「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

老兵は死なず Long Good-bye 2021・11・05

2021-11-05 05:55:00 | Weblog


   今日の「 お気に入り 」は 、「 マッカーサー演説 」。

   インターネットのフリー百科事典「 ウィキペディア 」日本語版 に掲載されている記事 の中から 、いくつか 、

  勝手に 、アット・ランダムに選んで 、以下に引用いたします 。


  「 アメリカ陸軍元帥 の ダグラス・マッカーサー が 1951年4月19日に合衆国議会合同会議にて行った 退任演説

   の際に『 老兵は死なず 、ただ消え去るのみ

   ( Old soldiers never die ; They just fade away )という形で引用した一節が広く知られる 。

  この演説を『 老兵は死なず 』演説 ( " Old Soldiers Never Die " speech )と呼ぶこともある 。


      I am closing my 52 years of military service . When I joined the Army ,

      even before the turn of the century , it was the fulfillment of all of

      my boyish hopes and dreams . The world has turned over many times since

      I took the oath on the plain at West Point , and the hopes and dreams

      have long since vanished , but I still remember the refrain of one of

      the most popular barrack ballads of that day which proclaimed most

      proudly that " old soldiers never die ; they just fade away ."

      And like the old soldier of that ballad , I now close my military

      career and just fade away , an old soldier who tried to do his duty

      as God gave him the light to see that duty .



      私は今 、52年にわたる軍務を終えようとしています 。今世紀に入る前に私が陸軍に

     入隊したとき 、それは私の少年時代の希望と夢が成就した瞬間でした 。私が ウェスト

     ポイント( 陸軍士官学校 )で兵士になる宣誓をして以来 、世界は何度も向きを変え 、

     希望や夢はずっと前に消え失せてしまいました 。しかし 、当時兵営で最も人気が高かっ

     たバラードの一節を今でも覚えています 。それは誇り高く 、こう歌い上げています 。

     『 老兵は死なず 。ただ消え去るのみ 』と 。そして このバラードの老兵のように 、

     私もいま 、私の軍歴を閉じ 、消え去ります 。神が光で照らしてくれた任務を果たそ

     うとした1人の老兵として 。


   このときのマッカーサーは功績を上げた将軍の凱旋帰国という形であったものの 、

  実際にはシビリアンコントロールを逸脱する動きが見られたという理由で解任されての

  帰国であった 。朝鮮戦争の最中 、マッカーサーは中国人民志願軍派遣への報復として 、

  原爆使用を含めた中華人民共和国への攻撃を主張したものの 、ハリー・S・トルーマン

  大統領によって拒否されていた 。解任について 、トルーマンは『 大統領の権限を尊重

  しないからこそ私は彼を解任したのである …… 彼が間抜けのろくでなしであるから解任

  したのではない 。確かに彼は間抜けのろくでなしだが 』

  ( I fired him because he wouldn’t respect the authority of the President …

   I didn’t fire him because he was a dumb son of a bitch , although he was .


  と述べた 。しかし、第二次世界大戦の英雄として名を知られ 、多くの国民に支持されて

  いたマッカーサーの解任は 、大いに物議を醸した 。退任演説の焦点は 、ドミノ理論を

  前提とした共産主義の脅威についてであった 。」


  「 後年 、この演説について尋ねられたトルーマンは 、『 馬鹿げた戯言以外の何でもない!

 ( nothing but a bunch of damn bullshit ! )』と述べた 。」



 「 派 生

  このフレーズをもじったジョークも流行した 。以下のようなものが知られる 。

  ・ 老プログラマーは死なず 、ただ新アドレスに分岐するのみ 。

   ( Old programmers never die, they just branch to a new address.

  ・ 老警官は死なず 、ただ言い逃れるのみ 。

   ( Old policemen never die, they just cop out.

  ・ 老飛行士は死なず 、ただ高度を上げるのみ 。

   ( Old pilots never die, they just go to a higher plane.

