仕事を一区切りつけて、少しウロウロしていると、『住吉呉田まちづくりの会』と書いた案内板があり、暮らし方について神戸市長と協定を結んだとかナントかと説明がありました。左端に地図があったのでじっと目を凝らしていると、南の方に御旅公園を見つけました。
丁度、昨日の呉田会館より真南に200mぐらい下った所でしょうか。平日の昼間ですが、全く人通りがありません。
遠くからでも鳥居が見えたので、すぐに判りました。公園て書いてあったけど、神社なのか?
鳥居の額にも、この石柱にも『御旅所』と刻まれています。ここに昨日の道標があったのです。では何故に200mも北へ持っていったのでしょうね。
公園内は、古墳ではありませんが豪族の墓に似通ったようなものを設置してありました。
寛政9年製の石柱ですが、何に使われていたのか・・・鳥居だったものかも知れません。昨日の道標より50年ほど古いものです。
昼食にしようと43号線を渡り、西に向かって歩いていくと、ニトリの角にまた案内板が立てられて、今度は『住吉ステーションの碑』なるものが、建っています。
明治7年に大阪~神戸間に開通した鉄道に、神崎・西宮・住吉・三宮の駅が設けられ、西国街道を通る旅人に住吉駅の所在を知らせるものだったようです。
『従是住吉ステーション迄九丁四十五間』とあり、北へ向かって1Kmほどのところにあったのでしょう。今では1Km先など見渡せませんが、当時ならここから駅は見えていたのかも知れません。この道標が造られたのは明治14年となっています。
食堂を探してウロウロ、今度は43号線沿いに東へ歩いていくと、案内板はありませんが、またまた道標がありました。右側に嘉永二まで読め、太字は『?ぐ兵庫』と読めます。
反対側は『すぐ大坂道』、『徳本上人石碑 十八丁』と刻まれています。この写真では読めませんが、大坂道の下に右から七里・西宮・二里と縦に三行、細く書かれていました。
丁度、昨日の呉田会館より真南に200mぐらい下った所でしょうか。平日の昼間ですが、全く人通りがありません。
遠くからでも鳥居が見えたので、すぐに判りました。公園て書いてあったけど、神社なのか?
鳥居の額にも、この石柱にも『御旅所』と刻まれています。ここに昨日の道標があったのです。では何故に200mも北へ持っていったのでしょうね。
公園内は、古墳ではありませんが豪族の墓に似通ったようなものを設置してありました。
寛政9年製の石柱ですが、何に使われていたのか・・・鳥居だったものかも知れません。昨日の道標より50年ほど古いものです。
昼食にしようと43号線を渡り、西に向かって歩いていくと、ニトリの角にまた案内板が立てられて、今度は『住吉ステーションの碑』なるものが、建っています。
明治7年に大阪~神戸間に開通した鉄道に、神崎・西宮・住吉・三宮の駅が設けられ、西国街道を通る旅人に住吉駅の所在を知らせるものだったようです。
『従是住吉ステーション迄九丁四十五間』とあり、北へ向かって1Kmほどのところにあったのでしょう。今では1Km先など見渡せませんが、当時ならここから駅は見えていたのかも知れません。この道標が造られたのは明治14年となっています。
食堂を探してウロウロ、今度は43号線沿いに東へ歩いていくと、案内板はありませんが、またまた道標がありました。右側に嘉永二まで読め、太字は『?ぐ兵庫』と読めます。
反対側は『すぐ大坂道』、『徳本上人石碑 十八丁』と刻まれています。この写真では読めませんが、大坂道の下に右から七里・西宮・二里と縦に三行、細く書かれていました。
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