古今集講座、今日から『旅の歌』編に入る。
実際のタイトルは現在の日常漢字としては使われていない表現になっている。
今日はその沿革の話で終始した。
旅は「日常性からの脱却」、平安時代もそういう目で捉えられていたとか。
平安の昔は京都から遠く離れた地に旅することは、現在我々が海外に行くほどの感覚だったかもしれない。車も飛行機も無い、ひたすら歩いた訳だし、遠隔地には死をも覚悟の旅だったに違いない。盗賊おり、山賊あり、天気のよい明るい日中しか歩けない。
想像を絶する苦難があったと思われる。
突然、芭蕉の話にとんだ。
生涯旅に明け暮れて俳句を詠んだ。
最後は大阪淀屋橋で亡くなり、遺言によって遺体は300人ほどの弔問客とともに淀川を遡り京都は伏見の義仲寺に葬られているという。
義仲寺は木曽義仲の遺体が祀られている。
芭蕉は旅の途中で義仲寺に立ち寄り木曽義仲の生き方にいたく感動したらしい。
句も詠んでいるという。
木曽殿と背中合わせの寒さかな
こんな具合で脱線してばかりいるが、その脱線話は驚くべき博識と教養が感じられる。我々下々は到底及ばない。
確かに旅は非日常の世界に飛び込むことで人間としての視野を広げることになると思う。
私は、最近はツアーの団体旅行でホテルも食事もお仕着せばかりだが、それでも非日常の世界だ。
特に海外では建造物、町並み、人々の様子、景色、それだけでも驚くべき経験だ。
日常生活をともにしたらもっと驚きが増えるだろうと思う。
余談になるがヨーロッパに行くと、我々が現在着用している洋服はやはりヨーロッパの人たちのものだなという感じがする。
日本人はやはり洋服を着こなしていない感じを持つ。
特にブランド品を身につけた日本女性は着飾ったお人形さんみたいで足が地に着いていない。
欧州の街中で見る人たちは、デブもチビも若い人もじいさんもばあさんも見事に着こなしている感じを持つ。単に体型の違いばかりではない。中には短足のお兄さんもいるがやはり見事にフィットしている。
洋服の伝統の深さを感じる。
実際のタイトルは現在の日常漢字としては使われていない表現になっている。
今日はその沿革の話で終始した。
旅は「日常性からの脱却」、平安時代もそういう目で捉えられていたとか。
平安の昔は京都から遠く離れた地に旅することは、現在我々が海外に行くほどの感覚だったかもしれない。車も飛行機も無い、ひたすら歩いた訳だし、遠隔地には死をも覚悟の旅だったに違いない。盗賊おり、山賊あり、天気のよい明るい日中しか歩けない。
想像を絶する苦難があったと思われる。
突然、芭蕉の話にとんだ。
生涯旅に明け暮れて俳句を詠んだ。
最後は大阪淀屋橋で亡くなり、遺言によって遺体は300人ほどの弔問客とともに淀川を遡り京都は伏見の義仲寺に葬られているという。
義仲寺は木曽義仲の遺体が祀られている。
芭蕉は旅の途中で義仲寺に立ち寄り木曽義仲の生き方にいたく感動したらしい。
句も詠んでいるという。
木曽殿と背中合わせの寒さかな
こんな具合で脱線してばかりいるが、その脱線話は驚くべき博識と教養が感じられる。我々下々は到底及ばない。
確かに旅は非日常の世界に飛び込むことで人間としての視野を広げることになると思う。
私は、最近はツアーの団体旅行でホテルも食事もお仕着せばかりだが、それでも非日常の世界だ。
特に海外では建造物、町並み、人々の様子、景色、それだけでも驚くべき経験だ。
日常生活をともにしたらもっと驚きが増えるだろうと思う。
余談になるがヨーロッパに行くと、我々が現在着用している洋服はやはりヨーロッパの人たちのものだなという感じがする。
日本人はやはり洋服を着こなしていない感じを持つ。
特にブランド品を身につけた日本女性は着飾ったお人形さんみたいで足が地に着いていない。
欧州の街中で見る人たちは、デブもチビも若い人もじいさんもばあさんも見事に着こなしている感じを持つ。単に体型の違いばかりではない。中には短足のお兄さんもいるがやはり見事にフィットしている。
洋服の伝統の深さを感じる。