と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

鉱脈のこと、アナグラムのこと

2012年12月26日 12時24分52秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

1 鉱脈のこと
高名な作家たちは、自分の鉱脈を持っていると思う。掘っても掘っても尽きない作品の源である。それがあるから、いくらでも書けるのだろうと。その鉱脈は、誰にでもある。浅いか、深いか、横に広がっているのか、縦に狭く深くなっているのかは別として。

あるいは、スマホとかのツールでメールを打っている人でもその鉱脈はあると思う。そもそも、あの小さな機械で文章をものすごいスピードで打てるということだけで、愚生などは目を見張ってしまう。愚生の携帯は、簡単携帯というお年寄り向きなので。

スマホでメールを打てるというのは、メールを打たないと友人に相手にされないとか、捨てられるとかという類の鉱脈があるんだろうと推察する。そのことをともかく申し上げるつもりはないが、(アタシャ、そんなのできないので)そういう文化を自分の中に持っていらっしゃるんだから、それはそれでいい。

そんなふうに思うのだ。

ノーベル賞のことで、村上春樹がいろいろと取り上げられた。個人的には非常に好きな作家であるから、残念だった。彼が、その尽きせぬ鉱脈を持っておられると思うのである。ただし、我々レベルとは非常に違う高レベルの鉱脈である。冗談でも、我々と同じだと言っちゃぁならん。

ある一定の定義で済ませないものが彼にはある。深みが違うのだ。さらに、まだ書いていない深みがあると愚生は睨んでいる。早く書いてほしいが、それはそれで待っているしかない。それは中国との関連・・・否、もうやめよう。読む楽しみがなくなってしまう。

ただ単純にストーリーがおもしろいという作家はいくらでもいる。ふむふむはぁはぁとストーリーを追いかけていけば楽しいというだけの。

推理小説がそうだ。こちらも愚生は好きで、いろいろと読んでいる。特にすることもない日がな一日を過ごすのには実にいいものである。今は、やらないが夜行列車でふるさとに帰るときに、推理小説は我が独行道の実に良い友であった。

昔は、国鉄と言って、列車がのんびりと走ってくれたから実に良かった。あっというまに目的地に着くよりも、のんびりとその地に着くまでの時間的経緯を味わうのが旅であると思っているからである。東海道中膝栗毛だって、あれは伊勢神宮に行くのが目的ではあるけれど、そこに着くまでが楽しみなのであった。いろいろあって、旅なのである。

居住地にも高野山へ行くための講がある。町内を代表して行くわけである。そして、行ってきてからおもしろおかしく町内の方々に報告をする。それが実に楽しいのである。これから、郷土史を勉強させていただくからそういう文献を探し出して読んでみたいと思っている。芸能というものの源流がそこらへんにあるような気がするからである。楽しみ、楽しみ。

元に戻そう。
展開が予想できない推理小説というのは、ある意味、冒頭にあげたようなその作家の深い鉱脈を感じさせてくれる。作家の人生観や、文学観、人間観というようなものがその鉱脈の中には埋まっていると予想させてくれるからである。

松本清張という作家はその点でピカイチであった。どういう方であったんだろうと思う。思うが、もう書いてくださらない。亡くなってしまったから。

古代史における松本清張先生の論文もおもしろかった。つまりファンなのであった。さらに、努力の人でもあった。そういう生き方をしている人が愚生は基本的に好きなのである。

ただし、裏切られてしまったと思う作家もいた。ま、それはそれでここには書かない。


2 アナグラムについて
本当は、この記事ではこちらを書いてみたくてチャレンジし始めたのだが、最初から書くとスルーされそうですから。。(笑)

アナグラム(anagram)というのは、「文字の置き換え」のことで、実は多くの作家たちが行っているのではないかと思っているからである。
そもそも作家といえども、まったくのオリジナルで作品を書いているわけではないと思っているからである。

これまでいろいろな古典や、他の作家の作品たちを読んできて、それがある種の文化遺産として蓄積されていると想像するからである。

一つの単語が与えられると、我々は、それに関連するあらゆる単語をリストアップする。無意識にである。その順番は問わない。

ソシュールというこの方面では有名な方がおられて、「一般言語学講義」という良い仕事をされた。(だから、この記事の最後に持ってきたのだけど)

人間がどういうふうに言語を操作しているかということをソシュールは研究なされた。多くの作業を言語を扱う時に、人間というものはやっているのだということである。しかもそれは自然に、あるいは無意識にである。

発語するときに、発語主体が前にしている「音的機会」は、まとに多様であって、実はそこのところに最も注目するのである。ここで初めて愚生の中世日本古典文学が関わってくる。つまり、芸能と音声の持つ魅力であり、関わり方である。

ここの部分はこれからの愚生の課題である。まだまだこれからのことである。そしてまだ書けない。書いてもモノになっていない。

おっと、永久にモノにならないか。

なんてったって、何かになろうかという目的がないのだから。モチベーションがねぇんだなぁ。

わはははは。


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