と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

10月17日(水)のつぶやき

2018年10月18日 06時19分00秒 | とーま君の流儀2018
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初めての武漢、旅歩きショーケース(三国志の舞台、荊州古城)

2018年10月17日 07時56分39秒 | 中国武陵源紀行2018年10月

初めての武漢、旅歩きショーケース(三国志の舞台、荊州古城)

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初めての武漢、旅歩きショーケース(武漢はどんなところ?)

2018年10月17日 07時54分14秒 | 中国武陵源紀行2018年10月

初めての武漢、旅歩きショーケース(武漢はどんなところ?)

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今日はこれから古文書講座に出かけるのだ。楽しみ、楽しみ

2018年10月17日 07時49分20秒 | とーま君の流儀2018

7:45なり。

朝食をありがたくいただき、毎日変わりなく起きて、打鍵をさせていただいて過ごしている。こんなにありがたいことはない。

長女も長男も、それぞれの配偶者も変わりなく過ごしているのがありがたい。それぞれの孫たちも変わりなくである。

本当に涙がでるほどありがたい。

世界が平和でありますようにと毎日願っているが、これである、これ。

平和だからありがたいのである。

現代日本は実に幸福な国家でありまするよん。

これが未来永劫続くことを政治家サマたちに、お願いするしかない。

ジジイになって、古文書講座で四苦八苦しているのもありがたいからだ。

マジに。


(^-^)/

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10月16日(火)のつぶやき

2018年10月17日 06時17分24秒 | とーま君の流儀2018
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煩悩・苦悩が濃ければ濃いほど、蓮の花は見事に咲くのである。だったら気にしなければ良いのだ。

2018年10月16日 19時44分48秒 | 精神のありかた

泥田で育ったボキだけど、まだ大輪の花は咲いていない(^_^)。

 


 

蓮の花というのは、泥水からしか立ち上がってこない。これはかなり心強いことを、ボキのような凡夫に伝えてくれている。ありがたいことである。

泥水が濃ければ濃いほど見事な大輪の花を咲かせるそうな。逆に泥水が薄ければ薄いほど、小さな花しか咲かせないのだという。つまり水がきれいであればあるほど駄目なんだそうな。

ボキの居住地近くにその蓮が有名な地区があって、なるほどそうであった。腰まで使って農家の方々が手入れをなさっていたのを見たことがある。

泥水というのは、ボキも含めて人間の煩悩でもある。苦悩と言い換えても良し。

つまり煩悩・苦悩が濃ければ濃いほど、蓮の花は見事に咲くのである。

蓮の花を見ていると、煩悩・苦悩が大きければ大きいほど見事に解決するということを感じてしまう。そうならば、今現在煩悩・苦悩で心痛めている方々は気にしないことであると言い換えてもよいのだと気がついたのだ。

蓮の花は力を与えてくれるし、楽しく生きる智恵もくれる。

ちなみに、お釈迦さまの台座を蓮華座と言う。お釈迦さまは、このことを知っておられたにちがいない。だから、蓮華に座っておられるのだ。

 

ボキは、これまでいろんな泥水をすすってきた。まったく大学学部の苦学生から始まって、貧乏・苦悩・煩悩・病苦等々のオンパレードであった。

一度なんか、暁の下、かなり重量の新聞を自転車に積んでいて思わず涙が出てしまったこともあったっけ。情けなくてである。我が大学学部のクラスメイトたちは、こんな苦労はしていなかったからである。遊ぶことのみ忙しくて、真剣に学問なんかしていたのだろうか。ボキのみが、貧しくて学費も生活費も全部自分でまかない、せっせと大学学部に通っていたのだった。

