落語の「たちぎれ」というのがある。元は上方落語なのだが、柳家さん喬師匠の動画で聞いた。
話の始めこそ笑いがあった。しかし途中から笑いがまったくなかった。人情話である。若い芸者と大店の若旦那の悲恋物語であった。聞かせる。ほろりとした。すばらしい語り口であった。さすがさん喬師匠である。
若旦那が遊びが過ぎて、とうとう100日間、蔵に幽閉されてしまう。遊郭での遊びである。若い芸者が、毎日のようにこの若旦那に手紙を書く。そして、最後に手紙を書いて亡くなってしまう。100日の幽閉が終わった若旦那が、反省してソトに出る。出たはいいが、また遊郭に出かけてしまう。そして、若い芸者の死を知る。そういうストーリーである。
ベッドで寝ながら聞いていた。しかし、さん喬師匠の絶妙な語り口に感動してしまった。寝ながら聞いていたら忘れてしまうと思ったので、起きて打鍵している。
なにがそんなに良かったのか。
それは、「人間の業の肯定」だったからである。
これは立川談志が言っていたことでもある。落語は人間の業の肯定だと立川談志は言っていたのである。
ボキもそれはそれで真実だと思う。
人間は業のカタマリであるからだ。悪ばかりやっている。本能のまま生きていって恥を知らない。だから犯罪が起きる。
もっとも、偉そうな道学者のようにモノを言うことはできない。ボキごときがである。論語読みにそんな方々が多かったと経験上思っているが、ボキは論語すらろくに読んでいないから、他人に説教たれることもできないけど。
恋は盲目だというけれど、そしてそんなのは文学の永遠のテーマでもあるけれど、死と取り替えがきくほど価値のあるものなんかねぇと思ったのである。叙情ある落語だった。そして、ボキの好きな演歌にも恋を扱った歌は多い。多いけれども、果たしてほんとうにそうかとなると疑問を感じる。
そういう経験がないから、恋に関する疑問を感じるんだと思う。死ぬほどの思いでもって、辛い人生を送っていくというのがどうしても信じられないからである。
そもそもが、ゼニを稼ぐという心配がないからうつつを抜かしていられるのだろうと思っているからである。所詮ブルジョワしか経験できないことでしかないということである。
人間の業を成田山新勝寺の不動明王はどう解釈されているのだろうかと、思ったから打鍵しているのである。恋だの、不倫だの、離婚だのと世間にはそういう人間の業に関する出来事が多すぎるからである。だからである。不動明王様は、あのデカイ目で我々をどう受け止めてくださっているのだろうと思う。そういえば、不動明王様の右の目は優しい。左の目は、厳しい。叱ってくださるような気がしてしまう。
人間は悪行から脱皮できないのであろうか。所詮、そんなものであろうかと落語を聞いていて思ったからである。
ボキもまた迷っている衆生であるからだ。ただの庶民でしかないからだ。他人の悪口なんか言えないからである。悪口言ったら、天に向かって唾するようなもんだからだ。
うううううううううううううううううううううううううむ。
今日もまた(_ _ )/ハンセイである。
BYE-BYE!