重畳山登山のことを書いてもう7項目目です。今日でで最後ですので、どうか我慢して読んでくださいね。
昔の“伊串へ”の道標と共に近畿自然歩道の新たな道標も伊串への方向を指し示しています。2km以上ありますが、これならまず迷うこともないだろう、10時半だったので遅くとも昼前には姫に着くだろうと思っていました。
最初は整備された階段を降りていきます。このような道で階段が続くのは嫌やななどと思いながらの行進です。
でも階段は束の間、平坦な地道になって一安心、これなら下りだけやし思ったより早く帰れると思ったのです。
ところがだんだん道幅が狭くなっていきます。未だ降り始めて3分ぐらいしか経っていません。
それでも降りていくと・・・道がありません。シダが枯れているところが他人の踏みしめた跡かと思い、先に進みます。
ところがこうなっては道なのか道でないのか判らないではありませんか。
どうやら尾根をまっすぐに降りているらしく、造られた道では無さそうです。こんな状態ですから道でない方へ行ってしまうこともあったのです。引き返そうかと思ったりもしましたが、今まで歩いた距離が無駄になると思い直し、ひたすら前を目指しました。
30分ほど歩いてやっと造られた階段まで到着、これで道は間違ってなかったと胸を撫で下ろしました。
川が流れていてかなり下まで降りてきたことが実感されますし、橋も架かっているのでもう安心です。
と思っていたらまた道が細くなってきました。嫌な予感がしましたが、もうシダの大群に遭遇することはありませんでした。
暫らく歩いていると墓らしきものが建っています。でもよく見ると墓ではありません。左側の2つの石には字が書かれていません。
右の石柱には捨町と彫られています。捨町って何処にあるのでしょう。詳しく読んでみると“明治39年4月吉日”“願主 西牟婁郡高富村 清野何某 当年42才”と彫られていましたが、この人が42歳の厄年に願いを込めて作ったのでしょう。高富の人のものが、今は串本町となって同じ町内ですが、以前は古座町であった伊串の山の中に建てられているというのもヘンな話です。状態から見て何処かに埋められていたのをここに祀ったのではないかと思います。見つけた時に高富でこんな人が居たことなどを問い合わせてみたのでしょうか。
古い道標、こうして見ると迂回路もあるのです。そちらはちゃんとした道だったのでしょうか。
里に近づくと川は干上がってしまって、水底が曝け出されています。ここはたぶん池だったと思います。
やっと家のあるところに出てきました。もう11時半、2km程度の道を1時間もかかってしまいました。しきりに犬が吠えていますが、最初は3匹いました。見えている白い犬が吠えているのですが、もう一匹は吠えずにこちらを見ています。もう一匹は最初は姿を見せていましたが、私の姿が現れるなり小屋の中に入って吠え続けていました。
やっと降りてきたところにも近畿自然歩道の道標、これを造るくらいなら、もっとシダを刈って道を判りやすくしてほしいものです。
伊串の集落の手前で海抜19mの表示がありました。南海地震の津波が来たら、どうやらここでも少し危ないかも知れません。
やっと伊串の家並みが見えてきました。私はここまで入ってきたことがありません。親戚の家までは来たことがありましたが、ここよりずっと浜寄りです。