ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

東福寺の蓮の花

2007-07-13 06:30:00 | 
三門の南にあった池に蓮の花が咲きかけていました。
もっと一面に広がっていれば、名物になるのでしょうがね。

     

水面に蓮の葉っぱが写り込んで情緒豊かに見えます。
こちら側には甲羅干しする亀の姿もありました。

     

よく見るとピンクの方は蕾ですが、白い方は花びらが落ちてしまっているようです。それにもう散ってしまって芯だけのものもチラホラ見えます。

  

こちらは廊下の傍らに植えられていた蓮。
こちらも白い花は満開ですが、ピンクの花は蕾でした。

  

桃の実を連想させますね。

ところで、蓮の花というと芥川龍之介の『蜘蛛の糸』が想起されるのですが、どんな話だったのか誰でも知ってますよね。

ある朝、極楽でお釈迦様が真っ白な蓮の花を眺めておられました。
この蓮池の真下は地獄になっているのでしたが、お釈迦様がその水晶のように透き通った水を透して針の山や三途の川をご覧になると、健陀多(かんだたと読むが、原本では牛偏に建)という悪人がもがいているのが見えました。
健陀多は極悪人でしたが、ある時踏み潰そうとした蜘蛛を思い直って助けてやったことがあり、お釈迦様はその善行に免じて地獄から救い出してやろうと考えたのでした。
ある時健陀多がふと頭上を見ると、1本の銀色をした蜘蛛の糸がするすると降りてくるのに気付き、これで地獄から逃れられると一心に蜘蛛の糸にすがって上り続けます。
どれだけ上っても上までには辿り着けないので一休みした健陀多が下を見ると、他の罪人どもが連なって着いて来るのです。
これを見て驚いた健陀多は「この蜘蛛の糸は俺のものだ。誰に聞いて上ってきた。下りろ!下りろ!」と叫んだ瞬間、健陀多の手の上から糸はぷつんと切れてしまいました。
一部始終をご覧になっていたお釈迦様は、自分ばかりが地獄から抜け出せればいいと考えた無慈悲な健陀多を浅ましいと思召されたのでした。
それでも極楽の蓮の花はそんなことに頓着せず、白い花を咲かせ、金色の芯からはなんとも言えない良い香りを溢れさせていたのでした。

芥川龍之介は、自分だけが助かったらいいのだという心を無慈悲という表現を使って批判しています。

現在日本の企業を取り巻く情勢として『成果業績主義賃金』の横行が上がっていますが、これは労働者同士を競争させ当に「自分だけが良ければよい」という考えを蔓延らせてしまっていると言って過言ではないでしょう。
労働者は団結が命、自分だけが・・・を求めると資本家の思惑通り、思う壺です。

この東福寺の蓮を見て、ふとそんな思いがよぎり『蜘蛛の糸』を再読してみた私でした。

     

ところでこれは何だと思います?
誰かのオッパイではありません。

     

蓮の花の芯です。『蜘蛛の糸』の中では蕊という字が使われ、心が三つもあるのでした。

何事も無かったように咲く蓮の花、同じ花ですが再掲します。