ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

【鳶魚と江戸歩き】 江戸雑録 三田村鳶魚 中公文庫

2012年05月11日 | 鳶魚と江戸歩き
「江戸」を学ぶならどうしたものか、と先輩の整理記者に聞いたことがあった。
「そりゃあ、鳶魚がいいんじゃないか」とのことだった。
あれから30年。
鳶魚江戸文庫というのがあり、漏れなく県立図書館に所蔵されていることを知って取り寄せてもらった。
今後、ぼちぼちと読んでみたい。



江戸雑録 三田村鳶魚 中公文庫


● 若旦那の貰い返しに汗を掻き
遊女との心中などでさらし場に晒された町屋の若旦那。
の手下となり身分は乞食となるが、「貰い返し」というのがあったことをこの本で知った。
町家三人が大鍋に湯を沸かし若旦那の身体を洗って清める。
二度目に着物を着せ小屋頭に五十~百両を包み放免となったそうだ。


■■ 御家人
● 俸禄は家来であるとの身の証
俸禄は主君への勤労に対する報酬ではない。
家禄と職禄を合わせて俸禄という。
先ずもって家来であることが重要で、君臣の関係で俸禄が出される。
家臣は時にはいのちがけでお家と主君に仕える。
この本では棒禄が勤労と報酬の関係でないことがいくたびか強調されていた。

● 笠張や提灯張りから金魚まで
藩士は国許から物価の高い江戸住みを命じられると二重生活になり多大な出費を強いられることもある。
御家人は俸禄が少なく拝領地や組屋敷の空き地を耕し植木、草花栽培を行う。
それぞれの地域特性を活かした武士の内職が定着していったようだ。
定例三番勤めとなって三日目に1日の休暇がありその日を活用した。

染井 雑司が谷 大久保 植木
麹町          版彫 板下書き
四谷          傘張り
青山          提灯張り
下谷          金魚
代々木         虫飼い 小鳥飼い 



■■ 町家
● ぼたもちを配る気配りお付き合い
江戸町内には湯屋も髪結い床も一つある。
誕生も結婚も葬儀も聞きつけてそれぞれ回礼を交わす。
町内のつきあいが悪いと、夏祭りに神輿を担ぎこまれる家もでた。
こうした風習はどこでもあったようで、私が住んだ土浦の町家町でも祭りの時は軒先を壊されない様にご祝儀などの気配りをしていた光景を未だに覚えている。

■■ 裏店
● 路地奥の突き当たりから匂う風
町内の裏側に裏店(ウラダナ)がある。
同じ木戸がありどぶ板で隣を分けている。
突き当たりに共同の雪隠があるが、風呂はない。
棟割長屋となっていて畳六畳ほどの広さで各家は仕切られた。
そのうち約1畳半は土間、4畳半を部屋としていたから狭い。
狭いながらも生活の場を共有していた人情は濃厚だったらしい。



■■ 街道往還 川止め
● 早馬は大名衆に限られ
武士はもとより民衆は厳禁。
馬は使えても早馬は使えない。
江戸・大坂間を毎月3回定期的に往復した飛脚。
三度飛脚と言ったそうだ。 
江戸→京都までは10日の所用日程。

■■ 川止め
同じ川止めでも大井川には特別な意味があったようだ。
ここは遠江と駿河の国境であり駿府城の外堀の役目を担う。
橋や船による渡しは禁止。
「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」
川札を島田、金谷の川会所で買い、川越人足に手渡しし、人の肩や連台に乗って渡っていた。
増水になれば川止めとなり最長は1か月にもおよんだという。

● 増水の六郷、馬入、富士、興津
大井川だけではなかった。
東海道の多摩川こと六郷も、馬入、富士、興津、安部川も雨で増水となればいづれもも加わる。いづれも増水ニ尺で馬越しはストップ。
ニ尺以上は川越禁止。
三尺増水となれば徒渡り、船渡しができない。
東海道の六郷川(多摩川)、富士川、天竜川は渡船ができた。



