峠おやじの「たわごと」

峠、自転車、キャンピングカー、野菜、園芸、時事ネタなどをぼやいてます。

長良川上流改修記念碑

2019年01月18日 | 歴史
岐阜都ホテルと国際会議場の真ん前にある長良川上流改修記念碑です。



しかし、その実態はこの地にて3つに分派して流れていた川を締め切って一本化した大工事でした。その案内板がかたわらに立ててあります。

昭和の初めまで岐阜市の長良川北部は長良橋の下流で古川(ふるかわ、戦国時代までの本流)古々川(ふるふるかわ、1611年の大洪水によりできた)井川(いかわ、1534年の大洪水により破堤してできた。現在の本流)の3つの流れに分かれていました。ちょうど扇状地河川のような分流だったわけです。古川・古々川は、幾度も屈曲し、また、伊自良川を合流しているため、川に囲まれた多くの島地形を形成していました。洪水時には,これらの川が氾濫を起こし,しばしば大きな被害をもたらしていました。 江戸時代から,堤防工事などが地元で行われてきましたが,明治時代に入ってからも洪水被害は続きました。



長良川における工事は、大正12年(1923年)12月に着工されました。長良川改修の最大の課題は、長良橋下流で右岸側に分派している古川・古々川を締切り長良川を一本化することでした。まず,昭和8年に古川・古々川の締め切り工事が始まり昭和14年に完成しました。続いて昭和9年から合流点の工事が始まりました。この工事では長良川本流堤防を外に拡げる大工事も平行して行われ,昭和26年に完成しました。 この川幅を広げる工事では岐阜市中心部(南)側は人家が多く新しい堤防を作ることができないため,従来の堤防を利用し特殊提と呼ばれる堤防を築きました。

これらの工事により,長良川右岸の岐阜市北部は水害が減り,農地や宅地開発が飛躍的に進みました。 現在,古々川・古川の広大な旧河川敷は文教施設や住宅地域として利用されています。

 締切堤中央部にあたる長良川右岸堤防の上には「長良川上流改修記念碑」が建立され、住民の悲願と功績を永く後世に伝えています。 記念碑の頂部の直径1.2mの円形の御影石は人柱の古例に代わる鎮石をこの地に鎮めたものの模型と伝えられています。



そのなかに安藤狂四郎なる円月殺法のような名前を発見しました。内務省土木局長だそうです。調べると、のちに色々な府県知事も歴任した人だそうで、なかなかの大人物でした。

人物といえば記念碑の底部側面にも関わった人々の名前が刻まれています。下の写真は川側に面したものです。



先頭にあるのが当時の総理大臣です。読み取れるのは原敬、、田中義一、広田弘毅、斎藤實、岡田啓介、近衛文麿です。歴史上の人物が読み取れて楽しいです。ほかにも多くの方々の名前が連なっていますが苔むして読み取れません。他の側面にも色々な方々の名前があります。

塔の他の二面に刻まれているのはこんなものです。



カタカナ交じりのわかりにくい経緯と長良川水害豫防組合建之の文字。やはり建之ですね。

ただいまブログランキング アタック中です。
ワンクリック↓をお願い申し上げます。日々更新の励みになります。

岐阜県ランキング

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする