真実と幻想と創価学会

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黒い手帖 より「法曹界、官庁、警察など公権力すべてに浸透」その二

2012-01-15 16:29:04 | 「黒い手帖」紹介

黒い手帖 創価学会「日本占領計画」の全記録 黒い手帖 創価学会「日本占領計画」の全記録
価格:¥ 1,785(税込)
発売日:2009-02-27

第四章 カルト化する「池田教」より

「法曹界、官庁、警察など公権力すべてに浸透」その二

 今でも創価大学は、学生諸君に資格を取るように熱心に勧めている。創価大学の学生には、公明党というバックがあるうえ、学会系の企業も多いので、就職には事欠かない。創価大学生は官庁への就職も、公明党の後押しがあり、力さえ養っておけば、有利に進められる。
 一説によると、法曹界や外務省職員の学会員は三桁をくだらない、各省キャリアにも数人から数十人はいる、といわれている。地方公務員や小中学校教員となれば、数万人にも及ぶはずだ。
 しかも、学会は、これらの公職に就く学会員を組織化している。たとえば、外務省の学会員組織は「大鳳会(たいほうかい)」、学会検事は「自然友の会」などという、一見すれば何だか分からない親睦団体の名を借りて、統括されている。
 ちなみにその「自然友の会」には次のような逸話が残っている。
「自然友の会」の懇談会に出席した池田氏が
「私が、今衆議院選なんかに出て、バンバンやれば、日本の国は大変なことになるだろうなぁ。しかし、私は、今そういうことはしない。私が戦ったのは、戸田先生の復讐のためだけだ。革命とは復讐戦だよ。……私の復讐は弟子達がやるんだ。……君は将来検事総長になれるか? なれるのなら祈ってあげよう」と、一人の青年に問いかけた、その青年とは、当時は検事で、後の公明党代表となる神崎武法氏だった。

後略~

さすがだなぁ、と思わず感心せずにはいられない学会組織。

ここまで狡猾に徹底して権力に浸透する宗教団体が他にあったでしょうか。

池田氏の神崎青年への発言はしかし、よう言えたものですよね。

復讐ね~。仮にも仏教系宗教の指導者が信者に対してそんなことを口にしていいものか。

しかも検事総長になれなかったら祈ってくれないんですって!

器の小さい男よ。

学会員検事にさえこの態度じゃ、一般の末端会員なんてアウトオブ眼中でしょうね。

けれどその言葉を真に受けてかどうかは分かりませんが、神崎氏は頑張って出世して公明党代表にまで登り詰めるんですね。

そうやって皆、総体革命のコマとなって邁進するんですね。

おお、「総体革命」って「革命」だから復讐戦でもあるんですね。

復讐して勝ち得た世界はどんな景色でしょう?そこはまた必ず復讐によって奪われる修羅の世界ではないでしょうか?

広宣流布や総体革命と名を飾られ、そうとは知らず革命の復讐戦に身を投じている学会員の皆さんは、そろそろ自覚しなくてはいけないのではないですか。

復讐に囚われても本当の幸せを感じることは決してできませんよ。


8 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
こんにちは。フランスは今年は暖冬かと思いきや今... (ミルキー)
2012-01-18 02:15:58
こんにちは。フランスは今年は暖冬かと思いきや今週は冷え切っています。

革命は復讐戦ですか。すごい過激な指導ですね。
「師が叩かれたら弟子が仇をとるんだ、打たれたら、打ち返すんだ」といったような内容の指導を聞いたことがありますが、人間性の品が欠けている言葉です。

日蓮大聖人も命に及ぶ迫害を受けましたが、迫害を与えた人物に恨み言など言っていませんでした。むしろ、感謝しているようなことを言っていました。
釈迦にしても、ダイバダッタに殺されそうになりましたが、仇だ、復讐だという次元を遥かに超え、法華経で悪人成仏を説き、ダイバダッタに記別を与えています。

池田さんの人間性は、高利貸しの営業部員の域で留まっているに過ぎないのでしょう。宮殿に住んでいても、心は修羅の境涯で、不幸な方だと思います。
「祈りの手」という有名な絵があるのをご存じでし... (kan)
2012-01-20 12:57:53
「祈りの手」という有名な絵があるのをご存じでしょうか。

アルブレヒト・デューラー(1471年から1528年)というルネッサンス時代の優れたドイツの画家が描いた作品です。
その作品にまるわる感動的な話です。
いまから500年ほど前、ドイツのニュールンベルグの町にデューラーとハンスという若者がいました。

