ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

〔元禄10年三面記事〕【元禄世間咄風聞集 】長谷川 強校注 岩波文庫

2010年09月24日 | 〔元禄10年 三面記事〕
【元禄世間咄風聞集 】長谷川 強校注 岩波文庫

古文書を解読して当時の世相が浮き彫りにされた。
調べに調べた豊富な校注もたいへん参考になった。
元禄10年ごろのこの風聞集には、切った張ったの事件を含めいろいろと面白い。
メモしておこう。

■■ 矢の蔵の人夫捕縛
日本橋近くに幕府の米蔵があった。
火付け盗賊改の同心が出向いて船荷を運ぶ人夫のひとりを事件の下手人としてからめ取った。
ところがそこに居合わせた屈強な人夫仲間130人が俄かに騒ぎ立て、「仲間がお縄の憂き目にあうなんざあ、筋が立たねえ」と同心たちを囲み、得物でポカポカとやった。  
この知らせを聞いた盗賊改めのほうでは「ソレッ」と下知。
配下が出動
 「則百三十人のもの共不残らうしや(牢舎)仕申候」
となった。

■■ ところてん騒動
百九代名正天皇お付きの家来二人が京都河原にて「出会喧嘩」となった。
この原因はよくわかっていない。
相手を斬り殺して逃げだしたのだが、暑い最中で息が切れ ところてん屋に思わず飛び込み、喉の渇きに
「ひとつとりそのまま喰い申候」
この無銭飲食に驚いた店屋の主人は「盗人、泥棒だぁ誰かあ」と大声で叫んだ。
その声に町中から大勢でてきて「ところてんを盗み喰いとは太いヤツや」ととっちめ、番所へ突き出した。
 「其後は如何様に成申候や相知れ不申候由」の次第。
 この明正天皇というのは徳川秀忠の娘で皇室に入内した人。

■■ 関東者と中国者との喧嘩
松浦壱岐守というお殿様の前で四方山話をしていた家臣の木造勘解由が 「関東者と中国・西国筋の者とあわせ候へば、関東者は物事がつよく、中国・西国筋の者はよわく御座候」と話をした。
殿様ご退出のあと、次の間にいた中国筋出身の彦太夫が「合点不参候」とクレームをつけ、これにて口論となった。
「まあ、まあ」と脇からなだめが入って一端は治まったが、帰りになぜか同道となった二人は再び口論。  
今度は双方の家来が止めたが「実正、左様に存候や」と勘解由が抜刀して彦太夫の太腿を突いた。
もはや、手負いの身の上と弱気を見せていた彦太夫も隙を見て、勘解由の眉間に斬りつけた。
彦太夫の家来も一斉に刀を抜いて勘解由を斬殺した。
勘解由の家来の方は一目散に逃げ出したという。
彦太夫は翌日切腹となった。

■■ 磐城藩の風雨被害(原文のまま)
漁船九拾艘 
破損 内十四艘つつがなく着船
同六拾艘あまり行衛不知
同船人五百人、助り候者 并 怪我人共
同八百人あまり溺死
同七百人あまり行方不知
右子ノ六月廿七日、内藤能登守様御領内岩城にて、浦浦々出船の所に雨俄に高浪に成り、翌廿八日終日風雨つよく、入津成がたくはそんの由。

このところ、猛暑の一方でゲリラ的大豪雨も続くが、昔もたいへんだったようだ。



■■ 隅田の舟遊び
隅田川の舟遊びに女中衆の八艘が浮かんでいる。
紋がない幕を張ってなかなかに美しい。
一方、旗本衆の船もお出ましとなっていたが、運悪く
「女中船のせんどうさををふりまわし申候とて、御旗本衆へどろをふりかけ申候」
となった。
腹を立てた旗本衆が女中船に乗り移り、いろいろと毒づく。
「ぜひとも御免候へ」と奥家老らしき老人は平謝りなのだが、「ええい、勘弁ならぬわ」などとさらに激高。
年70に近いお局さんが出てきて「女中船に無遠慮に乗り、なんやかやとおっしゃておられますが、お旗本の上司にあたる人は私の内縁の人です。委細お届けしますよ」 と言うと、旗本たちは自分の船に戻った。
この原因を作った女中衆、旗本衆がどこのお方であったかはわからなかったらしい。
其の日以後、黒羽織をまとった御歩行目付(オカチメツケ)が一艘に二人づつ乗り、計10艘が隅田の水上をパトロール。
遊山船を片っ端から尋問、
「町人迄帳面に記し被申候由」
これにより遊山船は影をひそめ、
「名月にもさのみ遊山船出不申候由」
となった。

名月といえば昨日は中秋の名月。
月に叢雲花に風 か、などとつぶやきながら元禄の隅田川に思いを馳せてみた。



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