   1980年 、ABCの番組『 20/20 』にてバーバラ・ウォルターズのインタビューを受けた

  リチャード・ニクソン元大統領は 、マッカーサーの言葉を引用した後 、

  『 老政治家は大抵死ぬが 、決して消え去ることはない 』

   ( Old politicians usually die, but they never fade away. )と語った 。 」



   引用はここまで 。

   人生百年時代 、死にも 、消え去りもしない 老政治家が 大勢 いらっしゃいます 。経験も大事 。

   トランプさん の 他にも " a dumb son of a bitch " とか " a bunch of damn bullshit ! " なんて上品な

  表現をされる ホワイトハウスの住人 は いらしたんですね 。トルーマンさんは 、民主党員 、ニクソンさん 、

  トランプさんは 、共和党員 。所属政党に関わらず 、多用される アメリカン・スラング 。

  そう云や 、民主党員 の ジョー・バイデンさん も " This is a big fucking deal ! " なんて仰ったことが

  あるようで 。皆さん 、ヤンキー だもんね 、スラング 使うよね 。


   ついでに 、おまけに 、もう一つの「 記事 」の 冒頭の部分のみ 引用します。


   「 ダグラス・マッカーサー( Douglas McArthur 、1880年1月26日 - 1964年4月5日 )は 、

    アメリカの軍人 、陸軍元帥 。連合国軍最高司令官 、国連軍司令官 を務めた 。

    コーンパイプ と 服装規則違反の フィリピン軍帽 が トレードマーク であった
。」

   「 マッカーサー家は元々はスコットランド貴族の血筋で 、キャンベル氏族 の流れを汲み 、

    スコットランド独立戦争でロバート1世に与して広大な領土を得たが 、その後は領主

    同士の勢力争いに敗れ 、没落したと伝えられている 。1828年 、当時少年だった祖父の

    アーサー・マッカーサー・シニアは 家族に連れられてスコットランドからアメリカに

    移民し 、マッカーサー家 は アメリカ国民 となった 。

     父 アーサー・マッカーサー・ジュニアは 16歳のころに 南北戦争に従軍した 根っ

    からの軍人であり 、南北戦争が終わって一旦は除隊し 、祖父と同様に 法律の勉強を

    したが長続きせず 、1866年には 軍に再入隊している 。1875年に ニューオーリンズ

    のジャクソン兵舎に勤務時に 、ヴァージニア州ノーフォーク生まれで ボルチモアの

    富裕な綿花業者の娘であった メアリー・ピンクニー・ハーディ と結婚し 、1880年に

    軍人である父の任地であった アーカンソー州リトルロックの兵器庫の兵営 で マッカ

    ーサー家 の 三男 として ダグラス・マッカーサー が誕生した
この頃は西部開拓時代

    の末期で 、インディアンとの戦いのため 、西部地区のあちらこちらに軍の砦が築かれ

    ており 、マッカーサーが生まれて5ヶ月の時 、一家は ニューメキシコ州のウィンゲート

    砦 に向かうこととなったが 、その地で1883年に次男の マルコム が病死している 。マル

    コム の病死は 母メアリーに大きな衝撃を与え 、残る2人の息子 、特に 三男ダグラスを

    溺愛するようになった 。次いで フォート・セルデンの砦 に 父アーサー が転属となり 、

    家族も付いていった 。そのため ダグラス は 、幼少期のほとんどを軍の砦の中で生活

    することとなった 。

     その後も 一家は全国の任地を転々とするが 、1898年に 米西戦争 が始まると 父アー

    サー は 准将 となり 、スペインの植民地であったフィリピン に出征 、マッカーサー家

    とフィリピンの深い縁の始まりとなった 。戦争が終わり 、フィリピン が スペイン

    よりアメリカに割譲されると 、少将 に昇進し 師団長になっていた 父アーサー はその後

    に始まった 米比戦争 でも活躍し 、在フィリピンのアメリカ軍司令官 に 昇進した 。

     しかし 、1892年に 兄アーサー は アナポリス海軍兵学校に入学し 、1896年には海軍

    少尉として任官し 、弟ダグラス も ウェストポイント陸軍士官学校を目指し勉強中だった

    ことから 、家族はフィリピンに付いていかなかった 。

     なお 、ダグラス は幼少期 、母メアリー によって フランスの風習に倣い 、女子の格好

    をさせられていた 。このことの人格形成への悪影響を危惧した父によって 、陸軍士官学校

    に入学させられることになったとも言われている 。


     引用 、おわり 。

     まるで伝記作家が 書いたような 、ダグラス・マッカーサーさんの 、長い 、長ーい

    「 経 歴 」記事 、引用は 、84年の人生 の はじめの一歩 のみ です 。この先が 、何倍もあります 。
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HERE LIE THE ASHES OF DOROTHY PARKER. ( 1893 – 1967 ) Long Good-bye 2021・11・04