2人とも貧しい子たくさんの貧しい家に生まれ、小さな時から画家になりたいという夢を持っていました。 

2人は版画を彫る親方の元で見習いとして働いていましたが、毎日忙しいだけで絵の勉強ができません。

思いきってそこをやめて絵の勉強に専念したいと思いましたが、絵の具やキャンバスを買うお金もままならないほど貧しく、働かずに勉強できるほど余裕はありませんでした。

ある時、ハンスがデューラーに1つのことを提案しました。

「このままでは2人とも画家になる夢を捨てなくてはいけない。
でも、僕にいい考えがある。

2人が一緒に勉強はできないので、1人ずつ交代で勉強しよう。
1人が働いてもう1人のためにお金を稼いで助けるんだ。
そして1人の勉強が終わったら今度は、別の1人が勉強できるから、もう1人は働いてそれを助けるのだ」

どちらが先に勉強するのか、2人は譲り合いました。

「デューラー、君が先に勉強してほしい。
君の方が僕より絵がうまいから、きっと早く勉強が済むと思う」

ハンスの言葉に感謝してデューラーはイタリアのベネチアへ絵の勉強に行きました。

ハンスはお金がたくさん稼げる鉄工所に勤めることになりました。

デューラーは「1日でも早く勉強を終えてハンスと代わりたい」とハンスのことを思い寝る時間も惜しんで絵の勉強をしました。
一方残ったハンスはデューラーのために早朝から深夜まで重いハンマーを振り上げ、今にも倒れそうになるまで働きお金を送りました。

1年、2年と年月は過ぎていきましたがデューラーの勉強は終わりません。
勉強すればするほど深く勉強したくなるからです。

ハンスは「自分がよいと思うまでしっかり勉強するように」との手紙を書き、デューラーにお金を送り続けました。

数年後ようやくデューラーはベネチアでも高い評判を受けるようになったので、故郷に戻ることにしました。

「よし今度はハンスの番だ」と急いでデューラーはニュールンベルクの町へ帰りました。
2人は再会を手を取り合って喜びました。

ところがデューラーはハンスの手を握りしめたまま呆然としました。
そして、泣きました。

なんとハンスの両手は長い間の力仕事でごつごつになり、絵筆がもてない手に変わってしまっていたのでした。

「僕のためにこんな手になってしまって」と言ってデューラーはただ頭を垂れるばかりでした。

自分の成功が友達の犠牲の上に成り立っていた。
彼の夢を奪い、僕の夢が叶った。

その罪悪感に襲われる日々を過ごしていたデューラーは、「何か僕に出来ることはないだろうか」
「少しでも彼に償いをしたい」という気持ちになり、もう一度、ハンスの家を訪ねました。

ドアを小さくノックしましたが、応答はありません。
でも、確かに人がいる気配がします。
小さな声も部屋の中から聞こえきます。

デューラーは恐る恐るドアを開け、部屋に入りました。
するとハンスが静かに祈りを捧げている姿が目に入りました。

ハンスは歪んでしまった手を合わせ、一心に祈っていたのです。

「デューラーは私のことで傷つき、苦しんでいます。自分を責めています。
神さま、どうかデューラーがこれ以上苦しむことがありませんように。
 
そして、私が果たせなかった夢も、彼が叶えてくれますように。
あなたのお守りと祝福が、いつもデューラーと共にありますように」

デューラーはその言葉を聞いて心打たれました。

デューラーの成功を妬み恨んでいるに違いないと思っていたハンスが、妬み恨むところか、自分のことより、デューラーのことを一生懸命祈ってくれていたのです。

ハンスの祈りを静かに聞いていたデューラーは、祈りが終わった後、彼に懇願しました。

「お願いだ。君の手を描かせてくれ。
君のこの手で僕は生かされたんだ。
君のこの手の祈りで僕は生かされているんだ!」

こうして、1508年、友情と感謝の心がこもった「祈りの手」が生まれました。


見返りなど一切求めず、ただその人のために!
本当の「祈り」とはこういう世界ではないでしょうか。

社会的立場を指して、「~なら祈ってやろう!」などというのは独裁と傲慢の塊まりだと思います。

さらに「仇打ち」だの「復讐」だのと、まるでヤクザの世界です。
敵をも敵とせず、調和と平和で包み込む世界が本来の宗教の基本理念だと思います。

池田創価はカルトの証明にほかならない!
そんなふうに思います。
ミルキーさんへ (クロ)
2012-01-21 15:54:54
ミルキーさんへ

こんにちは。そちらは寒暖の差が激しいのですね。
体調を崩されませんよう、ご自愛ください。

過去の池田氏の発言は過激なものも多く、また「仇討ち」にこだわる傾向のものが多いですね。
自分を認めなかったものへの復讐です。
これは返せば、自分が一番でないと気が済まない、自分を愛し敬う人でなければ認められないという、ある種の人格障害ではないかと伺えます。
なまじ自分にそれらの我侭とも言える性質を通す環境があったために、欲望だけが肥大していったような気がします。
反骨精神で自分の力で見返すんだ!というものならば分かりますが、権力や立場を振りかざして下の者にも仇討ちを煽る辺り、到底宗教者としての寛容さ慈悲深さは認めることができません。
人間としての未熟ささえ感じてしまいますね。
kanさんへ (クロ)
2012-01-21 16:08:36
kanさんへ

来ましたねー。
kanさんのとてもいい話シリーズ!
毎回ありがとうございます。

デューラーはドイツでとても高名な画家のようですね。
色鉛筆の名前にもなってる。
やはり人は一人で生きているものではないと感じさせるお話ですね。
高名な人の影にもたくさんの名もなき支えがある。
ハンスはまず先にデューラーに勉強の順番を譲ります。その時点で、ハンスの純粋な心に打たれます。
そんな純粋なハンスの友人であるデューラーもまた、純粋な人だったのでしょう。

「祈り」といえば、ちょっと話はずれますがフィギュアスケートの真央ちゃんのプログラムに「祈り」をテーマにしたものがあります。
とても清らかで静穏なイメージの演技です。
祈りとは本来、こういうイメージだよなーと思わずにはいられません。
それは記事に書いたような池田氏の高慢な台詞とは、似ても似つかない比べるのも失礼なほどの、美しい姿で感動します。
デューラーとハンスのお話、ありがとうございます。 (ミルキー)
2012-01-24 02:10:58
デューラーとハンスのお話、ありがとうございます。
感動するということは、心の栄養ですね。
Kanさんのお名前は、感(Kan)動を与えるという意味でしょうか。
他者の幸福を祈るということは、人間の最も美しい姿です。
自分だけ幸福であれば、他人はどうでもいいというのは、本当の幸福の形ではないと思います。

東日本の震災以来、さらに、そういった思いが強くなりました。

たまたま、読んだ本に、次のような話がありました。
知的障害を持つ子供がいて、その子には兄と妹がいます。
あるとき、ケーキが二つしかなかったので、母親は、その子に一個あげ、残りの子供にケーキを半分にして、あげました。すると、その子はケーキを食べようとしませんでした。
母親がその子のケーキを半分にして、その半分を母親が食べると、その子は喜んで、残ったケーキを食べたのです。父親は、「その子は損得の知恵は発達していないかもしれない。しかし、兄弟がケーキを半分しか食べれないとき、自分は一個のケーキを全部食べてはいけないという知恵をもっている」と言ったそうです。
兄弟が半分しか食べれないのに、自分だけ、一個のケーキを食べてもおいしくないのです。

幸福も同じではないかと思います。
周囲の人も幸福になって、自分も幸福になる。それが本当の人間としての喜びでしょう。
ミルキーさんへ (kan)
2012-01-28 23:18:37
ミルキーさんへ

ご丁寧なレス、ありがとうございます。m(_ _)m

kanは感動の感(kan)、ちょっと褒めすぎ・・。(笑)
コイツはあかんで!という、あ(kan)かもしれません^^;。

ご紹介の子供のエピソード、素敵ですね。♪
純粋な人の優しさが滲み出てますね。
「他人は違う顔をしたもう一人の自分」と言いますが、やはり全ては見えない糸で繋がっていて「共有」し合ってる存在なのでしょう。

ホ・オポノポノが素晴らしいのも、その所以のように思います。
「ワンネス!」
全ては一つ!
これからの時代、ますます本来の姿が静かに光ゆく。
そんな気がしています。

素敵な週末をお過ごし下さい^^。
ミルキーさんへ (クロ)
2012-01-29 16:50:26
ミルキーさんへ

純粋な心に胸打たれるようなお話、ありがとうございます。
東日本の震災で有名になった言葉にも通じるものがありますね。
「奪い合えば足りず、分け合えば余る」
ご紹介のお話の子どもはきっと純粋がゆえに、損得なしに表現できるのでしょう。
人の幸せを自分の幸せのように思い、人の痛みを自分の痛みのように思う。
その純粋さがそのまま出ているのだと思います。
きっと人間、こういう心を必ず持って生まれているのだと思うのですが、どこかで見失ってしまうのでしょうね。
この見失いがちな美しい光を、たくさん見つけていくことが幸せへ繋がるのかと思ったりもします。
kanさんへ (クロ)
2012-01-29 16:53:29
kanさんへ

kanさんの「かん」は私も感動の「感」だと思いますよ~。
感動だけでなく、感謝や感激といった、心に働きかける力を持っていると思います。
感受性に働きかける力といったところでしょうか^^。

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