初めて知る高齢という現実

最近、弱ってきたオット82歳。
何とか二人で明るく過ごしたいとあがく毎日を記録します。
だんだんグチに移行?

敏腕美人記者インタビュー

2006年09月17日 12時00分58秒 | 井村星夫の道
特別付記 「井村星夫の道」を終えて…

“井村星夫夫人「いわ子さん」へのインタビュー”

インタビュァー:カルメン(わが社きっての敏腕美人記者)



カルメン「今日はお邪魔しまーす」

いわ子 「はいっ、いらっしゃいっ」

カルメン「オッ、いいノリですねぇ」

いわ子 「いま、泳いで帰ったとこ、気分が良かつよ」

カルメン「じゃ、いろいろしゃべってくださいね」

いわ子 「冗談半分、嘘半分なら…」

カルメン「ほんとは一個もないじゃないですか、困りますよー」

いわ子 「なんね、何が聞きたいとね」

カルメン「二人の馴れ初めとかー」

いわ子 「ゆうべのご飯が何だったか思いだせんとに、そぎゃん昔は知らんよ」

カルメン「またまた、とぼけてー。都合でボケかますんだからー」

いわ子 「一昨日来たら、覚えとったとに、残念でした」

カルメン「じゃぁ話題を変えてと…星夫さんのいいところ、教えて下さい」

いわ子 「うちの夫の良いところ、あなたが聞いてどうすると?
     中古品としても引き取り手はおらんのに、引き取ってくれると?」

カルメン「要りません!!」

いわ子 「うわっ、返事の早さ~。あの人はね、裏表は一切ないよ。
     いつも一本道。ようあれで面白かたいと思うけどね、
     それで約束は忘れんしね。決め たことはきっとやる。
     意思は固いし頑固じじぃのサンプルね。
     シンビジュームを育てることが、趣味だけどもう15年以上の
     古株を、まだ育てて花を咲かせてる。辛抱強い人よ。」

カルメン「困ったことはありませんか」

いわ子 「よう聞いてくれました(よよと泣く)あの人は冗談を言わん、
     言っても笑わん、ギャグを聞いても知らん顔。オヤジギャグとは無縁。
     シャレなんて言ったこと無し、(よよ、よよとまた泣く)」

カルメン「そりゃー面白い人ですねぇ」

いわ子 「いまどき面白い人!天然記念物!あははは」

カルメン「泣いたり笑ったり忙しいですね。生まれ変わってもまた星夫さんと
     ご夫婦になりたいですか?」

いわ子 「きたよ、きたよ、凄い質問。あの人極楽。わたしゃ地獄。
     何度生まれ変わっても、もう会うことはないね。 
     もし万が一巡り逢うても、わたしゃ面食いだから、
     きっと今度は、無視、むし」

カルメン「無視ですかぁ、なんだか星夫さん、カワイソウ」

いわ子 「今度はね、キムタクでしょ、妻夫木でしょ、もこみちでしょ、
     藤原達也でしょ、ウオン・ビンでしょ、東山もいいし、岡田准一が……
     ちょっとちょっと、あと5~6人思い出すけん、阿部寛や宇梶は
     オトナの魅力だし、新之助もいいねぇ…」(うっとりうっとり)

カルメン記者呆れて去る。

いわ子 「待ってぇ……」
      

・井村星夫の道(15)

2006年09月16日 10時07分00秒 | 井村星夫の道
・豪勢な食事(最終回)

炊事係の当番兵は、現在の消費量を減らしも、
また余らせることもしないようにするのが、ウデであり、
余った量の缶詰・バターなど、当時の日本人誰もが、
食べたことがないようなものを、ポンポン容器に穴を開けて
消費したように見せかけ、廃棄処分される。

多かったのは、ホットケーキの素である。
今でこそ商品として流通しているが、
その頃見たことも聞いたこともないものであった。
もったいなくて、もったいなくて、それを見ながら月夫は考えた。

