と~ま君の独り言日記 

定年後を、いつまでも少年のような気持ちで過ごしています。九十九里浜で、年金+5つのバイトで気ままな暮らしを継続中。

煩悩・苦悩が濃ければ濃いほど、蓮の花は見事に咲くのである。だったら気にしなければ良いのだ。

2018年10月16日 19時44分48秒 | こころの世界

泥田で育ったボキだけど、まだ大輪の花は咲いていない(^_^)。

 


 

蓮の花というのは、泥水からしか立ち上がってこない。これはかなり心強いことを、ボキのような凡夫に伝えてくれている。ありがたいことである。

泥水が濃ければ濃いほど見事な大輪の花を咲かせるそうな。逆に泥水が薄ければ薄いほど、小さな花しか咲かせないのだという。つまり水がきれいであればあるほど駄目なんだそうな。

ボキの居住地近くにその蓮が有名な地区があって、なるほどそうであった。腰まで使って農家の方々が手入れをなさっていたのを見たことがある。

泥水というのは、ボキも含めて人間の煩悩でもある。苦悩と言い換えても良し。

つまり煩悩・苦悩が濃ければ濃いほど、蓮の花は見事に咲くのである。

蓮の花を見ていると、煩悩・苦悩が大きければ大きいほど見事に解決するということを感じてしまう。そうならば、今現在煩悩・苦悩で心痛めている方々は気にしないことであると言い換えてもよいのだと気がついたのだ。

蓮の花は力を与えてくれるし、楽しく生きる智恵もくれる。

ちなみに、お釈迦さまの台座を蓮華座と言う。お釈迦さまは、このことを知っておられたにちがいない。だから、蓮華に座っておられるのだ。

 

ボキは、これまでいろんな泥水をすすってきた。まったく大学学部の苦学生から始まって、貧乏・苦悩・煩悩・病苦等々のオンパレードであった。

一度なんか、暁の下、かなり重量の新聞を自転車に積んでいて思わず涙が出てしまったこともあったっけ。情けなくてである。我が大学学部のクラスメイトたちは、こんな苦労はしていなかったからである。遊ぶことのみ忙しくて、真剣に学問なんかしていたのだろうか。ボキのみが、貧しくて学費も生活費も全部自分でまかない、せっせと大学学部に通っていたのだった。

だから、傷つきやすい性格になってしまったのかもしれない。いわゆるいじけた、ひねくれ者であったかもしれない。知れないではなかったなぁ。事実である。事実。

そういう貴重な体験をさせていただいたということは、イコール泥田で修行していたようなもんである。

そう思う。

泥田であったが、大輪の花が咲いたわけではない。いまでもささやかなジジイ生活を送っているだけである。

ま、ちったぁ人の役にはたっているかもしれないけど。

 

今日は千葉市に行っていた。バイトである。授業をやってきた。帰りは、蘇我駅まで歩いた。曇っていたし、夏とは違う。13キロになった。ずいぶん歩いたなぁ。これもまた健康のもとである。

ヾ(*´∀`*)ノ

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10月15日(月)のつぶやき

2018年10月16日 06時23分26秒 | 独り言2018
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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/