ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

古代史諸々

2008-02-14 05:20:00 | 読書
正月に法隆寺を訪れた記事を綴りました。
何故法隆寺なのか、後に判ると言いうようなことを書きましたが、ここに明らかにします。

昨年秋に蕎麦打ち教室に行きましたが、氷見のブリを送ってもらったSさんの車に乗せてもらったのでした。
Sさんは単身赴任で八尾の寮に住んでいるので、そこまでは私の車で出かけましたが、途中国道25線を走っていると、JR関西線の八尾駅近辺で『聖徳太子古戦場』という石柱が見え、このような大阪の地まで聖徳太子が戦に出かけてきたのかと疑問に思ったのが、こういった本を読み始めるきっかけでした。

       

カテゴリー『読書』の記事は約3ヶ月間投稿していなかったのですが、本を読んでなかったのではなく、あれもこれもと一段落するまで置いておいたのです。

主に故・黒岩重吾氏と梅原猛氏の本を読んでいました。

       

黒岩氏や梅原氏は、飛鳥や斑鳩の里の歴史に対して同じような考えを持っているらしく、『日本書紀』の内容に関しては懐疑的です。

こうして読んだ本も聖徳太子や蘇我馬子の時代ではなく、その子山背大兄皇子や蘇我蝦夷・入鹿の話が多く、同じ黒岩氏でも『落日の王子』は蘇我入鹿、『中大兄皇子伝』は題名通り中大兄皇子が主人公で、同じ乙巳の変・大化の改新を扱っていても見方が正反対になっています。

しかし敵役同士の蘇我入鹿も中大兄皇子も大陸の先進文化に魅入られ、倭国の中央集権化や仏教文化に基づく国造りを目指していたことに違いはありません。

蘇我氏との権力争いに勝利した中大兄皇子が、唐・新羅連合軍と戦う百済に出した援軍は、白村江の戦いで大敗し、唐や新羅が海を越えて攻めてくる怯えから都を近江に移し、天智天皇となった頃から伊賀の小豪族の娘・宅子媛との間に生まれた大友皇子を溺愛し、それまで次期皇太子と目されていた弟・大海子皇子を遠ざけようとしたことから、壬申の乱が起こったのですが、蘇我氏についた人臣、天智についた人臣、大友皇子や大海子皇子についた人臣などの考え方の移り変わりも小説ならではの面白さで味わえます。

       

さてこちら梅原猛氏の本ですが、仏教とはどういうものなのか、今の世に欠けている道徳とは・・・中学生にした講義ですが、こういうお話はまぁオマケです。

梅原氏は哲学者であると共に宗教家でもあり、また古代史の研究家でもあります。氏の本を読んでいると、聖徳太子の話が随所に出てくるのですが、日本書紀に出てくるような聖徳太子に対しては強い疑問を抱いていて、そういう姿勢が私をして梅原氏の本を読ませる所以であります。

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