2021-11-04 06:15:00 | Weblog
  今日の「 お気に入り 」 。

  「 神様がお金についてどう思っているか知りたければ 、

       神様がそれを与えた人々を見てみればいいわ 。

                ( ドロシー・パーカー )」

  " If you want to know what God thinks of money,

         just look at the people he gave it to.

                ―― Dorothy Parker ”



                                   


    インターネットのフリー百科事典「 ウィキペディア 」日本語版には 、ドロシー・パーカーさん

   が 、1967年6月に亡くなって 、およそ20年後の出来事として 、次のような記事が載っています 。

   「 死後の栄誉

     1988年 、全米黒人地位向上協会はそのボルチモア本部の外に パーカー の遺骸を納め 、

     記念庭園を造った 。その銘板には以下のように書かれている 。

     ここにドロシー・パーカー( 1893年 - 1967年 )の 灰が眠る 。ユーモア作家 、

      著述家 、批評家 、人権と公民権の守護者 。

     彼女が遺した碑文は『 私の埃をお許し下さい 』だった 。この記念庭園は人類

     の調和を祝した彼女の高貴な精神に献げ 、黒人とユダヤ人の間の永遠に続く友

     好の絆に献げられるものである 。全米黒人地位向上協会謹呈 。1988年10月28日   」


   「 ウィキペディア 」英語版 に載ってる「 銘板 」の原文は 、次の通り 。

      " Here lie the ashes of Dorothy Parker ( 1893 – 1967 ). humorist, writer,

      critic. Defender of human and civil rights.

      For her epitaph she suggested, ' Excuse my dust '.

      This memorial garden is dedicated to her noble spirit which celebrated

      the oneness of humankind and to the bonds of everlasting friendship

      between black and Jewish people.

      Dedicated by the National Association for the Advancement of Colored

      People. October 28, 1988. "

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WOMEN AND ELEPHANTS NEVER FORGET. Long Good-bye 2021・11・03

2021-11-03 05:55:00 | Weblog


   今日の「 お気に入り 」は 、今に伝わる 、ドロシー・パーカーさん ( Dorothy Parker , 1893 - 1967 )の お言葉 。

   「 女とゾウは 、忘れない生き物なのよ 。

         Women and elephants never forget .


   「 美しさは 面の皮一枚にすぎないけれど 、醜さは 骨の髄まで達するものよ 。

         Beauty is only skin deep, but ugly goes clean to the bone.


   インターネットのフリー百科事典「 ウィキペディア 」日本語版 に 、ドロシー・パーカーさん について

   次のような 解説 が 載ってます 。

    「 ドロシー・パーカー( 英 : Dorothy Parker , 1893年8月22日 - 1967年6月7日 )は 、

     アメリカ合衆国の詩人 、短編作家 、評論家 、風刺家であり 、その機知 、皮肉 、

     および20世紀都市の問題に向けた視点で知られている 。

     パーカーは問題の多い不幸な子供時代を過ごした後 、『 ザ・ニューヨーカー 』など

     の媒体で文学作品を発表したことと 、アルゴンキン・ラウンド・テーブルを設立した

     一員となったことの双方で世に出た 。この仲間と別れた後 、ハリウッドに旅して映

     画台本作りを追求した 。アカデミー賞候補となった作品2作を含めたそこでの成功は 、

     左翼政治に関与したととられ 、ハリウッド・ブラックリストに載ったために潰えるこ

     ととなった 。

     自分自身の才能に対して否定的で 、『 皮肉屋 』としての評判を嘆いていた 。それ

     でもその文学作品と鋭い機知に対する評価は長く知られることとなった 。」
 
     「 パーカーは ニュージャージー州ロングブランチのウェストエンド村オーシャン・

     アベニュー732で 、父ジェイコブ・ヘンリー・ロスチャイルド 、母エリザ・アニー・

     ロスチャイルド( 旧姓マーストン )の子として生まれた 。

     生まれた時の名は ドロシー・ロスチャイルド 、愛称は『 ドット 』あるいは『 ドッティ 』

     と呼ばれた 。生まれた家は 両親が夏の海岸コテージとして持っていた 。母はスコット

     ランド系の子孫であり 、父はドイツ系ユダヤ人の子孫だった( 財閥のロスチャイルド家

     との関係はない )。」


                                              