誰からでもすぐ好かれるタイプの月夫は、
アメリカ兵からも、可愛がられたので、
決めた場所に星夫を待機させ、
穴を開けただけの缶詰などを、こぼれないように
トラックから降ろすのである。
アメリカ兵は見て見ぬふりしていた。

その頃の井村家は、
食料だけは豪勢になったのである。

周りの人たちが、食べたこともないバターのにおいのする台所であった。
育ち盛りの子どものいる井村家には有難いことであった。

当時、白い米の飯を「銀シャリ」といったが、
時々茶山の家で食べさせてもらっていた星夫が、
ときにはこのアメリカ食で茶山にお返しができた。

小さい頃はやんちゃで、叱られてばかりの月夫であったが、
今は親思い兄弟思いの頼れるおにいちゃんであった。

やがて…
旧制中学の学歴で卒業した星夫も働くことになり、
兄と一緒に両親への仕送りをしたのであった。

   ~~~~~~~~~~~~

以後もろもろの山坂を越えながら、
学歴があれば…
譲られた財産があれば…
と、ないものねだりが
気持ちの底になかったとは言えないが、
曲がりなりにも健康で、75歳を越えた今
幸も不幸も、すべては過去の話として、
飄々と星夫は生きているのである。(終わり)

  ~~~~~~~~~~~~

あとがき

長い間、読んでいただいてありがとうございました。
一市民のある期間の出来事、それにまつわる話を書いてみました。
姉妹の話を入れたら、もっと違う話題が出たと思いますが、
星夫の一方的な話に終始しました。
クソがつくマジメなので、「嘘を書くな」が厳命でしたので
面白く楽しくは消えてしまいました。
面白い読み物でないのは、星夫の性格ゆえ…
えぇ、私の責任ではございません。




・井村星夫の道(14)

2006年09月15日 09時03分01秒 | 井村星夫の道

・リトルアメリカ


月夫は紡績会社に就職した。
やがてその会社の給料では、どうにもならないことに気づく。

あまりに安すぎた。

家族はおろか、自分が食べることにも満たない額であった。

高い給料を求めて、中津にあった
アメリカ軍キャンプに就職することができた。
アメリカ兵の食の世話をする炊事当番の仕事である。

月夫が目にしたのは、別天地であった。
豊かな国アメリカが目前に広がっていた。

キャンプの食料品は、毎週金曜日にアメリカ本国から、
送られてくるシステムであった。

事前に少なく申告すれば、当然量は減らされて、送られてくる。
残量が多いとそれも減らされる。
ちょうど先週と同じ量が軍の担当者の
ウデの見せ所となるわけである。

そこら辺は、日本の役所と同じである。

   もう少し続きます


・井村星夫の道(13)

2006年09月14日 09時53分25秒 | 井村星夫の道
・茶山君


クラスメートの中に、茶山という男がいた。
豪快な男で、勉強も体力でもクラス一である。

家はお寺であったが、住職の父が寝込んでいて、
お寺の仕事が果たせないので、中学3年の茶山が
父の替わりに檀家回りをするのである。

学校へ袈裟を風呂敷に包んで持ってきていて
葬式があればそのまま駆けつけるという按配であった。

小さい頃から、住職である父について回ったということで
少年ながら説教もした。

茶山がしゃべるとクラスの皆が納得した。
そういう頼れる男であった。

何にでも臆することなく、ことに当り、
長じても故郷の親友として、
星夫だけでなく皆から頼られ慕われた。

理由は分からなかったが、引揚者で転入生の星夫を
気遣ってくれ、何かと庇ったので、イジメには遭わなかった。

引揚者というだけで、理不尽ないイジメがあっていたので
茶山の存在は星夫にとっては、有難かった。

時々は茶山家の夕食まで長居して、「銀シャリ」と呼ばれた
白いご飯をほおばった。お邪魔は十分知りながら…

茶山の母親の視線を感じつつ…


まだ続く…


・井村星夫の道(12)

