と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

狡猾なる主人公とは

2015年08月11日 12時01分48秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

直子という存在(「ノルウエイの森」の)

 

 

「ノルウエイの森」(村上春樹)に登場してくる直子という女性がいる。キズキという自殺したかつての恋人が忘れられず、自分が自分でないという自己分裂(おそらくは精神分裂病であろう)のようないくつかの症状が語られていく。このあたりは村上ワールドの実に巧みな構成である。

しかしである。彼女は、現実の世界にも戻ろうとして、ワタナベというキズキの友人とも交わる。

この辺りは、実に狡猾である。

だから、なぜ精神を病むのか理解できない。狡猾であるということは、純粋ではない。すくなくとも。相手を利用してやろうという魂胆が透けて見える。

虚無の中を生きて、まるで「半分死んだように生きている」というのが直子の姿なのであろう。

しかし、それが本当に虚無であり、半分死んだように生きている状態なのであろうか。

ふとそんな疑問を今朝感じてベッドから起きてしまった。目が覚める直前に、村上春樹のことを考えていたからである。どうやら夢でもって、彼の小説のことが出てきたらしい。らしいというのは、はっきり覚えていないからだ。なんとまぁ情けない。夢まではっきりしていないのだから、惚けを本格的に防止しないと危ない危ない。

こんなことでもって起きてしまう、あるいはぼんやりとした夢の中でも村上春樹が登場してくるんだから話にならない。それだけ、気になる作家なのであろう。嫌いだけれども(^0^)。

しかし、直子よりも主人公のワタナベの方が、「死んだように生きている」と感じてしまう。

大学生という設定でもって、まったくの暇人である。講義を受けて、後はメシを食ってダラダラと生きているだけだ。学生寮の住人でたいした身分でもない。どこにでもいそうなぼんやりとしたタダの大学生である。多くの女性遍歴も自ら積極的に求めてやっているのではない。

ダラダラといきがかりでやっているだけだ。

こっちの方が異常に感じてしまう。

ま、こういう異常な人間を描いたら村上春樹の右に出る作家はいない。

もっとも、青春というか、若い時代というのは、まさに異常な世界なんだろう。異常だからエネルギッシュなのである。異常だから、世の中を変革できるのである。フランス革命だって、若者の情熱がなければ、あれだけのことは成し遂げることができなかったと思う。あるいは中国もソ連もである(あったと書くべきか)。革命・革命の連続であったし、共産主義は永遠に革命が続くとしているではないか。

バランスがとれないから、青春なんだろう。

二者択一。

どっちかにしろ!と怒鳴り合っているような感覚が青春にはある。どっちでもいいというような曖昧模糊というものは、若い世代には許されないことなのだと感じる。

ところがだ。

直子という登場人物には、その曖昧模糊というもの、あるいはどっちでもいいというようないい加減さがある。キズキを求めているのに、彼の幻影を感じるために、主人公のワタナベと交わる。これぞ、狡猾であると同時にどっちでもいいというぼんやりとした不安が感じられるからだ。

そして死んでしまう。直子は。

意味のない設定であると思う。

なにが不安なのだろうか。

なにが幻影なのだろうか。

どうにもこうにもやるせない。

世の中に絶望を描いた文学作品は数多いが、ドストエフスキーを筆頭にあげるものの、また村上春樹ワールドは異質である。どうにもこうにも、闇が横たわっている。それがなんなのかということは、彼が死んでから明らかになるのだろう。まだ死んでいないから、評価が定まっていない。だから、うかつに論じたりしてはならないと思っているからである。

されど楽しみである。

どのような展開をしていくのだろうかと思うからである。これからも。

最近の作品も当然読んでいる。当たり前だ。これでも一応素人だけれども、文学部に学んだのであったからである。

それに読んでも読んでもすぐ忘れてしまうから、それこそ「繰り返し学習」をしていくしかない。

一度読んでも、また読むのである。飽きない。まったく飽きない。

ストーリーを追いかけているのではないからだ。文章をじっくりと味わいつつ、どういう構造になっているのかとか、登場人物の暗闇はどうなっているのか等々を考えて読むからだ。

たいしたことをやっているわけではない。

ただの自分勝手な素人小説好きであるだけである。

もっと言えば、小説からつまらない教訓を導き出して、それを人生訓にしようというのでもない。まったくない。そんなもんを把握しようとして読んでいたらくたびれる。

それにしても暗いなぁと思う。

人生真っ暗闇である。

漱石も、村上春樹も。

こういうのを読んでいたら、まったく「半分死にかかっている症候群」になっちまうぜよ。

ドストエフスキーはまだましだ。

救済の目的があるからだが。

漱石も、村上春樹も出口がないではないか。こんなんじゃぁ。そう思う。

挙げ句の果てには死んじゃうんでは、主人公のAは「生まれました・悩みました・異性遍歴をしました・結局死んじゃいました」で一巻の終わりではないか。

もっともこれは仏教でいう「生・老・病・死」と一緒だな。つまらん人生そのものだよん。

人生万般、明暗があるってぇことをなんで書かないのかね。文学者の大先生たちは。

素人だからよくわかんねぇのだけれども。

アタシャ。

 

(^_^)ノ””””

 

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