■■ 旅
文庫にあった文を抜く。

「東都近郊図」 文政8年刊行 江戸人の遊歩圏

此図ハ江戸ヲ中トシテ、東ハ、小金、舟橋、南ハ、羽田、神奈川、西ハ、府中、日野、北ハ、大宮、岩槻を限り、山川原野、神社仏寺、名所古跡ノ類、数日ヲ費ヤサズシテ、遊覧スベキモノヲ、図シテ遊行ヲ好ム者ト便トス、元是大概ヲシルセル図ナレバ、堂社の方位、川流ノ広狭、其真景ヲ得ズ、小社或ハ用水ノ如キニ至テハ、略セシモノアリ、観者宜シク斟酌スベシ。

 岩槻には住んだことがある。
 ここや日野が江戸中央から七里、遠いのが九里余り。
 この頃は一泊、二泊のコースだが、嘉永元年の図には、「この図江戸をもって中央となし、方十四五里を限る、と標記してある」そうだ。
江戸人の出足が伸び数日を要する旅が流行ったらしい。

「江の島、鎌倉、筑波山、香取や潮来にてうし、取寄られる成田へも、わざわざ三日の暇費し、妙義、はるなに、富士、大山、ずっとのしては京大坂、やまとめぐりに、伊勢、さぬき、遊び七分に信心三分」(「大山道中膝栗毛」 歌川 芳宗
仮名垣 魯文)


● 瓦版 その名由来の新聞も
よみうりという瓦版由来を使ったアニメ調のCMがあった。
瓦版は新聞以前の新聞、言い換えれば新聞の元祖と鳶魚は指摘。
「子安峻が「讀賣新聞」という名をつけたのは、私は(鳶魚)は非常に面白い」としている。
鳶魚が描いた当時の新聞配達の様子を抜く。

竹で編みました饅頭傘、黒木綿を覆ってあるやつを被り、真田の紐を顎で縛っております。着ている法被には、新聞社の名が書いてある。
足には草鞋を穿きました。黒塗りの箱。鋏箱と同じ形をしたものーー後側に何新聞と書いたやつを担いでいました。
担いだ棒の先に鈴がついていて、チンリンチンリンで配達して来たものなのです。


★ いいこえを三味線堀で鼻へきき/川柳
 今の国技館の対岸あたりに西に入る水路があった。
今のJR御徒町駅の東側あたりにあって、そこが舟溜りになっていた。
ここを三味線堀という。
常に葛西船が、集めた糞尿を取り込んでいた。
「いいこえ」は双方を掛けている。

拙稿ブログで
【小松菜と江戸のお鷹狩り】江戸の野菜物語 亀井 千歩子 彩流社
をメモしたことがある。
和田倉門の水落とし辰の口から糞尿、塵芥を船積みにして日本橋川から隅田川 → 小名木川を経て葛西に運ばれる。
江戸市民のものも薄い板戸を帆にした船で運ぶ。葛西ではなく「クサイ」匂いはどこでも同じ。これを葛西舟と言ったそうだ。

鳶魚文庫からこの葛西舟のメモ

葛西権九郎 

日々辰之口に船二艘課懸りて、御城内ごみ芥を積て、葛西に送る。
「明良帯録」


葛西権四郎 御成先不浄を掃除す、辰の口へ船三艘を繋置手、御成不浄を日そろ河岸へ送る。


「長局の下掃除は葛西の権四郎の承りで、葛西から掃除に来る度ごちに、添番と伊賀者各一人が立ち会って、汲み取らせたと聞きました。葛西の権四郎は、御本丸の肥取ろでです。
有名なはずであり、それから肥取ろ全体を、葛西と覚え込むように成り行ったのに、無理もない。」と鳶魚




■■ 犬
● 唐犬を連れて家光狩を為し

寛永七年 家光が川越へ狩猟 「榎本弥左衛門覚書」

上様、川越へ鹿狩に御成なり、とうけん数多参候、此飼犬共を、朝晩高沢川ばたへ引出し、川入などなされ候、大分待ちを通り候時、かみやい、おびただしくほえ候間、町を通り候はヾ、くわれ申すべきかと、あぶながり人通り兼候。

将軍はじめ諸大名も荒犬を連れあるくので、庶民は頗る危険を感じた。
単なるワンコロではない。
犬とは言わず、御犬で大変な遠慮が必要。
綱吉以前に御犬という存在があったことははじめて知った。


















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