2006年09月13日 09時13分08秒 | 井村星夫の道

・働く月夫


とにかく人様の納屋へ住みついた。

父は、喘息という持病があったし、
体が弱く薬は手放せなかった。
体を使って、がむしゃらに働くというタイプではない。

材木商に就職はしたものの、所詮は個人商店の事務員として
高給を呉れるはずもないのであった。

当然18歳の兄月夫が頼られることになった。
家族全員飢え死にするかも知れないのである。

星夫も何とかしたかったが、星夫はまだ旧制中学に在籍していた。
どうにか中津の中学に編入が許可されたが、現在3年生。
旧制中学の卒業資格取得までには、
あと2年学校へ行かなければはない。

命からがらの体験の後では、勉学の意欲は萎えていた。

本土と朝鮮との学校のレベルの差があった。
教材すら、ノート鉛筆すら無かった。
制服もカバンも靴も…戦後の物のない時代とはいえ
あまりに何もかもない…

弁当も無かった。
朝、おかゆをすすって登校しただけで、腹は慢性的に空いていた
クラスの弁当の時間は拷問に近かった。

教室にいられず、外に出て水道の水を飲んでごまかしたが
ごまかしきれるものではない…

    まだ続きます、

・井村星夫の道(11)

2006年09月12日 08時27分02秒 | 井村星夫の道


・日本の土


引き揚げ船で、着の身着のままで日本の土を踏んだ時、
11月に入っていた。晩秋であった。
本籍地の中津を目指した。
頼る親戚もなかったのだが…

何はともあれ、こうして日本へ帰り着いてみると、
不幸の中でも、幸運を喜ばずにはいられなかった。

家財を没収された時のことを恨んでいたが、
あの船で家族全員9人が無事日本へ帰り着いていただろうか?
玄界灘の荒波を思い出すとき、そう思った。

幸と不幸の隣り合わせ…折角まとめた家財道具の
没収のことは、もう恨むまいと思った。

兄弟が一番下はまだ2歳、上は18歳、間に5人、両親。
ともあれ家族全員が日本の土を踏んだのは、
幸運であったと言えないか?
が…
感謝の気持ちの下から、住む家もなく家財もなく金もなく
職もないなかで、どうしていいのか、その時の両親の気持ちは
暗澹たるものであったと思う。

着いたばかりの門司港を見回すと、落ち着いているはずの日本には、
みすぼらしい子どもの姿が多くあった。
これが話に聞く戦争孤児というものだろうか…
日本に帰り着きさえすれば、どうにかなる…
そういう考えは目の前の現実がみごとに拒否していた。

冬はそこまで来ていた。
一人に1枚ずつ配給された、フェルトが寝具であった。
寝ても起きても着の身着のまま…

その当時のことを思い出すたび、つらい星夫一家であった。




・井村星夫の道(10)

2006年09月11日 09時47分27秒 | 井村星夫の道

・機雷

そういうさまざまな話を乗せながら、
米軍が調達してくれた
そう大きくはない木造船に乗り込み、
星夫の一家は日本へ向かって出帆した。

名だたる玄界灘の大しけに揺られて、
一昼夜かかり、多くの人は、
船酔いに苦しめられた船旅だった。

星夫は、興味もあって操舵室のすぐ横で、
海面を見続けた。
この先に日本があると…
星夫にとっては初めて見る、初めて踏む日本の土であった。

夜の海面にキラッと光るものがある。
船員が「今の光るものを見たか?」と問いかけた。
「はい」と答えると「あれは、機雷だ」と教えてくれた。

海に漂う機雷は、それに触れたとたん爆発する構造のものだ。
「この船が木造だからあんな風に流れていったけど、
鉄で出来た船だったら、磁石の力で、吸い寄せられて、
爆発したかも知れん」

船員の言葉に星夫は震えながら、
多くの沈没した船の話を思い出していた。

玄界灘では多くの命が失われていたのだった。

        まだ続くのです


・井村星夫の道(9)

2006年09月09日 10時15分23秒 | 井村星夫の道
・その子の決断と行動

これは当然、後で聞いた話であるが、
同級生の「桜田その子」は、
15歳の少女とは思えない行動をとった。

その子の家は、父は出征して母親しか居らず、
妹ふたりを抱えて、長女の自分がしっかりしなければという
気持ちから気丈に立ち回った。
岸壁に集合するまでの3時間にできることは、何であろうか。

すぐさま近所の朝鮮の人たちを呼び集め、
家中の金目のものを売り払ったのである。
思い出があろうとなかろうと、大事なものであろうとなかろうと、
一切合財!

