前提ということについて、昨日ある生徒に語りかけたつもりでありました。
しかし、なかなかご理解いただけなかったようです。
行為というもの、行動というものはある前提があってなされるものでありましょう。絶対にそうかというとそれはそれで論理が崩れますが。
しかし、一般的には人間は理知の生き物である筈です。西洋の学問の根幹をなしているはずであります。
それを重要視していただきたいと、こころから思うのであります。
学生というのは何をするものでありましょうか。
むろん学問であります。
時間つぶしに学校に来ているのでは、それはまったくの無駄。
本来の面目という言葉がありますが、それは自分にとって何が最も重要であるかということであります。
もう一度言います。
学問であります。
自我にこだわって、自分だけよければ何をしても勝手だろうというのではいかがなものか。そういうことを思います。
それにつけても、ソクラテスは、教え子のアルキビアデース(ギリシア史に名をとどめる一大の風雲児)に対する教育について責任を負わされたというのが、ソクラテス裁判のある意味真相であったという木田元先生のご指摘は、うなります。(「反哲学史」講談社学術文庫 p.56)
そういうことを申し上げたかったのであります。
ちょっと難しいようでありました。
たまには、そういう話もいいのでしょう。
要するに勉強していただきたいと思っておりますから。
野球部の諸君が、朝、ゴミ拾いをしているのは、このブログでも何回か紹介させていただきました。尊い行為について、ある方からもわたくしがそれを知っているかどうかと打診されました。
このブログに紹介するくらいですから、知っていて紹介させていただいたわけです。
こういう尊い行為が実にさわやかでいい。
前提が違うからできるのです。
何が前提になっているか。
それは当該の生徒に聞かなくてはなりませぬ。
想像で申し上げることはしてはならない。
すばらしいことであります。
感謝をしつつ、良い学校にしていきたいものであると思った次第です。
また明日!