ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

〔08 暮らし雑感〕 高校野球と石田君

2008年07月21日 | 2008 暮らし雑感
いま良文君の胸中は悲しみでいっぱいだと思う。
 以下の記事を読んで同情を禁じえななかった。
 読売新聞  2008年07月16日 朝刊
石田文樹氏(プロ野球横浜の元選手)死去 KKと対決、全国制覇  
 石田文樹氏(いしだ・ふみき、登録名・大也=ともや=プロ野球横浜の元選手)15日、直腸がんで死去。41歳。告別式は18日午前10時、横浜市港北区菊名7の10の8新横浜奉斎殿。喪主は妻、寿美江さん。
 茨城県出身。1984年、夏の甲子園決勝でPL学園の桑田真澄投手(元巨人)に投げ勝ち=写真=、取手二高の初優勝の原動力となった。日本石油を経て、88年のドラフト5位で横浜大洋に入団。通算25試合で1勝0敗、防御率4・59。94年に引退し、今季の開幕直前まで打撃投手を務めていた。
 桑田真澄さん「お見舞いに行こうと話をしていたんです。長く打撃投手をやられていたので、現役時代にお話しすることが多かった。お前は長くやっているなあ、と言われました。同じ時代を戦った仲間として、高校時代を懐かしがっていました」

石田良文君は石田文樹の父親である。
いまから40年以上も前、父親の彼は茨城高校野球でも屈指の高校に入学。
良文は地元の中学で活躍した投手で、野球部に入部したがすぐ肩を壊してしまって野球をあきらめざるを得なかった。
その後は卓球部に入って活躍していた。
彼と私は同じクラスで3年間を一緒に過ごした。
真面目で成績もよく、うまもあった。
卒業後の彼は筑波山を目の前に仰ぐ地元の役場に勤めた。
一度遊びに行ったことがあるが、「いま子どもらに野球を教えている」と言っていた。
肩を痛めてできなくなった野球が、もともと大好きだったのだろう。
その教えている子どもの中に自分の息子の文樹君ももちろんいたはずだ。

卒業後、互いの進路が違って20年余を過ぎた。
時々、賀状を交換していた。
1984年の春だったと思うが、職場の休憩室で寝転んでスポーツ紙を読んでいたときガバッと飛び起きる記事があった。
取手ニ高の春夏甲子園出場とナインの紹介。その投手石田文樹に関するものでこれには驚かなかったが、父の石田良文氏談の記事には目を見張った。
良文、なに石田?! まさに彼だ。
その夜、電話をしてみると、やはりそれは彼だった。
「おい、トンビが鷹を生んだな」などと冷やかしたのを覚えている。
この年、彼の息子はどえらいことをやってのけた。
桑田真澄、清原和博を擁する常勝PL学園を延長10回の末、8-4で破って全国優勝を果たしたのだ。
石田文樹は前年の1983年春、84年春・夏と甲子園にエースとして出場し活躍した。
彼の豪腕がなければ全国優勝は果たせなかった。
この年はグリコ森永事件があったり、ロス五輪で柔道の山下が金メダル獲得した年だった。
私もこの年の秋、20年余をつとめた新聞制作部門から編集局に移った。

木内監督のことも語っておきたい。
私の兄は当時、N商業デザイナーの内弟子として修行中だった。
この家が、取手ニ高のすぐそばにあって、よく硬球が飛び込んできたり、ガラスが割れたりしたことを兄から聞いていた。
二高は男女共学だが女子高校として名前が通っていて男子はわずかだった。
校長が男子生徒は男らしく育てたいというようなことで木内さんが土浦一高から招請されたというようなことを聞いたことがある。
木内さんの就任は昭和30年代だから古い。
私と石田の高校の頃は県南での強豪高としてかなり知られていた。
取手ニに就任して20年後に甲子園で一勝して木内さんは一笑した。
そして84年の快挙となったわけだ。
木内さんの家はたしか土浦の鷹匠町か築地町あたりで下駄屋さんの家だった。
でも木内3兄弟と言われ兄弟そろって野球で活躍していた。
一番末子が安幸君で彼は私と中学3年の時、同じクラスだった。
投手をやっていて、県大会で準優勝した経験もあり、取手ニの投手コーチをしていたようなことを聞いたこともある。

良文君の心中を察しているなか、また新たなニュースが目にとまった。
良文君のお孫さん、そして文樹さんの長男が今回、投手として地方大会で投げていたのだ。しかも父の死の翌日。


読売新聞     2008年 7月17日
    全国高校野球地方大会16日の記事

 ◆「父が見ている」石田2世力投 
 1984年夏の甲子園優勝投手で、15日に急逝した元取手二のエース、石田文樹氏の長男、川和の翔太投手(2年)が2回戦で先発し、五回途中まで投げ、勝利に貢献した。背番号「20」ながらエース。目にうっすらと涙を浮かべ、「父はきっと見守ってくれていると思う。勝てて良かった」。通夜を17日に控えての登板だったが、「おやじは絶対に行けと言うと思った」。


そして翌日の読売夕刊コラム。

   2008年7月17日 
    [よみうり寸評]
     「父はきっと見守ってくれている」――神奈川県立川和高2年の石田翔太投手はきのう、そう思って先発登板した。五回途中まで投げてチームの勝利に貢献した◆川和8―5霧が丘。前日の15日に父を亡くした悲しみをこらえて、全国高校野球北神奈川大会2回戦を勝ち上がった。「おやじは絶対に行けと言うと思った」とも言う。そのおやじは41歳の若さで亡くなった文樹さん◆プロ野球・横浜ベイスターズの打撃投手だ。というよりも、石田文樹は1984年夏の甲子園の優勝投手、取手二高(茨城)のエース◆KK(PL学園時代の桑田、清原)を倒した男と言った方がいい。桑田と清原が3度出場した夏の甲子園でただ一度だけ敗れた相手の早世を悼む◆小さいころからキャッチボールの相手をしてくれた父、その父と同じ投手を志した息子。父の死の翌日の登板を息子は生涯、決して忘れないだろう◆さまざまな父子の姿がある。子を教員にするため贈賄までした親、親に叱(しか)られてバスジャックした子……随分違う。

今夏、木内監督もまた甲子園を目指して燃えている。
文樹君の御子息の石田翔太君もまたその一人だろう。
熱い白球の闘いの歴史のはじまりであり、ある終わりの夏だ。
でも、良文君よ。俺たちは忘れない。
桑田、清原がいたあの逆転PLを破って真夏の青空に真紅の優勝旗を掲げた取手ニ高の栄光を。
その投手石田文樹の活躍を。

                                   合掌。





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