    昨日読んだ本の一節に 、こんなのありました 。

    「 ・・・皮膚 は 、『 真皮 』と呼ばれる内層と 、外側の『 表皮 』から成る 。表皮の最も外側の

     表面は『 角質層 』と呼ばれ 、すべて死んだ細胞でできている 。ヒトを美しく見せるすべて

     が死んでいるという事実には 、奇妙な感慨を覚える 。体が空気に触れる部分については 、

     わたしたちは みんな死体 なのだ 。その外皮の細胞は 、毎月入れ替わる 。わたしたちは

     ほとんど気にもせずに皮膚を大量に脱ぎ捨てている 。一分におよそ二万五千片 、一時間に

     百万片以上 。ほこりをかぶった棚を指でなぞれば 、かつての自分のかけらをかき分けて進む

     ことになる 。静かに 、無慈悲に 、わたしたちは塵になっていく 。皮膚片は 、正確には

     鱗屑( squame 鱗 という意味 )と呼ばれる 。ひとりひとりが 、一年に約 〇・五 キロ

     の塵を振りまきながら歩いている 。掃除機のごみパックの中身を燃やしたら 、主たる臭気

     は紛れもなく髪の毛を燃やしたような焦げた匂いだろう 。皮膚と髪はほとんど同じ物質 、

     ケラチンでできているからだ 。・・・ 」


     鱗屑 、りんせつ と読むそうな 。鱗 は 、英語で scale でしたっけ 。

     
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くろふね Long Good-bye 2021・11・01

2021-11-01 05:59:00 | Weblog




  今日の「 お気に入り 」は 、筆者が知っても何の役にも立たない「 ムダ知識 」 満載 のインターネット

  のフリー百科事典「 ウィキペディア 」から 、幕末の頃 、日本を捕鯨船の寄港地とするため 、鎖港して

  いた日本国に 、開港 に向けての交渉を促す 大統領親書 を携えて 、遠路はるばる 、1853年7月 と

  1854年2月の二度 、来日し 、二度目の来日の折り 、1854年3月に「 日米和親条約 」を

  調印 し 、帰途 、7月に 琉球王国 とも 「 琉米修好条約 」を 締結して 、要領よく任務を全うした

  アメリカ海軍 軍人 「 ペリーさん 」に関する記事 の 「 引用 」です 。


  ここから引用はじめ 。

   「 マシュー・カルブレイス・ペリー( Matthew Calbraith Perry , 1794年4月10日 – 1858年3月4日 )

