宣言します。
熊本は、「梅雨明け」と…
 スゲェ アチィ
外国語ではありまっせん。熊本弁たい。
   ~~~~~~~~~~~
もうちょっとガマンして読んではいよ。

母ちゃんは畑に出ていて、長崎の原爆のきのこ雲を見たそうです。
北西の空に見たこともない入道雲(原子雲と知ったのはあとのことです)
がにょきにょきと湧き上がって、光っていたそうです。
いつもの雲のように白くなく、赤とかオレンジ色で…
入道雲にしてはおかしいと思って眺めました。
私のおじいさん(孫達のひぃひぃおじいさん)と一緒に見たと
言っていましたから、見間違いはないと思います。
熊本からも見えたと言うのは、随分高く上がったということでしょう。

その前に沖縄でも一般の人々が戦火に焼かれていたのですが、
そのことは国民には知らされていませんでした。
全国でたくさんの一般市民が焼け死にました。
たくさんの犠牲者が出て、日本は負けました。
アメリカや連合国に無条件降伏をしたのです。

降伏をした8月15日は朝から真っ青な青空のいいお天気の日でした。
セミの声がいつもより大きく聞こえたというのは、爆撃機の音がなく
緊張がなかったということでしょう。
お昼に重大放送があるというので、皆がラジオの前で待ちました。

そして放送が始まりましたが、子どもには一言も聞き取れず、
何のことやら分かりませんでした。
大人が日本は負けたと言いました。

最後の一人まで戦う!と思い込まされていた人たちの中には、
日本が負けたと信じられなくて、暴れまわった人たちがいたと
いうことを聞きました。
宮城(今の皇居)の近くでは、切腹した人もいたそうですから、
思い込んだ人の心は恐ろしいですね。

あの日のお天気の良さと、静かさは何となく「平和な空気」
を感じさせてくれました。
これからどうなる?大人たちはパニック状態でしたが、
子どもは平気でした。
敵機が来ない。夜も家で寝られる。夜電気の光が漏れると
攻撃されるということで、黒い布で張り巡らせていたものも外されました。

戦争がないといいなー、平和はいいなーと心から思いました。
これで父ちゃんが帰ってくる。戦地から帰ってくる。

私たちは待ちました。

・孫に話したい私の子どもの頃のこと(5)

2006年07月25日 13時35分27秒 | 孫に残す私の子どもの頃のこと
面白くない戦時中の話、読んでくださる方には心から感謝
もうしあげます。

今朝、洗濯物を久しぶりのオテントサマに干しながら、
思ったんですが、「子どもは未来に向かって生きている、
大人は現在に生きている、老人は過去で生きている」と。

今私の脳は完全に過去に、向かって(?)います。
蚕が糸を紡ぎだすように、ぼろぼろ過去の光景が目に
浮かんできます。
これ、脳が進化しているのか、後退しているのか?

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
では、過去へ……
もうひとつ忘れられないことは、私の母ちゃんが毎月10日に、
街中にある琴平神社へ父ちゃんの武運長久(手柄を立てて命が
永らえますようにということ)を祈ってお参りに行っていました。
あの頃はどこに行くにも歩いてでしたから、
その日も歩いて行きました。(片道15キロぐらいでしょうか)

そして熊本大空襲の7月10日。

日中から空襲があり、バリバリと敵機は撃ちまくりました。
爆弾や焼夷弾を落としまくり、数時間で熊本市街の中心地は
灰になりました。
飛行機の音や煙でただならぬ様子は山室にいても伝わりました。

母ちゃんはどうしたろうか、気はもめてもどうにもなりません。
いつも朝早く出てお昼ごろは帰っていたのですが、
その日は夕方になっても帰ってきません。

皆で心配していましたが、気の早い人は、
「敵にやられて死んだかも知れんなー」
なんて言うし、不安で押しつぶされそうでした。

暗くなる頃、へとへとになって母ちゃんは、帰って来ました。
顔も着ていたものも真っ黒にすすけていました。
やっぱり空襲に遭い、あっちの防空壕、こっちの防空壕と、
火を避けながら命カラガラだったということでした。

よかったー。私は母ちゃんが元気で帰ってきてくれてほんとに
嬉しかった。
母ちゃんにとっても、人生で一番怖い思いをした日でした。
町中で、倒れている人をたくさん見たと言っていました。
これは忘れられない日のことです。

そのあと広島に原子爆弾が落とされ、続いて長崎にも落とされました。

・孫に話したい私の子どもの頃のこと(4)

2006年07月24日 14時13分18秒 | 孫に残す私の子どもの頃のこと
警戒警報・空襲警報はサイレンの音で聞き分けるように、
決められていました。
警戒警報までは、まだ余裕がありましたが、空襲警報に変って
B29型という飛行機の低く気味悪い音がしだすと、
体がブルブルッとしました。
空襲!
60年経った今でもあの時の、爆撃機B29型の編隊の音は
忘れません。
編隊というのは、飛行機が1機だけではなく、
1機先頭のあとに続いて2機が並んでいます。
それがいくつも連隊で来ますから、迫力は腹に響きます。

それに、今見る航空機は高いところを、飛んでいますが、
空爆の飛行機はアメリカ兵の顔が見えるくらい低いのです。
機関銃などきれいに見えていました。   
この銃は前にも後ろにもついていたように思いました。

日本の飛行機は小さくて軽々とした音でしたが、
B29は気味が悪かった。
腹の底を揺るがすような、グゥ~~~~~ンと低いけれど、
気味の悪い音でした。

いつも南から北へと飛んで行きます。

山室の家から東の空がよく見晴らしがききましたが、
ちょうど見ているところ辺からバリバリと機関銃を撃ち始めます。
市街地に向かって撃つのです。
焼夷弾も明るく燃えながら落ちていきます。

怖いけれどここには落ちないとか、撃たれはしないとか、
思って眺めていたように思います。

何の根拠もないけど、そう思わないと耐えられなかったのでしょうね。

そして昭和20年7月10日のことです。

・孫に話したい私の子どもの頃のこと(3)

2006年07月23日 13時15分02秒 | 孫に残す私の子どもの頃のこと
先ほどは、明るい空になりセミの声が、響いていましたが
また急に大粒の雨で、どこに雨宿りしているのか…
今年は調子狂っているセミ…
   ~~~~~~~~~~~~~~

