垂水区での仕事も終わり、今回は明石方面です。JRの西明石の駅で降り、バスに乗るのですが、目的地は神戸市の西区なのです。王塚台という地名通り王の塚、つまり古墳がありました。
今この写真は古墳の南側から撮っています。
玉津陵墓参考地と書かれていますから、未だこの陵墓については解明がなされてないのかも知れません。
ここは西区ですが、JRの明石駅と西明石駅に挟まれた地点であり、昔、学校で明石原人なるものを習ったので、随分以前から人が住んでいたと思われる地域ですが、今は明石原人なる人種はいなかったとされているようです。
公園の南東にある公園の碑ですが、何代前の人かは知りませんが、市長として名前を記しています。こういう自分の名前を碑に刻ませて残そうという趣味のある人を市長に据えていたのは、神戸市の恥辱ですね。
読めますかね。全長102m、高さ8mの前方後円墳で、5世紀末から6世紀にかけての明石平野を牛耳っていた豪族の墓で、この地方では最大級のものだと書かれています。また一方で日本書紀に推古天皇11年(西暦602年)、當摩皇子が難波の津より出船、追いていった妻・舎人姫王が明石で亡くなり、明石の桧笠岡の上に葬ったとあるので、この墓は舎人姫王の墓という説もあるそうですが、現在は宮内庁の管轄になっているので、それ以上の調査は出来ないと言いたいのでしょうね。
先の碑文で全長とあったのは、長さではなく周囲だと思います。この地方最大といってもそんなに大きいわけではありません。
墓の東側に睡蓮の花が咲いていました。大賀ハスは6~7月ごろでしたから、随分遅いですね。神呪寺の睡蓮は5月でしたから、ここの睡蓮は遅咲きなのか、と言っても一輪しか咲いていませんでしたけどね。
同じ東側の日当たりの良い場所に白鷺が1羽佇んでいました。陵墓に白鷺・・・何か絵になりますねぇ。
こちらは後円墳の部分、北側です。
古墳から北側の写真ですが、真っ直ぐ進むと下り坂になっています。やはりここはもともと少し小高い丘であったのです。
今この写真は古墳の南側から撮っています。
玉津陵墓参考地と書かれていますから、未だこの陵墓については解明がなされてないのかも知れません。
ここは西区ですが、JRの明石駅と西明石駅に挟まれた地点であり、昔、学校で明石原人なるものを習ったので、随分以前から人が住んでいたと思われる地域ですが、今は明石原人なる人種はいなかったとされているようです。
公園の南東にある公園の碑ですが、何代前の人かは知りませんが、市長として名前を記しています。こういう自分の名前を碑に刻ませて残そうという趣味のある人を市長に据えていたのは、神戸市の恥辱ですね。
読めますかね。全長102m、高さ8mの前方後円墳で、5世紀末から6世紀にかけての明石平野を牛耳っていた豪族の墓で、この地方では最大級のものだと書かれています。また一方で日本書紀に推古天皇11年(西暦602年)、當摩皇子が難波の津より出船、追いていった妻・舎人姫王が明石で亡くなり、明石の桧笠岡の上に葬ったとあるので、この墓は舎人姫王の墓という説もあるそうですが、現在は宮内庁の管轄になっているので、それ以上の調査は出来ないと言いたいのでしょうね。
先の碑文で全長とあったのは、長さではなく周囲だと思います。この地方最大といってもそんなに大きいわけではありません。
墓の東側に睡蓮の花が咲いていました。大賀ハスは6~7月ごろでしたから、随分遅いですね。神呪寺の睡蓮は5月でしたから、ここの睡蓮は遅咲きなのか、と言っても一輪しか咲いていませんでしたけどね。
同じ東側の日当たりの良い場所に白鷺が1羽佇んでいました。陵墓に白鷺・・・何か絵になりますねぇ。
こちらは後円墳の部分、北側です。
古墳から北側の写真ですが、真っ直ぐ進むと下り坂になっています。やはりここはもともと少し小高い丘であったのです。
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