    
は、アメリカ海軍の軍人 。兄はオリバー・ハザード・ペリー 。

    江戸時代に艦隊を率いて鎖港をしていた日本へ来航し 、開港への交渉 を要求したことで知られる 。

    来航当時の文書には「 ペルリ(漢字では彼理)」と表記されていた 。


    生 涯

     日本来航までロードアイランド州ニューポートで 、アメリカ海軍大尉の クリストファー・レイモンド・

    ペリー と妻セーラの間に 三男 として生まれる
1809年 、わずか 14歳9か月 で士官候補生の辞令を受け

    アメリカ海軍に入隊
、1812年からの米英戦争 に 2人の兄とともに 参加する 。1833年 にブルックリン海軍

    工廠の造船所長 となり 、1837年にアメリカ海軍で2隻目の蒸気フリゲート フルトン号 を建造し 、同年海軍

    大佐 に昇進した
1840年6月 には同 海軍工廠の司令官 となり、 代将 の地位を得る

     1846年 に 米墨戦争 が勃発すると 、後年 日本に来航する ミシシッピ号 の 艦長 兼 本国艦隊副司令として

    参加 、メキシコ湾のベラクルスへの上陸作戦を指揮 、後には 本国艦隊の司令官 に昇進した


     蒸気船 を主力とする海軍の強化策を進めると共に 、士官教育にあたり 、蒸気船海軍の父 ( Father of the

    Steam Navy )とたたえられ 、海軍教育の先駆者 とされている



    日本開国任務

     1852年11月に 、東インド艦隊司令長官 に就任 、日本を捕鯨船の寄港地とするため交渉するよう

    依頼する 大統領の親書 を手渡すよう指令 を与えられた
同年11月 、アメリカ合衆国大統領

    ミラード・フィルモア の親書を携えて バージニア州ノーフォーク を出航した 。フリゲート艦

    ミシシッピ号を旗艦 とした 4隻の艦隊 は マデイラ諸島・ケープタウン・モーリシャス・セイロン・

    シンガポール・マカオ・香港・上海・琉球( 沖縄 )を経由した


     1853年7月8日( 嘉永6年6月3日 )、浦賀に入港した
。7月14日( 6月9日 )、幕府側が指定した

    久里浜 に護衛を引き連れ上陸 、戸田氏栄 と 井戸弘道 に 大統領の親書 を手渡した 。ここでは

    具体的な協議は執り行われず 開国の要求をしたのみで 、湾を何日か測量した後 、幕府から翌年

    までの猶予を求められ 、食料など艦隊の事情もあり 、琉球へ寄港した


     太平天国の乱 が起こり 、アメリカでの極東事情が変化する中 、1854年2月13日( 嘉永7年1月16日 )