銃後(直接、戦うことではないが、そういう気持ちでいる人々のこと)
の国民も、いろんなことを強いられました。
供出といって戦争で貧乏になってしまった日本のために、
お米を命令された量を、出さなければなりなせん。

「アカガミ」と一緒で「イヤ」と言うことは許されません。
折角作った米を自分達が食べる分がなくても、供出させられました。

他に兵器を作るために、家で使っていた鍋、釜その他金属のもの、
指輪とか金歯とかぜいたくと思われるものはもちろん、全部供出です。

あの頃のことを思うと、「いやです」「しません」と自由に言える今の時代が、
どんなに幸せなことか考えてみてね。

日本の旗色はだんだん悪くなり、熊本にもアメリカの飛行機が飛んできて、
焼夷弾や爆弾を落とすことが毎日のように行われました。

私が困ったりいやだったりしたのは、夜の空襲でした。
母はまだ赤ちゃんだった妹を抱いて、防空壕に逃げるから、
「あんたは弟を連れて逃げなさい」と言われていたのだけれど、
この弟(4歳)が、一度寝たらゆすっても叩いても起きないのよ、
私は半泣きで「起きて、起きて」と起こすのだけど、起きなくて
何十年経っても、あの時の苛立ちは昨日のことのように思い出されます。
「ここにいたら死ぬよ!」と言っても、小さい子には通じませんし。

幸い焼夷弾も落ちなくて、火事になることもなく、うちは無事でしたが。
それからも、安心の日々はありませんでした。

・孫に話したい私の子どもの頃のこと(2)

2006年07月22日 13時37分43秒 | 孫に残す私の子どもの頃のこと
夏休みに入りましたね。
梅雨が上がらないので気分が出ませんね。

この私の子どもの頃の話は、体験したことです。
何もフィクションはありません。
しかし、おとなになってからそうだったんだと、
知ったり感じたことは多くあります。
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

最初は勝ってる、勝ってるという情報が、ラジオや新聞などで
知らされましたが、本当はどんどん負けていて、
それでも日本国民が、「赤ちゃん一人になっても、戦いつくす」と
言うスローガンを掲げていて、それ以外に「日本はもうだめだ」
とか「負けるだろう」とか、本当のことを言えば「非国民」とか
「スパイ」だとか言われて、そこでは住めないようになったり、
警察に捕まえられたりするのでした。

その頃の標語で覚えているのは「欲しがりません、勝つまでは」とか
「壁に耳あり、障子に目あり」「ガソリンの一滴は血の一滴」
「ぜいたくは敵だ」など60年経ってもスラスラ出てくるのには自分でも
驚きます。
その後「ぜいたくは敵だ」のポスターに「ス」を一字書き加えて
「ぜいたくはステキだ」としたとか、しないとかそんな話も聞きました。

今日の朝ドラ「キラリ」で、「ぜいたくは敵だ」と書いてありました。

外地(たくさんの国がありすぎて書ききれません)で戦っていたけれど
撤退(もう戦えなくて退くこと)が多くなりなりました。
だって、食料も兵器の弾も届かなくて、どうして戦えますか?
実は弾を届けたくても日本には、弾を作ることさえもう出来なく
なっていました。
弾に当たらなくても、食べ物がなくて体が弱ったり、
病気になる兵隊さんばかりです。
こうして無駄といっては罰が当たりますが、無念な思いで死んで
いった方々が多かったのです。

最後の頃は、特攻隊といって小さな飛行機に乗って、
敵の船に自分が爆弾となって、突っ込んでいくと言うことさえ
決行されました。

この話はのちにテレビでも繰り返しフィルムや、ドラマで放送されたから
よく知っていることでしょう。

そして私たち普通の国民にもじわりじわりと、戦争の影が迫ってきました。