ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

【朝鮮半島をどう見るか】木村 幹 集英社新書 

2005年10月16日 | 2006 読後のひとりごと
【朝鮮半島をどう見るか】木村 幹 集英社新書   

筆者は四十代の気鋭の神戸大助教授。
植民地支配をめぐる日朝の「わるいことをした」「いいこともした」の歴史観や論争がいまだに繰り返されている議論は無駄だからやめろと提唱。
この議論の原因は日朝が植民地支配の最終章をともに栄えある形で迎えられず、「和解の儀式」が未完のままに今日を迎えた関係にあると指摘。
 北朝鮮よりも極貧国はアジアにもいまだに存在し、脱北者の現状も他国の難民ベースの次元であって一国の崩壊前夜の姿ではない。
戦前の「3・1」独立運動など朝鮮の民族独立闘争や民族運動には永続性がなく、その挫折が積み上げられるたびに日本側への「恨」も積み上げられてきた。

 一方、日本側の敗戦実感は米国の連合国に負けたのが実感であり、朝鮮の植民地支配打倒の闘争によって敗戦の日を迎えたという感覚はない。
朝鮮のほうも独立闘争があって晴れの解放の晴日を迎えたわけではない。
朝鮮半島に見られる強い民族意識と小国意識の同居する精神風土を戦前の台湾の反日闘争との比較などから、うまく言及した。  
いわば在来のステレオタイプで日朝間の歴史を観るなと主張しているところが新鮮で、われわれとの世代の捉え方の違いを感じた。

 中高年主婦から若い女性を巻き込んだヨン様という韓流ブームが一方にあり、一方には靖国・竹島問題などの緊張問題もある。  
古代、朝鮮半島からの渡来人があって日本の文化は育ち鎖国時代には朝鮮通信使はことごとく敬われ、明治に征韓論が生まれ、戦前の植民地支配の歴史の流れで、日朝歴史問題の論点を整理し双方の認識のズレを埋めるのは容易なことではない。
 テレビでも北朝鮮をはじめ朝鮮半島をめぐる話題には日々、事欠かない。
近親の匂いがする近い国から一歩距離を置いて世界の一国に過ぎないというクールな観方の論議をすべきと著者は提唱しているが、朝鮮半島の人々から見て受け入れられるかどうか、痛みを経験し共有している民族感情からするとなかなかに難しい問題ではないだろうか。

  ジッタン自身は40年前に日韓条約反対闘争で国会へのデモ隊に身をおき、流れ解散の新橋の酒場でその理屈も若い仲間と追求していた。
ただそれから20年たっても、在日の知人から「戦前の誤ちを認めて謝れ」と論議中、詰問にあった。
いつまで謝り続けるのか、われわれの世代を超えて孫子の代まで続くのかという点でこの論議の不毛さも感じ辟易もした記憶も残っている。

一方で司馬遼太郎と在日の知識人との交友、論議は今より冷静で深みがあったように思う。
ジッタンは1944年生まれでこの本の筆者は1966年生まれ。 
新たな世代から日朝の歴史観と今後の論議に一石を投じたという点で前向きな評価ができる本と思う。

向後の活躍を願う次第。

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