だから、傷つきやすい性格になってしまったのかもしれない。いわゆるいじけた、ひねくれ者であったかもしれない。知れないではなかったなぁ。事実である。事実。

そういう貴重な体験をさせていただいたということは、イコール泥田で修行していたようなもんである。

そう思う。

泥田であったが、大輪の花が咲いたわけではない。いまでもささやかなジジイ生活を送っているだけである。

ま、ちったぁ人の役にはたっているかもしれないけど。

 

今日は千葉市に行っていた。バイトである。授業をやってきた。帰りは、蘇我駅まで歩いた。曇っていたし、夏とは違う。13キロになった。ずいぶん歩いたなぁ。これもまた健康のもとである。

ヾ(*´∀`*)ノ

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10月15日(月)のつぶやき

2018年10月16日 06時23分26秒 | とーま君の流儀2018
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海中の魚は海の姿がわからない。シアワセな人は、今自分がシアワセであることがわからない。

2018年10月15日 08時08分12秒 | 精神のありかた

自分の置かれた場所が一番わからないですねぇ。何気ない日常こそがシアワセでありますが。


 

 

海の中にいる魚には、海の姿がわからない。今、シアワセな人はシアワセの姿がわからない。何も事件が起こらず、静かで平穏な日々こそがシアワセだということが、我々凡夫にはわからない。だから、日常が不平不満だらけになってしまう。そういうふうに感じてしまう。あれもこれも欲しい、しかし銭がない。どうするんだい?となる。

九十九里浜は、食料自給率日本一の地域を抱えている。魚も獲れるし、野菜も多い。なるほど、そう言われればそうだ。

このことは某大学大学院を中退せざるを得なくなった後に入学した老人大学で知ったことである。講師の先生から教わった。

ところが、それまで食糧自給率がそんなに高いということを知らなかった。

毎日のようにいただいている新鮮な魚がありがたく見えてきた。米もそうだ。九十九里浜からちょっと内陸に入ると、多古米ブランドで有名になってきた多古町の米もある。これは実においしい。

野菜もそうだ。白菜をはじめとして、いろんな野菜や果物があるのだ。

言われてはじめて気がついた。住んでいると日常のありがたさがわからないのである。

意識していないから、気がつかないのである。「何もない」日常で「静かで平穏な日々」を送っているから、気がつかない。

人生は、波瀾万丈こそがおもしろいという方々もおられる。退屈しないからである。いろんな小説も、波瀾万丈であればあるほどおもしろい。司馬遼太郎しかりで、歴史上の人物はまさに波瀾万丈であるからだ。今、NHKでやっている西郷隆盛もそうだ。まさに波瀾万丈。

でも、だからなんだと言うのだ?と聞かれたら答えに困ってしまう。

どっかに波瀾万丈に憧れている自分がいるのかもしれないと思うだけである。

それだけ、日常が退屈なのかもしれない。

退屈だというのは確かに認める。毎日が退屈でしょうがないのである。同じ事の繰り返しで過ごすことよりも、合計五つのアルバイトで過ごしている方が確かに生き生きしてくる。それは認める。

それでも、この退屈な日常こそありがたいことである。実にありがたい。ただし、それに気がつかないだけなのである。

気がつかないということは、目に見えていないということだ。見えていないというよりも、見ようとしないからだ。

何もない日常というのは、隠れているのだ。聖人のごとしである。聖人は深山に隠れていると言うではないか。

ま、その逆もあるだろう。我々庶民の生活にも隠れているかもしれない。長屋のどぶ板の片隅におられるかもしれない。

 

昨夜は、孫の女児に一升餅を背負わせて祝いをやった。むろんボキの茅屋である。正確にはまだ一歳になっていないが、あと4日で一歳になる。丈夫で健康に育って欲しいからである。

せめてのジジイとしての願いである。

こんな何気ない日常こそシアワセである。

 

ヾ(*´∀`*)ノ

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10月14日(日)のつぶやき

2018年10月15日 06時18分50秒 | とーま君の流儀2018
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隣人を愛せよと言われても、なかなかできないです。凡夫のボキには。

