ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

与謝野晶子生家跡

2014-07-07 05:00:00 | 大阪にて

阪堺電車が東玉出の北側から住吉街道で同じ道を走り、住吉大社を越えて別々のルートになり、堺市に入って綾ノ町で再び合流した地点からもう一度御陵前駅で分岐するまでの紀州街道を堺では大道筋と呼んでいます。その大道筋沿いに大小路ビルが有ったし、ザビエル公園も有りました。大道筋は片側3車線、真ん中に阪堺線の線路が2軌道分あるので幅は約0mと広く、全長約2,5km、その所々に『てくてくろーど案内図』という案内板が設置されています。

             

地図には妙国寺や菅原神社、開口神社、宿院頓宮、南宋寺の他、千利休や武野紹鴎の屋敷跡や与謝野晶子生家跡など、大道筋沿いの名所・旧跡がたくさん描かれていますが、『てくてくろーど』と書いてある通り、歩く上でこの上なく都合良く作ってあるのです。例えば歩道にはサイコロの絵が描いてあり、その眼の数だけ歩道に描かれた目印を辿れば、目的のところまで行けるようになっているのです。

             

この地図は一つしか有りません。堺を縦横に走っている紀州街道、熊野街道、長尾街道、竹内街道、西高野街道の5つの街道を示しています。このうち紀州・熊野・西高野の各街道は南北に、長尾と竹内の両街道は東西に走っているのです。歩く気はさらさら有りませんが、竹内・長尾の両街道は大道筋を起点とし、長尾街道は方違神社の前を通る道、竹内海道は大小路通りを通る道で、両方とも二上山の方へ繋がって行くのです。

             
                  このモニュメントの地図を見ると生家の駿河屋は今の大道筋を殆ど覆っていて、紀州街道は東側の歩道の幅しかありません。

『てくてくろーど』マップに載っていた与謝野晶子生家跡を訪ねてみることにしました。与謝野晶子と言えば『君死にたまふことなかれ』で反戦思想として知られていますが、少しかいつまんで詩を本文に近い口語体で書いてみます。
①“ああ弟よ 君を泣く 君死にたまふことなかれ。末に生まれし君なれば 親のなさけは勝りしも 親は刃を握らせて 人を殺せと教えしや 人を殺して死ねよとて 24までを育てしや”
③“君死にたまふことなかれ。すめらみことは戦いに おほみずからは出でませね 互(かたみ)に人の血を流し 獣の道に死ねよとは 死ぬるを人の誉れとは おほみこころの深ければ もとより如何で思されん”
⑤“暖簾のかげに伏して泣く あえかに若き新妻を 君忘るるや思へるや 十月も添はで別れたる 少女ごころを思いみよ この世ひとりの君ならで ああまた誰を頼むべき 君死にたまふことなかれ”

             

この詩を書いたのは26~27歳、日露戦争の頃、親交の深い文芸評論家に「家が大事、妻が大事、国は滅びてもよし、商人は戦う義務なしというのは余りにも大胆すぎる発言」と批判を浴びますが、「たいそう危険な思想と言われますが、当節のように死ねよ、死ねよと言われること、また何事にも忠君愛国の文字や、畏れ多い教育御勅語などを引用する流行は、この方が却って危険」と反論しています。こういう若き日の晶子だったのですが、第一次世界大戦に及んでくると『戦争』と題する詩の中で“いまは戦ふときである 戦嫌ひのわたしさへ 今日此頃は気が昂る”と戦争賛美ともとれる考えを披露しています。

満州事変勃発後は満州国成立を容認・擁護し、こんな詩まで書いていたのです。“強きかな 天を恐れず 地に恥ぢぬ 戦をすなる ますらたけをは”戦争を美化し、鼓舞する詩まで書き、晩年は翼賛婦人に成り果ててしまったのでした。

             

次は千利休の屋敷跡、武野紹鴎の屋敷跡も近くに有るのですが、昼飯時が近かったので、この日は寄りませんでした。大道筋よりフェニックス通りと呼ばれる大通りの南側を少し西に入った一筋目に有ります。真ん前には駐禁にも拘らず車が停めてあったので、道いっぱいに引くことが出来ません。余りにも高名な茶人ですが、住んでいた屋敷は意外と小さいというか、都市開発の煽りで屋敷跡を全部残せているのではありますまい。侘び寂び好みの利休でしたが、利休が住んでいた頃は、人口も少なく、土地もふんだんに有ったことでしょうから、もっと広かった筈です。

             

高札のような大きな板に何やら書かれているのですが、擦れている箇所も多く、とても読み難いのです。どうやらタイトルは『椿井来由記』と書いてあるらしい。

             

椿の井とは利休が産湯を使った井戸で、今でも清水が湧いていると言います。ここは江戸後期から明治中期まで酒造業を営んでいた加賀田太郎兵衛が居住していた場所で、その人が昔住んでいた利休を偲んで茶室までも拵えたとか、見えている屋形は京都・大徳寺の昭和大修理の際に出た古材を使用して建てたのだそうです。

             

開口神社のあの句碑が気になって仕方がありません。“風鈴や”の句を調べてみても判らなかったのですが、開口神社の案内図を拡大して見ると、句碑の位置に山本梅史句碑と書いてあるのを発見、なので山本梅史を検索してみました。

                       

山本梅史(ばいし)は全く聞いたことがない人ですが、やはりインターネットは何でも調べることが出来るんですね。有りましたよ。この句碑の句を解明する前に皆さん、この句が読めますか?と思って再掲したのですが、尻すぼみになってしまっていて、下に行くほど薄くなり、私もやっと“風鈴や”だけを読めたのです。

では正解です。“風鈴や 見馴れたれども 淡路島”書いてある句が分かっても、句碑と比べるとそうは読めませんよね。梅史さんが若い頃は堺から毎日のように淡路島が見えていたんでしょうね。


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