    に 旗艦 サスケハナ号 など 7隻の軍艦を率いて 現在の横浜市の沖 に迫り 、早期の条約締結を求め 、

    3月31日( 3月3日 )に 神奈川で日米和親条約を調印 した
。またその後 、那覇に寄港して 、7月11日 、

    琉球王国 とも 琉米修好条約 を 締結した 。その後 、艦隊は香港に向かった



    帰国と退任

     日本開港の大任を果たした後 、体調不良に悩まされていたペリーは 、香港で本国政府に帰国を申請し

    許可を得た 。艦隊の指揮権を譲って 、ミシシッピ号 を去り 9月11日にイギリス船に便乗し 、西回り

    の航路と陸路でニューヨークへの帰国の途に就いた 。インド洋 、 紅海 、地中海 を経て ヨーロッパ

    大陸を鉄道で移動し ウイーン 、ベルリン 、ハーグ らで 多少の滞在保養を得て イギリスへ渡り 、

    リヴァプールから大西洋を航海 、翌年1月12日 にニューヨークに帰着した
。東周りの航海で1月22日

    にニューヨークへ帰着した ミシシッピ号 の艦上で 1月24日にペリーの 東インド艦隊司令長官の退任

    式が挙行された



    気象学への貢献

     ペリー は 嘉永6年( 1853年 )7月 と 嘉永7年( 1854年 )2月 に 日本の開国を促すために日本遠征

    ( いわゆる 黒船来航 )を行ったが 、その航海途中で 1854年2月7日 - 12日 の 琉球から江戸湾に

    至る航路 での 風向・気圧 、気温・水温 、海流の流向流速 を測定していた 。

     ペリーは 航海時の嵐からの安全に意を尽くしており 、アメリカの 気象学者 ウィリアム・レッドフィ

    ールドと交流があった 。ペリー が出版した「 ペリー艦隊日本遠征記( Narrative of the Expedition

    of an American Squadron to the China Seas and Japan )
」の 第2巻の中には日本遠征時の気象観測

    データを用いた レッドフィールド による 太平洋の嵐の研究 が含まれている 。その中には 1853年7月

    17日から28日まで 日本を離れた サスケハナ号 と ミシシッピ号 が遭遇した 台風の位置記録と気圧計

    の記録 、そして台風の特徴の分析もある 。


    晩 年

     日本遠征記などの出版に注力をした 。また 、アルコール使用障害 、痛風 、リウマチ を患っていた 。

    1858年3月4日 ニューヨークで死去 、63歳だった 。墓所は ロードアイランド州アイランド墓地 にあり 、

    娘アンナとともに納められている 。日本 は ペリーが帰国した後 、15年に及ぶ動乱の幕末 を迎える

    こととなった



    人 物

    ・ 奴隷の帰国事業に尽力し 、リベリアでは著名である 。

    ・ ペリー を実見した 菅野八郎 は 、身長 を 六尺四 - 五寸( 約 192 - 195 cm )と記録している 。

    ・ 大変家族思いで 、子どもたちが兄弟喧嘩をしないよう 、強く戒める手紙を書き残している 。

    ・ 公式な記録は残っていないが 、鬘 を着用していた ことを複数の関係者が証言している 。

    ・ 水兵や海兵隊員 、他の士官たちからペリーの威張った態度 、挨拶や合図の声が熊のように大声で

     聞こえるので「 熊おやじ 」( Old Bruin )と隠れてあだ名されていた 。

    ・ 1819年には ニューヨーク市にて フリーメイソン に加入した 。

    ・ ペリーは 日本開国任務 が与えられる 1年以上前の 1851年1月 、日本遠征の独自の基本計画を海軍

     長官 ウィリアム・アレクサンダー・グラハム に提出していた 。そこでは 、以下のように述べている 。

      ・ 任務成功のためには 4隻の軍艦が必要で 、その内3隻は大型の蒸気軍艦であること 。

      ・ 日本人は書物で蒸気船を知っているかもしれないが 、目で見ることで近代国家の軍事力を認識できる

       だろう 。

      ・ 中国人に対したのと同様に 、日本人に対しても『 恐怖に訴える方が 、友好に訴えるより多くの利点が

       あるだろう 。

      オランダ が 妨害することが想定されるため 、長崎での交渉は避けるべき 。』


    遺 産

     ペリー上陸の地 である 神奈川県横須賀市久里浜 の「 ペリー公園 」には「 上陸記念碑 」と

    「 ペリー記念館 」が建てられている 。

     ペリーは 、和親条約を締結後 、安政元年( 1854年 )に 、開港される 函館港 に下検分のため

    として来航した 。来航150年を前に 、函館に「 ペリー提督来航記念碑 」が立てられた 。

     浦賀来航( 西暦1853年 )の際に幕府に旗を2本贈っているが 、旗の種類及び贈った目的は不明

    である 。ペリーの交渉態度が高圧的かつ恫喝的と見られたせいか 、砲艦外交 と呼ばれる 。

    幕府へ電信機と模型機関車を献上した 。

     4分の1の大きさの蒸気機関車の模型 は 、円形のレールの上を実際に走らせ 、人々を驚かせた 。

     電信機の電線 を1 km 程 引き 、公開実験 を行った 。このとき 、『 YEDO , YOKOHAMA 』

    ( 江戸 、横浜 )と 打った 。針金を通して一瞬にして言葉を送る機械 に 、当時の人たちは

    大変驚いた 。この エンボッシングモールス電信機 は 逓信総合博物館( 2013年閉館 )を経て

    郵政博物館( 2014年開館 )に伝えられている 。

     1853年の来航時に旗艦「サスケハナ」号 に掲げられていた 星条旗 は 、1945年(昭和20年)

    9月2日 の 日本の降伏文書調印時に 戦艦ミズーリ 上に掲げられた



    ペリー艦隊

     嘉永6年6月3日(1853年7月8日)に江戸湾の浦賀沖に姿を現したペリー率いるアメリカ海軍

    東インド艦隊の4隻の軍艦 。日本人は これを「 黒船 」「 くろふね 」と呼んだ 。

     一般には「 東インド艦隊 」と呼ばれるが 、「 フリート 」 ( fleet ) ではなく

    「 スコードロン 」 ( squadron ) であるため 、現代の軍事用語では「 小艦隊( または

    戦隊 )」に該当する 。ただし 、当時のアメリカ海軍にはフリートは存在せず 、軍艦の

    集団としては スコードロン が最大の単位であった 。

     『 泰平の眠りを覚ます上喜撰( じょうきせん )たつた四杯で夜も眠れず 』と 狂歌 に詠

    まれたが 、来航した 黒船4隻のうち 蒸気船 は2隻のみ であった

   ☆ 旗艦:『 サスケハナ 』( USS Susquehanna ) 1850年12月24日 フィラデルフィア海軍工廠
    で竣工
      外輪式フリゲート:水線長76メートル 、満載排水量 3,824トン 、乗員 300名 。
      装備 10インチ砲 3門 、8インチ砲 6門