2018年10月14日 09時03分13秒 | 精神のありかた

隣人を愛せよと言われても、お互い波長が合わなかったら、会わないことである。無理は禁物だ。

 

 

「汝の隣人を愛せよ」とは、バイブルにも書かれている。よく言われる教訓でもある。

ボキは聖人君子でもなんでもないから、これは無理だと最初からあきらめている。お互い波長が合わなかったら、無理に愛することはできないし、会おうとも思わないことである。

世間は、やれ親戚だから、兄弟だから、夫婦だから離れてはいけないというけれど、離れても親戚は親戚・兄弟は兄弟・夫婦は夫婦である。樹木希林さんのような別居夫婦だっているのだから。

離れられない理由を最初に考えるから苦しいのである。そんなもん、後付けでよろしい。本当は離れても暮らしていけるのだ。

理由なんか追求していちゃ物事は解決しない。原因もそうだ。

こうなっちゃったのは、あーたのせいよと言われたことがある。あるが、そりゃ全部他罰主義というもんである。自分だけが正解であって、いけないのは全部他人のせい。理由とか原因を求めて一生涯人のせいにしている御仁がたくさんいる。挙げ句の果てには、酒に逃避して、めちゃくちゃ暴れ回る。そんなんでいいのかねぇ。時間の無駄であるからだ。

そういう御仁とはアワナイ方が良い。アワナイから会わないのである。親戚でも、兄弟でも、夫婦でも同様である。

ケンカになっちまうからだ。

そんな体験はいくらでもしてきたからである。中には、今日朝から雨が降ってきたから原因はオメェにあるとまで言ってのけた御仁もいた。つまりアホである。アホとはつきあわない方が良い。こっちの身が持たない。そういう本が売れていると知ったが(「頭に来てもアホとは戦うな」という本)、事実ボキもその本を買ってみた。同感だった。アホとつきあっている暇があったら、本でも読んでいるほうがいい。

それに、分別ができていない年齢で結婚をしてしまうから、離婚が流行する。たいして苦労もしていないのに、一丁前に大人になったつもりで結婚なんかしてしまう。だから後悔するのである。

人間観察もできないのに、よくまぁ結婚なんかできるものだと思っている。

もっとも、樹木希林さんは「分別のできないうちに結婚しちゃえばいいのよ」とも言われたそうだ。そうかもしれない。分別ができるまで待っていたら、永遠に結婚なんかできるわけもない。

世の中の娘たちは、なんでこんな男と結婚したのかとこっちが見ていても危うい形で結婚してしまう。

愛する対象が欲しいのが女のサガである。赤ちゃんが欲しいというのも、愛の対象が欲しいのである。だから、そのついでに旦那にも口うるさく言ってくるのだ。

なんか「汝の隣人を愛せよ」という教えを誤解しているのではないのか。

そういう建前だけを後生大事にしていると、本質が見抜けない。

ボキのように上っ面だけで世の中を渡っている悪行三昧の人間を説得できないではないか。

ボキなんか、ただおとなしいだけのジジイである。表面上はである。裏でなにを考えているかは、このブログでも明らかにはしていない。ただひたすら駄文を打鍵しているだけである。暇だからだ(^_^)。

さっきまで、柳家小三治の落語をベッドの中で聞いていて強情な男どもに大笑いしていた。キンドルで聞いていた。強面の男どもが、道を譲る譲らないで二時間もケンカしているというような話であった。

大同小異。

ボキもたいして変わらん。

ただし、二時間もケンカするようなアホなことをしていたら逃げるが勝ち。

争いごとは一番良くないからだ。

争いごとをするなら、離れてしまった方が良い。

歩いていて、正面から来たクルマにぶつかって勝てるわけがないではないか。

ちょっと下がれば良いだけである。避ければ良いだけの話である。危険は向こうから去っていくのだ。

 

今日は、午後から孫と遊ぶ。夕食を一緒にとって。それまではまたまた暇である。

昨日千葉市で歴史の会に参加していた。役員会、文化講座、古文書講座と参加してきた。

時間を見つけて、近くにある古書店チェーンに行ってきた。運動のためである。古本を二冊買ってきた。一冊は高校数学のⅡB。三角方程式が一昨日の塾でわからなかったから、買ってきたのである。

ぼけ防止には良いですなぁ。

 

わはははははっはははっはははっははははっは。

 

今日も楽しくすごそう!

