監督:スティーヴン・フリアーズ
出演:ヘレン・ミレン、マイケル・シーン、ジェームズ・クロムウェル
『クィーン』、映画館で観ました。
1997年8月31日。チャールズ皇太子との離婚後、充実した人生の真っ只中にいた
ダイアナ元皇太子妃が、自動車事故によって急逝した。事故直後、英国国民の
関心は一斉にエリザベス女王に向けられる‥‥。
今も“あの日”のことは鮮明に覚えてる…。ダイアナ妃が亡くなった“あの日”
のことだ。いや、ボクの衝撃は、彼女が“不幸の死”をとげたニュースではなく、
それまでスキャンダル続きでバッシングの的(まと)だった彼女に対し、事件以降、
マスコミや世論が手の平を返したように、その死を嘆き、その人生を奉ったことだ。
何も今更、死んだ人の悪口を書きたくはないが、ボクは彼女に対して“美しいが
幼稚”というイメージしか持ち合わせていなかったので、マスコミを含めた周囲の
“変わり身の速さ”に正直驚いた。(ひねくれ者の?)ボクは、何でもかんでも
“美談”に仕立て上げてしまうマスメディアのやり方には辟易(へきえき)するし、
それを“売り”にした映画だって観たくない。だから、例えば、この事件を
“ダイアナ側”から描くものだったら恐らく観なかったに違いない。むしろ、その逆の
“王室側の視点”だからこそ興味を持ち、ボクはこの作品に惹かれたんだ。
前置きが長くなってしまった。そういう訳で、この映画は“ダイアナ妃の事故死
事件”を主題に置いたものとは少々違っていて、言い換えれば、それはテーマを
描く上での手段に過ぎない。映画は、それに端を発して、マスメディアの“非難の
目”が王室のエリザベス女王に向けられ、“見えない巨大な力”によって国家
全体が動かされていく様を描いている。一方、映画を観ていく上で観客は、
共通する“あるひとつの共通点”に気付くことになるだろう。それは、マスコミ対
王室、ブレア首相対エリザベス女王など、“新旧勢力の対決構図”‥‥、それも
伝統や格式を重んじる保守派に、それに捉われず新しいものに移行していこう
とする革新派の圧力だ。観ながらボクが恐ろしかったのは、新しいものを善として、
古いものを悪だと決め付ける、そんなマスコミの愚かな思い込みと思い上がりだ。
いや、そもそも女王が守ろうとしたものは“王家のプライド”とか“体裁”ではない。
もっと“エモーショナルで人間的なもの”ではなかったのか…、英国人だけが持つ
“慎み深さ”とか、何にも惑わされない“正確な判断力”だとか。映画終盤の
バッキンガム宮殿にて、亡きダイアナへの弔花を前にした女王陛下に、集まった
民衆の冷たい視線が突き刺さる。が、その中の、たった一人の少女だけが女王に
こう話し掛けるのだ、「(私が持つ)この花はあなたに差し上げるためのものだ」と。
異常な空気が国全体を支配する中で、唯一“純粋な目”を持った少女だけが、
女王への敬意を忘れなかったこの場面は“感動的”であると同時に、まるで童話
「裸の王様」を逆さにしたかのように“滑稽”だ。
そして、最後にひとつ、確かめておかねばならないことがある。では、本当の
ところ、女王はダイアナ妃を憎んでいたのだろうか。勿論、彼女の真実がどうかは
分からぬまでも、少なくとも映画ではこんなシーンがある。山道で一人、車の
修理を待つ最中、女王が野鹿に遭遇する場面だ。そして、彼女はその野鹿を見て
“何か”を思う。ボクが察するに、それは野鹿に対する“憧れ”であり、“憐れみ”
だったのではあるまいか。国を守る責任に縛られた自分とは違い、“自由”に
野を駆け回る野鹿にある種の“憧れ”を抱きながら、一方で、常にハンターに
追われ、逃げ惑う姿に“憐れみ”を感じる。その時女王は、野鹿に“ダイアナ妃の
影”を見たのだろう。そして、彼女は慌てて言う、「さぁ、早く逃げなさい」と。
もしかしたら、女王がダイアナ妃を冷たく突き放し、王室から追い出したのは、
彼女の“厳しさ”からではなく、“優しさ”だったのかもしれない。しかし、それすら
胸にしまい、言い訳も悪口も口にしない。彼女は、本当に強い女性(ひと)だなぁ。
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