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「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

修二会  Long Good-bye 2023・08・22

2023-08-22 05:45:00 | Weblog

 

  今日の「 お気に入り 」は 、作家 司馬遼太郎さんの 「 街道をゆく 」から

  「 雑司町界隈 」と「 修二会 」、それぞれの章の一節 。

  備忘の為 、抜き書き 。

   今日8月22日は 、タモリさんの誕生日だとか 。昭和20年 、ほやほやの

  戦後生まれ 、滿78歳 、早朝のラジオで耳にした。縁もゆかりもないけれど 。

   引用はじめ 。 

  「 仏教は 、本来 、葬儀をするための宗教ではなかったので

   ある 。クシナーラーの野で 、弟子たちに看とられつつ死

   んだ釈迦についても 、葬儀が営まれたというはなしはない 。

    かれの遺体は 、当時のインドの火葬のやりかたどおり 、新

   しい布や綿でつつまれ 、油をたっぷり入れた鉄の槽 ( おけ )

   におさめられて 、火が点じられただけであった 。

    仏教渡来以前 、日本人は 、死者と死霊をおそれた 。また 、

   死や血を穢れとみた 。

    仏教という大きな文明がこの国にやってきて 、死者とは

   じつは五蘊 ( ごうん ) の去った物質にすぎない 、と教え

   ても 、死者をおそれる固有の心をくだくことができなかっ

   た 。むしろ 、仏教はこれに習合した 。具体的には 、死霊

   を鎮めるために用いられるようになった 。仏僧が死者をあつ

   かうようになるのは 、そのことによる 。

    が 、東大寺が建立された奈良時代では 、仏教は生者のみの

   ものだった 。このため 、東大寺ではなお創建以来の精神が

   息づいていて 、葬儀というものはやらない 。いかに東大寺

   に大きな寄進をした分限者であっても 、葬儀をひきうける

   ことはない 。また管長以下 、塔頭の僧たちが死んでも 、

   東大寺の僧たちが死んでも 、東大寺の僧がその導師をつと

   めることもない 。

     東大寺の僧が死ぬと 、町方の寺の住職をよんで 、葬儀を

   させるのである 。その専門というべき寺があって 、寺号は

   空海寺という 。 」

   ( ´_ゝ`)

  「 空海寺については『 東大寺辞典 』に 、以下のように記せ

   られている 。

    東大寺の菩提寺で 、近代の東大寺別当は多くこの寺に葬ら

    れている 。それは東大寺の境内に墓所を築くことは固く禁

    じられているためで 、現在も塔頭住職や寺族の墓所がある 。

     ( 以下略 ) 」

   ( ´_ゝ`)

  「 死者に戒名をつけるなどという奇習がはじまったのはほんの近

   世になってからである 。インド仏教にも中国仏教にもそんな形

   式も思想もない 。江戸期になって一般化したが 、おそらく寺院

   経営のためのもので 、仏教とは無縁のものといっていい 。戒名

   がさほどの歴史性もなく 、仏教の教義にも関係がないというの

   は 、わが国最古の過去帳をもつ修二会がそれを証明している 。 」

   ( ´_ゝ`)

  「 周知のように 、東大寺では 、天平のむかしから『 お水取り 』

    ( 修二会 ) という行事が 、境内の二月堂で修される 。

    むかしは 、陰暦二月におこなわれた 。いまは三月に修される 。

   一日から十四日までという期間にはかわりがないが 、陰暦二月・

   陽暦三月はともにまだ天寒く 、堂内・堂外の闇は凍つくようで

   ある 。行法は 、夜を徹しておこなわれ 、あけがたにおよぶ 。 」

   ( ´_ゝ`)

   引用おわり 。

 

 

 ( ついでながらの

   筆者註 : 「 五蘊( ごうん 、巴 : pañca-kkhandha ( パンチャッカンダ ) 、
      梵 : पञ्च स्कन्ध , pañca-skandha ( パンチャ・スカンダ ) )とは 、
      原義では 『 5つの集合体・グループ・コレクション 』 をさす 。
      蘊( 梵 : skandha [ スカンダ ] 、巴 : khandha [ カンダ ] )
      とは 集まり 、同類のものの集積 を意味する 。

      五取蘊とは 『 私とは何者か 』 に対する 釈迦 の答えである 。

      仏教においては 五取蘊( Pañcupādāna-kkhandhā )として
      色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊の総称 。

      ・・・ 、省略して五蘊とする 。
      人間の肉体と精神を5つの集まりに分けて示したもの 。
      取( upādāna )とは 、それに執着するということ 。

       五蘊は次の5種である 。『 色 』 は物質的存在を示し 、『 受 』『 想 』
      『 行 』『 識 』 は 精神作用 を示す 。人間の心身の機構を羅列的に
      挙げ 、それによって 人間の生存およびその環境の全て を表そうとした
      ものである  。他の心作用 ( 心所 ) は みな 行蘊の中におさめられ
      ているのに 、受と想だけが別個な一蘊として立てられているのは 、受
      と想が争論のもとを生む主因であることや 、輪廻に堕す主因である
      ことによる 。

      色蘊( しきうん 、巴 : 梵 : rūpa ) - いろ 、形あるもの 。認識
           対象となる物質的存在の総称 。一定の空間を占めて
           他の存在と相容れないが 、絶えず変化し 、やがて消滅
           するもの 。体 。
      受蘊( じゅうん 、巴 : 梵 : vedanā ) -  感受作用 。肉体的 、
           生理的な感覚 。根( 六根 )と境( 六境 )と識
           ( 六識 )の接触和合から生じる 苦・楽・不苦不楽
           などの印象 、感覚 。阿毘達磨倶舎論においては 、
           内なる心が外界と接触してそこに 楽 、苦 、不苦不楽
           を受け入れること 。
      想蘊( そううん 、巴 : saññā , 梵 : saṃjñā ) - 表象作用 。
           概念的な事柄の認識 。イメージ 。事物の形象を心の中
           に思い浮かべること 。阿毘達磨倶舎論においては 、対
           象のあり方を心の中に把握すること 、表象すること 。
      行蘊( ぎょううん 、巴 : saṅkhāra , 梵 : saṃskāra ) - 意識
           を生じる意志作用 。意志形成力 。心がある方向に働く
           こと 。深層意識 。阿毘達磨倶舎論においては 、色 、受 、
           想 、識 の 四蘊以外 。
      識蘊( しきうん 、巴 : viññāṇa , 梵 : vijñāna ) - 認識作用 。
           対象を得て 、区別して知るもの 。知り分けること 。判断 。

     五蘊の最初が色蘊で最後が識蘊となるのは 、粗雑なものから精細な
     ものへの順序 、悪に染められた心を起因として 諸法が生じる次第を 逆に
     さかのぼる順序などに従うのであるとされる 。」

         以上ウィキ情報  。)

 

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