   ☆ 『 ミシシッピ 』( USS Mississippi )
      外輪式フリゲート
:水線長 70メートル 、満載排水量 3,230トン
      装備 10インチ砲 2門 、8インチ砲 8門

   ☆ 『 プリマス 』( USS Plymouth )
      帆船
:水線長 45メートル 、満載排水量 889トン
      装備 8インチ砲 8門 、32ポンド砲 18門

   ☆ 『 サラトガ 』( USS Saratoga )
      帆船
:水線長 45メートル 、満載排水量 896トン
      装備 8インチ砲 4門 、32ポンド砲 18門


    階級に関して

     ペリーの訪日当時の階級は“ Commodore ”である 。

     古来の欧州の海軍においては 、個々の戦闘艦の指揮官である Captain( 艦長 / 大佐)

    が平時の最上位であり 、戦時に複数の戦闘艦が集められて艦隊が編成された場合の司令

    官として Admiral が任命されていた 。その後 Admiral は階級として固定され 、臨時

    に複数の戦闘艦の指揮官が必要になる場合には 、艦長のうち最先任の者が Commodore

    ( 代将 )としてこれを率いていた 。そして 、19世紀当時には Commodore も階級と

    なっていた 。

     一方 、欧州の海軍とは異なり 、アメリカ海軍においては設立以来1人の Admiral も

    誕生していなかった 。

     制度としては存在していたものの 、Admiral に昇進するには議会の承認が必要であり 、

    現実に最初の Admiral が認められたのは南北戦争中の1862年であった( この時点では

    ペリーはすでに死亡している )。したがって 、ペリーの肩書きも Commodore( 代将 )

    であり、Admiral ではなかった


     アメリカ海軍においても 代将 は一時的な肩書きに過ぎず 、ペリーは 東インド艦隊

    の指揮をとるために代将に任命されたもので 、任務が完了した後は 正規の階級 である

    大佐 に戻っている


     大統領の親書には 、ペリーはアメリカ海軍の最高位の軍人であると記載されていた

     当時の日本の文献では『 水師提督マツテウセベルリ 』との記載がある( 合衆國水師

    提督口上書 )。

     提督は 、清朝の最高位の武官の官職名であり 、水師提督は海軍の最高位の軍人である

    事を意味する 。

     ペリーの肩書きを表すのに 、同じ外国である清朝の武官名を借用したのである 。

     これ以降 提督は海軍の最高位を示し 、現代では英語の『 Commodore 』、『 Flag

    officer 』及び敬称としての『 admiral 』の和訳語となっている。


    艦 名

     兄のオリバーの名前は、オリバー・ハザード・ペリー級ミサイルフリゲートのネーム

    シップとなるなど、これまで6隻に使われたが 、最近までアメリカ海軍にはマシュー・

    ペリーの名前を持つ艦はなかった 。しかし、2010年に就役したルイス・アンド・クラ

    ーク級貨物弾薬補給艦の9番艦が マシュー・ペリー と命名された。同艦は2011年の

    東北地方太平洋沖地震の救援活動に参加した 。 」



    引用はここまで 。

    来日した 1853年7月 は 、59歳のとき 。翌年 、日本からの帰途 、香港 で 下船し 、

    イギリス船に乗り換えて 、西廻りで 、 欧州各国にも 保養を兼ねて 立ち寄った後 、帰国 。

    ニューヨークに帰着した 1855年1月は 、御年60歳 。

    3年後の 1858年3月 、64歳 になるちょっと前に 63歳 で亡くなっています 。

    「 北亜墨加人物 ペルリ 」こと ペリーさんの あだ名は 、「 熊おやじ 」( Old Bruin )、 ・・・ 鬘 、 被ってたそうな 。

    「 禿げで死んだ人はいない 。 」
    

                    
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