ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

〔2008年 暮らし雑感〕 川越七福神巡り

2008年01月09日 | 2008 暮らし雑感
妙善寺 毘沙門天
年の瀬に「川越七福神巡り」の記事を読み2人で応募。
1月6日。
電車乗り継ぎがうまくいかず、集合時間に大幅に遅れてしまった。
あきらめていたが駅前にシルバーガイドの方が残っておられ、一人の方が第一寺の妙善寺へ案内してくれた。
その道すがら七福神のいわれをお聞きしたが、毘沙門天など「天」がつくのはインドの神様。
福禄寿、寿老人、布袋尊は中国の神様。
恵比寿さまだけが唯一日本の神様とのことだった。
お寺で先行の4人のお参り組に合流しガイドさんを入れて計7名の参詣グループとなった。
 私より年かさのご夫婦がおられたが「百名山」登山を終え、いまだ二百名山に挑戦中とかで歩きっぷりがいい。

天然寺 寿老人
天然寺近くの高い丘でガイドさんの説明があった。
川越は武蔵野台地の北東端に位置しこの市街地を川が囲んでいる。川を越えなければ渡れないから川越となったという地名俗説もあるらしい。
外堀水路にあたる「新河岸川」から、運ばれてきた江戸の物質をこの高台に引き上げる。
 大宮のほうから旅人がやって来る時分が夜になるとこの城下町は光源のように輝いて見えた筈。
やがての地球温暖化で周囲が海中に没してもポッカリと浮かぶ島のような形になるのではないか、などなどの説明であった。
 天然寺を散策。
 ここのご本尊は大日如来で市内現存のなかではもっとも古い仏像と碑にある。
 供養墓「十三仏偕同の塔」というのが境内にあってガイドさんの説明が新鮮だった。
 死んで行く冥府初七日の旅で一番先に現れるのが不動明王様。
 我々の悪業、煩悩をすべて焼いてくれる。
ここから三十三回忌の虚空蔵菩薩登場までの間のそれぞれの忌日にはお釈迦様をはじめ、文殊、普賢、地蔵の各菩薩様が見守ってくれ三回忌には阿弥陀如来もお出ましになり業を救ってくれるといった興味深い内容だった。
喜多院に向かう道は参詣の人でにぎわっていた。
 中には「川越の町に着物姿を増やす会」という一行もあって、子供から大人まで、和服が似合い着こなしが大変うまかった。
ここにも城下町の伝統を守りたいとする気持ちがあふれているようにも感じられた。
 川越の町は古い歴史を持っているから寺社の数も多い。
 城主二十二代までのそれぞれのお殿様が郷里などかから先祖墓地を移すことによって寺は増えたのですとはガイドさんの説明。
これをお伴寺(オトモデラ)というそうだ。
 一番多い宗派は天台宗、浄土宗もあるが浄土真宗は少ないとのこと。

喜多院 大黒天
この七福神巡りは元旦から7日までの行事だそうだ。 
 喜多院は天台宗の大きな寺院で以前来たことがある。
この寺の五百羅漢の表情はいきいきとしていて、ぐるっと廻って見るだけで大変面白かったことを覚えている。
 「喜多」とは方角をあらわす「北」を天海僧正が「喜多」と名づけたそうだ。
 ほかに「中院」「南院」の方角を現す寺院もあったとのこと。
 ここにあった日枝神社は太田道灌が江戸城の守護神として川越日枝神社を建てたとのことで、神社が江戸時代には徳川家の氏神とされたので、こちらのほうが本家筋であり東京赤坂にある日枝神社より伝統があるとのことだった。
 「小江戸名所めぐりのバス」でもここだけは無料のガイドで案内してくれるとのこと。
喜多院の寺領は5万坪ほどあり天海僧正の権勢というのがあらためてしのばれた。

成田山 恵比寿天
喜多院の山門を出て北側すぐのところに成田山があった。
 地元では「亀のお不動様」として慕われ千葉の成田山新勝寺の不動尊のご分霊が安置されているとのこと。
 ここを抜け連繋寺へ向かう途中に戦前の繁華街だった「大正ロマン通り」という町並みがあった。
 川越は空襲など戦災を免れた為、昔の街並や寺院などがそのまま残っているようだ。
 私が住んだ城下町でもあった土浦の街並みに似た一角がそのまま残っている感じで懐かしかった。