(^_^)ノ””””

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10月13日(土)のつぶやき

2018年10月14日 06時19分59秒 | とーま君の流儀2018
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選択の基準は、楽しいか・楽しくないかであった

2018年10月13日 07時25分21秒 | 精神のありかた

楽しければ人生は楽に生きられるちゅうもんですなぁ。マジに。

 

 

ボキの前半生は他の選択肢はなかった。能力や適性から考えてみて、他にやりたいこともあった。否、やってみたいことがあった。今では笑い話であるが、美男だったら役者もやってみたかった。学芸会では率先して自分から出ていたのだ。戯作者もである。なにしろ、作り話が得意であった。なんということもない。嘘つきだったからである。いわばオオカミ少年だったのだ。

しかし、とうとう定年まで同じ仕事をやってしまった。後悔はない。そういう運命だったのだ。そして、なにより適性があったのだ。そして現在も同じような仕事をやらせていただいて、ぼけ防止になっている。某大学、二つの高校、学習塾、交通安全講話とやっている。以上は有償のもの。ボランティアで歴史の会。

全部、「頼まれごと」であった。いつの間にか、こんなにやらせていただいている。感謝している。そうなるようになっていたのである。

こんなボキでも夢はあった。博士である。博士になりたいとは、今となっては笑い話である。てめぇの能力を知らないで、大学院博士後期課程に入学したからである。こんな笑い話は金輪際ないだろう。そして、大金を投入したことだけは後悔している。理解のあった古女房殿にも感謝しているが。

そもそもがである。仕事をしながら、別の大学大学院で修士をとってしまったのが、勘違い人生をスタートした根本の間違いであったのだ。

もしかして、俺にでもできるのではないかと勘違いしてしまったのである。

しかし、博士はかなり難しいことであった。内容がである。量的には書けた。A4で五〇〇枚以上はできた。事実である。嘘ではない。でも、内容が駄目だった。テーマである、日中比較芸能というのも頓挫した。なにしろ中国に行っている時間がなかった。中国語もおぼつかない。

こんな状況では、話にならなかった。

ま、あきらめるのにだいぶ苦しんだけどねぇ。このブログにその思いをぶつけて、やっと断念できたのかもしれない。

これまでも挫折はずいぶんしてきた。大学学部入学もまさかの展開であった。亡父亡母が学費を出してくれなかったから、新聞配達した。いわば、苦学である。

ところが、こいつが実に薬になった。思い上がった小僧っ子に世の中の厳しさを知らせてくれた。ありがたかった。お客さんにも励まされた。大学生なの?ときれいな奥様に励まされたこともある。がんばってねというお言葉に、我知らず涙したこともあった。

今では、実に懐かしい。

そして、それもまた他の選択肢はなかったのである。こういう人生を送ることになっていたのである。

 

これからもそうだ。

他の選択肢はない。

余生は、源氏物語を私家版で訳して楽しむつもりである。昨日からノート作りを開始した。生涯現役で講師もやりたい。オシャレを十分楽しんで、まだ生きていたのかと言われるほど、しつこく生きていきたい。

こういうのは、すでに決まっていたのだから。こうなる運命だったのだということである。

どうせ最後は死ぬ。

絶対的な事実である。

だったら、思う存分楽しんでジジイ生活を送るつもりである。

 

