ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

〔07 読後の独語〕 【大江戸世相夜話】 藤田 覚 中公新書 

2007年12月13日 | 2007 読後の独語
【大江戸世相夜話】 藤田 覚 中公新書 

 「そんなに会いてぇなら会わせてやる。この桜吹雪に見覚えがねぇとは言わせねえぜ」と片肌脱いで白州の下手人ををぐっとひと睨み。
「この桜吹雪が目に入らねえか」そして「この件、一見落着ぅ」と決め科白を放って芝居はチョンとなる。
 この金四郎の遠山桜、古くは片岡千恵蔵から杉良太郎、高橋英樹、松方弘樹らが次々に演じた。
遠山本人は気分がいいだろうが周囲の木っ端役人らは胸中「また、やってるよ」と思いつつも、その大見得を黙って見守っている。
 この本によれば金さんの刺青には「桜吹雪」、「女の生首」の両説があったようだ。
私の育った昭和20年代の土浦市内には銭湯が4つあった。
その 脱衣場でよく刺青をしたアニさんたちと出あった。
今と違って「その筋の方、お断り」と彫り物を敬遠するような空気は当時の銭湯にはなかった。
 その紋々の中に、肩から肘までにかけて「女の生首」を彫った男がいて湯上りの身体で坪庭の前で涼んでいたことを、いま突然思い出した。
 少年だったから「気持ち悪い」と思いながらその生首を眺めた。
この刺青、金さんと同じだったかもしれない。
当時の土浦の各町にはテキヤと呼ばれた香具師が多かったこともあってか銭湯での刺青は珍しくはなかった。

私は結婚するまでの数年間を東京巣鴨の姉の家に寄宿していた。
 窓を明けると広大な墓地が見えた。
ここのお寺は本妙寺という。
この墓地の一角に遠山左衛門尉景元の墓があった。
まぎれもなく、金さんの墓だ。
 もともとこの本妙寺は幕閣の久世家の庇護なども受けた格式の高い寺で、明暦の大火があったときは本郷丸山にあった。
 種々因縁の振袖を当寺の僧侶が焼いた時、突然の強風があったのがもとで江戸の大火「振袖火事」となったとも言われている。
寺を 庇護していた久世家は下総関宿の城主で初代の広之、四代の広明、幕末の七代の広周は老中職をつとめた。
 私の曾祖父が関宿藩士だったこともあって目の前にあった久世家歴代の墓があるこの本妙寺は懐かしい。

さて金さん。
 天保年間に北町奉行、後に南町奉行を務めている。
 ひとりで南北奉行を交替した経歴は金さん以外にはないのではあるまいか。
 天保の改革で水野忠邦の腹心となった強行派の鳥居耀蔵は当時、南町奉行で北町の金さんと対立。
 綱紀粛正、倹約令、風俗取締り、歌舞伎への迫害などで鳥居の市中取締りは苛烈、を極め、江戸町民から反感をかって陰で妖怪と呼ばれた。
 一方の金さんは芝居小屋を廃止しようとした水野に反対して、浅草猿若町への小屋移転だけにとどめたことなどから人気を呼んだ。
 でも実際は、金さんの部下だった飛騨郡代に頼んで時価20万円もの熊の胆を送ってもらったりもしていることもあって、そう人並み外れた人格ではなかったようだ。
 名奉行の条件とは上手な人形遣いであると同時に「操られた人形」でいることを自覚し部下を巧く使うことでもあったとされる。
 与力50人、同心280人が奉行の配下。
探索の人手が足りないから同心が禁止となっている目明しを養っていることにも目を瞑る。
 目明しは「御用聞き」とも言われたが配下に手下を持った博徒、テキヤの親分がなっていることが多く、「二足のわらじ」組の連中だ。
 彼らに渡った金は悪所の過料銭(罰金)などであったらしいとこの本にある。

この本をきっかけに意外な血筋を発見した。
 天保8年(1837年)、モリソン号事件というのがある。
 アメリカ商船が日本人漂流民を送還して通商を開くために浦賀に来航。
幕府は異国船打払令にのっとって、砲撃してこれを追い返した。
崋山、長英らがこれを批判して蛮社の獄につながっていく。
 この漂流民に対して「賤しき民衆もわが国民である」とし打払令を弾力運用すべきと主張した人に儒学者・林述斎がいる。
 この時期に「国民」の概念を提示したこの人は昌平坂の別邸を幕府の学問所とした人でもあるが、この述斎の四男が鳥居耀蔵で、三女が生んだ子が岩瀬忠震となる。
天保の妖怪と幕末三傑の一人英明な外交官の岩瀬は伯父、甥の関係だったのだ。
意外な血筋発見は寡聞少見の故だが、だから歴史はまた面白い。

この本には北海の鱈のごとしと言われた将軍様も取り上げられている。
将軍在位40年 、大奥の側室40人、為した子どもは55人。
「ほかにやることはないのかッ、」
といいたくなるようなお殿さまは、徳川家斎。
 こうした殿様を篭絡させ権勢を誇ったのが側近中の側近の中野碩翁。 碩翁は将軍と閨縁の威もあって隠居後も家斉の話し相手になっていたそうだ。
魚心あれば水心で諸大名や幕臣、商人から莫大な賄賂が彼に集まった。
本所向島に豪華な居を構え、贅沢な生活をしていたが鱈将軍が死ぬと天保の改革で登城禁止され逼塞した。

この本の副題に「奉行、髪結い、高利貸し」とあって時代とそれを彩る世相が各章でとりあげられ、 手慣れた歴史エッセー集となった。
大変読みやすかった。
また出典によく引かれていたのが「守貞謾稿」
江戸時代の風俗、事物を説明した一種の百科事典だそうだが、起稿はモリソン号事件の1837年(天保8年)で、約30年間書き続けて全35巻となった書物とのこと。
機会があれば、眺めてみてみたい事典だ。
                   ( 2007年 12月11日 記) 


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