後十日もすれば春分の日が訪れると言うのに、寒い朝が続きます。手術前後や2月の末頃は暖かかっただけに、モモを散歩に連れて行く手の冷たさが身に滲みます。
彼女と最後に出遭ったのは2年前の春、南海電車の岸里玉出駅の北出口付近でたまたま通りかかっただけでしたが、串本で乗り回す軽トラを欲しいと思っていた私は、その旨を彼女に話したのでした。その頃はもう彼女が癌を患っていることを知っていましたが、まだまだ元気そうで少し安心していました。初夏を迎えた頃、娘さんから「お母さんが入院したから、治療している間音楽を聞いていたいので、CDを作って欲しいと言うてんねん」と連絡が入り、誰のどのような曲を入れるのか尋ねたら、返事が来ていました。どんな曲を入れたのかあまり覚えていませんが、リクエストに無い心が落ち着くような静かな音楽なども入れたりしながら、5~6枚のCDを作ったのでした。次の年の春には自動車の保険の連絡もメールで入っていたので、元気にしてるんやと思っていました。そう、彼女は自動車の修理工場の社長の奥さん、彼女に頼んで届いた車があの愚車だったわけです。それは彼女が悪いのではなく、彼女共々、私はご主人とも仲が良く、釣りに行ったり酒を飲みに行ったり、長い付き合いを続けていたのですが、そんな車を「エエ車や」として選んできた社長が愚かだったということです。その車の件以来、もちろん彼女の病気のこともあったので、家を訪れることも無く、疎遠になってしまったのでした。
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良いようにかどうかは分かりませんが考えてみると、ひょっとしたら当時の社長は妻の病気で正気を失っていた、我を忘れていたのではないかという節があったのかも知れません。
南御堂から二筋南下すると、またまた難波神社という大きな神社が有りました。南御堂が大き過ぎて普段は見落としがちですが、入ってみるとなかなか立派な神社です。
反正天皇が父・仁徳天皇を祭神として松原市の柴籬宮に創建したと伝えられてるそうで、その後上本町に遷り、坐摩神社、南御堂と同じように秀吉の大坂城築城に拠りこの地に遷座したようです。
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御堂筋側(東側)の鳥居から入場すると大きなクスノキがあります。おそらくこのクスノキが御神体なのでしょう。南側に回って撮ると一層枝振りの凄さが分かります。
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境内にある手水舎、この写真では判り難いのですが、夏でもないのにハトが水盤(手水鉢)の中で行水でもしているかのように溢れかえっています。私は自転車に乗るのにも手袋をしていた位寒かったのですよ。
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境内を東から西へと歩き、一旦西の鳥居から外へ出ました。再び入場して左に博労稲荷神社、右に十四柱相殿神社、他に金刀比羅神社も有りました。
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南側にも鳥居が有りますが、正面が拝殿なので、こちらが正門にあたるのかも知れません。東と西と南に鳥居のあるこの造りは敷津松之宮・大國主神社の造りとほぼ同じです。何故北側に鳥居を建ててはいけないのでしょうか?
この神社には文楽発祥の地の碑もあり、口縄坂で見た植村文楽軒の墓碑で知ったその人がこの神社の境内で人形浄瑠璃を上演したのだそうです。最初の写真の横にあった文楽座跡の碑には稲荷社の名が刻んであり、地図でも博労稲荷神社としか載ってなく、難波神社としてより稲荷神社としての方が名が高かったのかも知れません。