続いて、静岡朝日テレビの社史から、静岡第3局目について。
だんだん、新聞社は自社ニュースを電波を使って流すことを考える。
静岡地区では3局目をめぐっては朝日VS読売の2大勢力対決が軸だ。
東京と名古屋には4局あるのに中間の静岡は2局しかない。
電波格差として、テレビ静岡開局後間もなく次の開局要望が高まる。
特に浜松では「テレビの創始者、高柳ゆかりの地に本拠地を置く局を」
としたスローガンがあったそうである。
1973年10月チャンネルプラン修正案発表。
静岡県に新しい局の開設が認められる。
新しいチャンネル案では広島と宮城の4局目、
静岡、長野、新潟の第3局目開設を認めた。
新潟や長野でも朝日・テレビ朝日系と読売・日本テレビ系の
取り合いとなったらしい。
この頃に、NETテレビ(日本教育テレビ)は教育局から総合局に
変更することを認められ、1977年にNETから全国朝日放送(通称・テレビ朝日)
となる。
申請合戦
この3局目の戦いでは申請者集め合戦となった。
知人にも申請者になってもらうなど、ネズミ講のような方法で
増やしていったそうだ。
もちろんこの中にテレ朝派と日テレ派がいる訳である。
これ以後、申請合戦という方法は各地で当然のように
行われるようになった・・・と記されている。
これらの申請の一本化のため1978年まで開局が遅れることになる。
だんだん、新聞社は自社ニュースを電波を使って流すことを考える。
静岡地区では3局目をめぐっては朝日VS読売の2大勢力対決が軸だ。
東京と名古屋には4局あるのに中間の静岡は2局しかない。
電波格差として、テレビ静岡開局後間もなく次の開局要望が高まる。
特に浜松では「テレビの創始者、高柳ゆかりの地に本拠地を置く局を」
としたスローガンがあったそうである。
1973年10月チャンネルプラン修正案発表。
静岡県に新しい局の開設が認められる。
新しいチャンネル案では広島と宮城の4局目、
静岡、長野、新潟の第3局目開設を認めた。
新潟や長野でも朝日・テレビ朝日系と読売・日本テレビ系の
取り合いとなったらしい。
この頃に、NETテレビ(日本教育テレビ)は教育局から総合局に
変更することを認められ、1977年にNETから全国朝日放送(通称・テレビ朝日)
となる。
申請合戦
この3局目の戦いでは申請者集め合戦となった。
知人にも申請者になってもらうなど、ネズミ講のような方法で
増やしていったそうだ。
もちろんこの中にテレ朝派と日テレ派がいる訳である。
これ以後、申請合戦という方法は各地で当然のように
行われるようになった・・・と記されている。
これらの申請の一本化のため1978年まで開局が遅れることになる。