「これ要る人?」「次はこれ」と欲しい人に手を挙げさせ、
鍋・釜にいたるまで片っ端から値をつけ売り払い、
最後は「この家も売ります!」と。

家に対する思い入れというものが多いオトナだったら
こうサッパリとはいかなかったかも知れない。

半分コドモだからこそ、決断などという小難しい力を借りずに
ササーッと流れていったのではなかろうか…

そうしてかき集めたお金を、それぞれ家族の体に巻きつけ、
引き揚げてきたのだ。
その金が内地へ帰ってからどれだけ、助かったことか。

内地へ帰りついても、寄宿先がない人がほとんどなので、
茫然自失の人、
これから先、どうして生きていこうかとお先真っ暗な家族、
それより果たして日本に帰りつくのか?と
右往左往する人たちの中で、桜田その子の決断のよさ、
行動力のありよう…


この話は数年前、星夫のクラス会で、
その子から直接聞いたのだが、聞いた同級生はみな驚き、
あの場の空気を思い出しつつ、その若さで賢明な行動をとった、
その子を、みんなで賞賛したのであった。


   まだ続くのです…


・井村星夫の道(8)

2006年09月08日 10時17分24秒 | 井村星夫の道

・ 3時間

やっと、統営の町にも、アメリカ軍が駐留して来た。
それでどうやら暴動が鎮静していったのだった。

つい先日まで銃を持って、向き合っていたアメリカ軍が、
いまや助けの神となった。
こんな皮肉なことがあろうか。

日本人たちは流されるままの一枚の板切れであった。

すぐさま大人の男たちは、西本願寺に集合するよう命じられ、
日本への引き揚げが現実化して、準備が始まった。

そして、3時間という時間を切られて、
その3時間の間に、身につけられるだけの荷物をまとめ、
岸壁に集合するよう命じられた。

大人は持てるだけの荷物を持ち、一番小さい子は姉に背負われ
他の子たちも、歳相応な荷を背負わされて、
今まで故郷であった統営の町を、
石を持て追われる悲しい状況が、出現したのであった。

戦争と言う愚かな行為で、今まで築きあげてきた庶民たちの
足元が音を立てて崩れ、難民となって流浪する…
大人たちの目はうつろであった。

その3時間に、ひとつのドラマがあった。

              つづく



・井村星夫の道(7)

2006年09月07日 09時42分27秒 | 井村星夫の道
ちょっと気が早いですが、
秋バージョンへ変えてみました。
ほんとにオシャレな人は、
暑くても、寒くても、季節の先取りが
大切だそうですから…

別に汗はかかないし、風邪引きになる
心配もないので、こんなことでの
先取りはOKよね。

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 ・出航失敗

星夫の家も遅ればせながら、
オンボロ小船で日本へ帰る交渉がまとまり、
やれやれやっと帰国できると安堵した。

家族全員乗り、星夫が荷造りをした荷物を積み込み、
いま岸壁を離れようとした時、一人の知人が
「おーい、おーい、乗せてくれー」と
叫んでいるのに気がついた。
引き返すか?そのまま出航するか?迷いに迷った。

やっぱり見捨てることは出来ないと、引き返したところを、
見張りの朝鮮人に見つかった。

父は捕まり、家財は一切合財没収される不運!
何のための荷造りだったのか、
すべては水泡と化したのであった。

治安も乱れに乱れ、小競り合いは始終あっていた。

血気盛んな日本人が軍刀を持って暴れたとか
それに対抗して朝鮮人が報復したとか、
血なまぐさい騒ぎが日常繰り返され、
一般の日本人は生きた心地がしなかった。