連繋寺 福禄寿神
 ここは、戦国時代の川越城主のご母堂が創建した「女寺」だったとのこと。(写真)
 明治26年の大火でここの山門や諸堂は燃え落ちたが、水舎と鐘つき堂の2つが残ったとのこと。
 呑龍様で親しまれるこの境内にある鐘は今でも午後3時になると15の鐘を鳴らしこどもに時を知らせているそうだ。
貧家の子供達を寺に預かって、勉学の機会を与えた子供好きな呑龍様と今の時の鐘は無縁ではないらしい。
昨今、デジタル仕掛けで無人の鐘を鳴らす寺院が多いとの風潮のなかで、人を雇って日々おやつの時間に鐘を鳴らしているということはこのお寺のゆとりと格式を感じた。
 正月の6日頃までこの寺では七草粥の七草をセットにして分けてくれるとの話も聞いた。
境内広場では「昔はここでサーカスもやっていたのよ」とガイドさん。
 毎月8日は縁日で市民参加の市でにぎわうそうだが、境内では辻講釈を楽しむ会の張り紙もあった。
水舎の欄間彫刻はすばらしかった。
 境内脇を抜ける細道が次の寺社への近道と教わった。 突然、道路沿いに昔の邸宅風が現れたが、これが小泉八雲の別邸だそうだ。「これは今日の案内には入っていないのですが」とガイドさん。
いまでは中央公民館分室として開館しているそうで連絡は公民館にすれば中に入れるとのことだった。

妙昌寺 弁財天
 くねくねとした道を進みこちらかと思うとそこは「特別養護老人ホームよ」とうしろからガイドさんに声をかけられた。
 ここに入るのにはまだ早く、けれどもいづれは行く道か、などと思った。
ここの弁天様はお寺の歴史より古いそうだ。 室町時代の地頭がすでに弁財天を守護神とて祭っていた。
大田道灌の川越城築城の際に方角が鬼門除けの位置にありということで道灌もこの弁財天を崇敬していたとのこと。
 弁財天は一面八臂という珍しいお姿ですとの説明もあった。
 寺のすぐ傍に川があり、鯉もゆったりと泳いでいる浅い川だったが水は清んでいた。
毎年土用の丑の日に頭の百合ツボに焙烙の皿を載せ灸をすえ、無病息災、身体健全を祈願するイベントがあるのもこのお寺。
 背中から足の先までホカホカと温かくなるとのこと。一回やれば2000円で毎年案内が届く行事との体験談もガイドさんから聞いた。

見立寺 布袋尊
 ここの布袋さまは両手で月を仰いでいることから「月見布袋」と慕われている。
 この寺の建立は延宝年中(1670年代頃)。関が原の戦役後10年くらいの歳月にあたるから古いお寺のひとつなのだろう。
 徳本上人の曲線的な面白い字体名号碑もあった。
 これで全行程6キロの七福神巡りは満願となった。
このウォーキングで「小江戸」の別名を持つ川越の雰囲気を味わうことはできた。
 本日のガイドさんはジッタンより年上の姉さまだったが、口も脚も達者な人で、なによりも地元川越が大好きだからこの仕事を続けている人のように見受けた。
こうした川越市のシルバーガイドさんは30人弱の構成だそうだが、人にも行事にも狎れず、きわめて親切で大変気分がよかった。
また来年もの気持ちも湧いた。
 別れたあとは近くの観光スポット「菓子屋横丁」に寄り駄菓子やお団子などが並ぶ狭い店先と人の波から幼稚園の孫へのお菓子を探した。
 約束していた義妹とここで会い駅前で会食をして別れたが、結局、帰路は本川越まで歩いた勘定にはなる。
 いささか疲れはしたが古い商家の軒並みが続く川越の町を歩くと雑踏の中でもなんとなくほっとするものがある。
 川越は賑わいのあるなかでも落ち着けるいい街だ。



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