ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

敷津松之宮神社 御旅所

2014-03-03 05:00:00 | 大阪にて

難波から戻る途中、勝間街道の松という街で松之宮神社を探します。松之宮神社の夏祭りには行ったことがある筈ですが、暗くて人がいっぱいいる時と、昼間の閑散とした時では感覚が違います。祭りの時なら、人の流れに沿って歩いておれば、そのうちに神社に着くというものです。近くには松通保育所や息子たちが通っていた松通東保育所が有りますが、なにわ筋からの道路が岸里まで伸長されたお蔭で、周りの雰囲気が変わったような気がしますが、変わったのは伸長された道路の左右だけ、ちょっと入り組んだところは昔とそう変わりません。

             

入る筋をちょっと間違って角・角を曲がって一周してくるうちに神社に着きました。やはり敷津松之宮神社で間違いありませんが、御旅所となっていました。祭りのときは暗くてよく分からなかったのですが、案外狭い神社です。この中に店なども入るのですから、外周も中も人がいっぱい、祭りの日の夜だけは騒がしい街になります。

             

賽銭箱をよく見ると大國主神社の敷津松之宮神社の屋根に有った紋所と同じ紋が付いていました。どちらも付けて新しいのか、金ぴかです。

             

神社の前は松之宮小学校かと思ったけど、橘小学校でした。松之宮小学校はもっと北の方に有ります。橘小学校は男女ともソフトボールが盛んな学校でしたが、最近は少し翳りが見えてきました。どこの学校のチームも会員の高齢化や新人の入部により、力関係が変わるものです。我が男子のチームも私の若い頃は強かったけど、今は人を集めるのにさえ汲々としています。去年準優勝の女子のチームはまぁ毎年相変わらず強くもなく弱くもないチームでしたが、去年新しい人が3人も入部してくれたので、かなり強くなれると考えています。入部してきたのは私も私の3人の息子たちも通っていた中学校でソフトボール部で頑張っていた子、丁度次男と同級生に当たります。その年の同クラブの卒業生にはアテネオリンピックに出場した実業団の日立ソフトウェアに所属していた選手もいます。

             

三男の同級生にも(この子は保育所から学童保育も一緒だった)中学校でソフトボール部に入部し、名門高校を経て名古屋の実業団の一部リーグに所属していましたが、私が名古屋に赴任した時、一度一緒に野球を観に行った時、チーム内で揉め事があったので辞めて、何処か他のチームを探していると言うことでした。オリンピックに出場した子は未だチームに居るようですが、4年違いのこの子は今どうしていることでしょう。

                       

玉垣の残骸が見受けられました。勅令発布記念と書かれていますが、勅令などいくらでも発布していたのですから、どの勅令なのかよく分かりませんが、勅令が発布される度に玉垣を造っていたら、玉垣だらけで神社に入れなくなります。

             

これは大國主神社=敷津松之宮神社にあった玉垣、松通とか柳通、櫻通というような町名が見られますが、西成区にはこの他に花や木に因んだ橘や梅が付く通りが有ったようですが、その通りがどの通りなのかは、おそらく地下鉄の花園町と岸里の間だとは思うのですが、私はよく分かりません。玉垣に残っているので町名だったのだろうと思うのですが、昭和48年に改編・改称されたようです。今も名残が残っているのは、この神社辺りの松と橘、松之宮小学校や梅南小・中学校がある梅南が町名で残っていてるだけです。私が以前住んでいた有楽町と言う地名も無くなり、今は天下茶屋3丁目に変わっています。