今日も千葉市に出かける。会長代行をさせていただいている歴史の会がある。千葉市民会館で10時から会議である。それから文化講座と古文書講座を所属している団体で開催する。楽しみでもある。趣味だし。

喜んでくださる方々がおられるから、いそいそと出かけるのである。その方が人生楽しい。楽しければ楽に生きられる。


わはははっはははっははははっははははっははは。

 

(^_^)ノ””””

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10月12日(金)のつぶやき

2018年10月13日 06時18分19秒 | とーま君の流儀2018
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棺桶に入るころには・・・・トホホ

2018年10月12日 16時16分23秒 | 精神のありかた

捨てて捨てて、捨てられて。棺桶に入るころには、できるだけ軽い方がよろしいようである(^_^)。

 

 

人生の後半は固定観念を捨てることだなぁとしみじみ思う。

だって、もう関係ないからである。すべてである。仕事もしていないし、どっかの学校や大学に行って勉強しているわけでもない。こだわりがない。なんにもない。

ついでに言えば銭もない。あ、髪の毛もない。つるつるである。見事なくらいにつ~るつる。

組織にも所属していない。

趣味の世界では所属している。歴史の会や柔道の会である。それだけである。退職なんとかの会というのにも属しているけど。思い出しても手の指数本である。アルバイトの方は、組織に所属しているのではないから、数のうちに入らん。アルバイトを入れると9本になっちまうが。

このことは未練を捨てているようなものである。

本来ボキはあまり未練がない。なさ過ぎて、困るくらいにない。天涯孤独だからだ。九十九里浜にはボキの亡父と亡母の親戚は一人もいない。ボキの長男は住んでいるけど。孫も。

「死」の側から人生の後半を見つめているようになったから、未練がないのかもしれない。

後は、死ぬだけと思ったら気軽である。本当に後は死ぬだけである。

安らかに死にたいものである。トラブルなしに。

平穏無事が最高である。

事故死だけは避けたいものだが。しかしどうなるかはまったくわからん。どうなるかはわからんが、死ぬことだけは絶対に確実である。死んだらどうなるのかもわからん。生まれ変わって、なにかになるのかもしれない。それもわからん。悪行三昧であるから、天罰が下るかもしれん。そうなったらなったで、仕方なし。

だから、いつでもその覚悟で今を生きている。明日には、灰となっているかもしれないではないか。

したがってウカウカしていられないのだ。つまらんことにこだわって、成就するわけもない夢を追いかけていたらアホである。

そんなもん捨てることである。

自分はこれがしたかった、やりたかったというのが無くなってきた。某大学大学院在学中にはあった。博士になりたかった。でも能力不足で頓挫した。挫折した。もう二度とそういう夢は見ないことにした。

以来、ボキは変貌したのだ。

受け入れたのである。

受け入れるまで、大変苦しかったけど。なにしろ大金かけて居住地に近い某大学大学院までせっせと通ったのだ。

アホだった。アホと思うのは自己分析が不足していたからだ。自分を知らなかったのである。

能力もである。

これって、てめぇの顔を知らずしてドンファンを気取っているのと一緒ではなかったのか。

そういう「固定観念」を捨てることによって、ボキは実に身軽になった。体重まで軽くなった(^_^)。10キロ以上も軽くなった。運動の結果である。

もっとも、元々クチも軽いし、人格も軽いんだけどねぇ。

 

これからも軽く軽く生きようと思っている。

なにしろ、棺桶に入るには身軽な方がよろしいからである。

 

わははっははははっははっはははっははははっははは。


今日も千葉市に行っていた。某高校で授業をやってきた。楽しかった。若い人々と接していた。さらに今日の夜は塾である。こっちも楽しい。未練がないからすごく楽しい。明日はクビになっているかもしれないからである。こだわりがないからである。

 

(^_^)ノ””””

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10月11日(木)のつぶやき

2018年10月12日 06時20分34秒 | とーま君の流儀2018
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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/