ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

〔07 読後の独語〕 【映画は狂気の旅である】 今村 昌平 日本経済新聞社

2007年12月07日 | 2007 読後の独語
【映画は狂気の旅である】今村 昌平 日本経済新聞社

 本のあとがきを息子が書くというのは珍しいケースではないだろうか。
そこに、次の一文があった。

「息子が言うのも何だが『今村映画は面白い』」

 「理性的で生真面目な合理主義者で、しかし金儲けが下手な理想主義者でもある。
勤勉であり、女と冗談を好み、甚だ諦めが悪い。
大食漢だが快楽主義者ではなく、毒舌家だがお人好しだ。
豪傑ではなく小心の見栄っ張りだ。しかしいざという時の度胸はある」

 。
 これを書いた人は脚本家、映画監督で天願大介、本名を今村大介という。
これにまさることばはない。
 実子は父をよく見ている。
今村昌平監督は1926年生まれだから私なんかとふた周りの年齢差がある。
 この年齢差が大きい。
 ヒロポンあり、カストリ焼酎あり、星の流れに身を占った売春婦もいた戦後の闇市を直に体感できる世代で、昭和19年に生まれた我々の戦後世代とはそのリアル感の点で、ものが違う。
 今村は東京・大塚の耳鼻咽喉科の末っ子として育った。
俳優の北村和夫は小学生からの親友で早稲田の同期生。
早稲田の演劇青年のグループには小沢昭一、加藤武などがもいた。輪読会で荷風の四畳半襖の下張りなどを朗読していたという (【今村昌平伝説】香取 俊介 河出書房新社より 2004年7月12日 読了) 私の身の回りで今村世代を想いおこすと、遊郭から会社へ通っていたという印刷や活版の職工も社内にはいた。
遊郭時代には「抜かずの平六」と豪語していたパワフルな男がいて、戦後の有名な争議後の労組の初代青年部長をつとめた。
 のちに私の上司となってよく喧嘩もし酒も飲んだ多田進という男なのだが本名は呼ばれず「平チャン」とか「ヘイスケ」と陰で呼ばれたが嫌がってもいなかった。
平助を逆に読めば助平ということになる。
リタイア後、酒から来る糖尿病がもとで全盲となり平成16年の5月に亡くなった。
 今村監督も糖尿病だったようで、戦後、新宿の遊郭に入りびたりになったりしたことで共通点が昔を思いださせてくれた。
 また「昌平」をフランスの新聞リベラシオンが「助平じじい」として作品を褒めてくれたということが文中にあった。
今村作品のこっけいさ、偉大さ、純粋さへの大きな評価の表現だったようだ。

 私の大好きな映画は幕末太陽傳であるが、このとき今村は川島雄三の助監督をつとめシナリオを共同執筆している。
「幕末太陽傳」は落語「居残り左平次」に題材をとって江戸前の笑いを堪能させてくれた。
 今村が師と呼んだ川島雄三は一方で「雁の寺」や「貸間あり」などの文芸映画も手がけた。
 今村の笑いは川島の笑いに対して重喜劇といわれた。
 この重喜劇の礎は、借り物でない猥雑な空気に育ちながら、その猥雑さの中の人間模様、悲喜劇の記憶を映像世界に取り入れた点にあったと思う。
 安本末子という10歳の少女が綴った日記「にあんちゃん」がラジオドラマになって人気となっていたがこの「にあんちゃん」を今村が映画化した。
この映画で文部大臣賞を受賞すると、今村はそれに反発するかのように60年安保の年に「豚と軍艦」を作った。
 基地の町、横須賀のドブ板通りを舞台に暴力団チンピラ欣太(長門裕之)が養豚に手を出す物語。
ラストに近いシーンで豚の大群が押し寄せる中に、小沢昭一、加藤武が逃げ惑っていた鮮明な記憶が今もある。
 恋人役に吉村実子、暴力団組長に三島雅夫が配されてこの映画が重喜劇のスタートになった感じだった。
 この映画を評したのか 「汝ら、何を好んでウジ虫ばかり書く」と巨匠・小津安二郎が信州の別荘で酒杯の席で今村に言ったそうだ。
かっての師匠のことばに今村は反発。
 「このくそじじい、上等だ。おれは死ぬまでウジ虫を書いてやる」と心中に誓ったことがのちに傑作の数々を生むことになる。

 「復讐するは我にあり」を別にして、「豚と軍艦」「赤い殺意」「にっぽん昆虫記」などは銀座並木座で見ている。
並木座は新聞社のあった旧社屋から数十歩の距離でよく通った映画館だった。
「國のため 家のためにと 働けど今はひとり日記つけてるぅ」と、とめを演じた左幸子の表情が浮かんでくる。
 「赤い殺意」ではその主人公のイメージを探すメモが文中にあった。

「中肉中背、色白、モチハダ、男好きのする顔。母性的。ヌルイという印象。○○よし。水分多し」で「愚鈍と無知」。

こうして選ばれたのが春川ますみだった。
 並木座でそれらを見た頃の私は労組の青年闘士だった頃で、性を基軸にして社会と歴史を描こうとしてるかに見えた今村映画にある種のいらだちと抵抗とそれでいて魅力も感じていた。
 今村は1975年、「横浜放送映画専門学院」を開校。
浦山桐郎、小沢昭一、北村和夫、水上勉、淀川長治ら20人以上がこれに賛同した。
10年後に学校を百合ヶ丘駅に移転させ「日本映画学校」を設立。
映画作りに寄せたこの情熱は並のものではない。
俳優科には農業実習を必須としている。
「狂気」の旅は映画作りへの純粋真摯な姿勢の旅と映る。 


 後半、名作とされた「黒い雨」などは、見ようと思っていてすれ違ってしまい未だに見ていない。
読後、今村作品上映特集の機会があれば、上京してでも見たいという気分にさせられた。(2007年 12月5日 記)



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