ボキの人生は、Tragedy《悲劇》か?それともComedy《喜劇》か?それが問題だ・・・なんちゃって。シェークスピアの台詞みたいだけど。
四月になった。悲喜こもごもである。去る人もいれば、新天地で活躍するぞぉ~~~って、張り切っている方もいるだろう。
桜はボキの居住地で咲いているけど、これもまた散っていく。咲く場所が違えば、咲く桜もあり、散っていく桜もある。居住地の桜は、また来年見ることになるだろうけど。
そんなわけで、他者の人生の諸相を見ることが多い四月である。
昨日も何人かの知人から連絡をいただいた。それぞれの人生である。頑張ってくださいと声をかけさせていただいた。
ボキは、応援しているしかない。ボキ自身にはなんの変化もないからである。昨日のボキは、今日のボキ。今日のボキは・・・・と打鍵してみたが、明日のボキは生きているかどうか分からない(@^▽^@)。
ま、こんな悪たればかり打鍵しているから、誤解を受けるのだろう。そう思っている。
ボキは、もう家族のシアワセを祈っているしかない。むろん大上段に振りかぶって、世界平和のためとか、人類の発展のためにとか言ってみたい。でも、そりゃぁ悪い冗談である。そんなデカイことを言える資格がないではないか。
ただの耄碌ジジイでしかないではないか。
ウオーキングしていると警察官に不審者として職質を受けそうだし。福祉関係者からは、徘徊と間違われてしまうだろうし。
ボキは、拙ブログに個人的なことはほとんど書いていない。
朝何時に起きて、何時からウオーキングして・・・とかも書いていない。記録ではないからである。自由気まま、自分勝手に騒いでいるだけである。それが特徴と言えば言えるのであろう。
もっとも日常を記録しても、あまりの変化の無さに自分自身が嫌になっちまうから不思議なものである。
周囲は変わってきている。家族がである。しかし、それは書かない。書かないから家族からクレームがつかない。
いちいち家族の了解をとってから記事を書いていたら、ネタがなくなってしまう。そんなのは(^.^)ご(-.-)め(__)ん(-。-)ね(^.^)である。
自由気ままに生きているから人生が面白いのである。
「人生は喜劇だ 知られざる作家の素顔」という本をこのところ読んでいた。話の特集という雑誌を創刊した編集者の矢崎泰久氏の本である。いわば文学界の暴露本である。楽しい。実に楽しい。
エラそうにしている自称大作家の方々の裏の顔がこれでもか、これでもかと書かれている。
笑ってしまう。深刻そうな顔をしていても、所詮人間なのである。好色な人種もいるし、ゼニにキタナイ人種もいるし・・・おおいに笑ってしまった。
矢崎泰久氏も、自由人である。今は、自宅のある松戸市から東京に出てきて、マンションで独居老人生活を送っている。
楽しい大先輩である。80代であるからだ。
そしてチャップリンが残した名言を最後に書いておこう。
「人生は近くで見ると悲劇だが遠くから見れば喜劇である」
彼が長い人生で培った教訓なのだろう。そして彼が残したこの言葉、心理学的にも非常に有効な人生を送る方法として知られている。このようなチャップリンの考え方、心理学では、サブモダリティの変換と呼ぶ。サブモダリティは、「距離、大きさ、強さなどの五感の構成要素」という意味だ。そしてこれは、「距離を変えると感じ方が変わる」という特性がある。
まさにと~ま君の生き方そのものである。ボキの人生は一見すると悲劇だが、半面喜劇でもあるのだ。
わははっははっはははっはははっはははは。
コメディアンと~ま君である。
ヾ(@⌒―⌒@)ノ