ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

【2012 暮らし雑感】【東電福島原発事故総理大臣として考えたこと】 管 直人 

2012年11月27日 | 鳶魚と江戸歩き
【東電福島原発事故総理大臣として考えたこと】管 直人 幻冬舎新書

原発事故初動時に総理が官邸を離れて福島現地に飛んだというニュースをみた時は唖然とした。
国のリーダーとしてのあるべき姿ではないだろう、と腹が立った。
トップの政治的パフォーマンスなら許されない愚行と思った。

しかし、今回この本を読んでその認識を変えた。
東電トップと現場との驚くべき齟齬、そのコミュニケーション不一体のひどさ。
加えて保安院の機能不全状態。
飛んだことは、やむを得ぬ対応だったのかも知れない。

千年に1度とされた未曾有の大地震、大津波、そして原発事故の三重苦に対処するにはトップとしての個人的資質と力量がかなり問われてくる。
原発事故に対する科学的な知見、洞察力、決断力がトップに位置する人間に求められることは当然だ。



3・11
ならばあの時、トラストミーのあの首相だったらどう対応していたか。
また
「このような未曾有の大災害にあって本来、政治家が真っ先に立ち上がらなければならない筈ですが、実は小沢は放射能が怖くて秘書と一緒に逃げだしました。岩手で長年お世話になった方々が一番苦しい時に見捨てて逃げだした小沢を見て、岩手や日本の為になる人間ではないとわかり離婚いたしました」と妻から離縁状を書かれた人が、もし総理だったらどうだったのか。

また自民党の良識人・谷垣だったらあの激烈な事故後の1週間に何ができただろうか。

この本は管直人の自分史の一断面でもある。
各方面からの事故初動対応での批判に対する彼の言い分と首相としての反論でもある。
自分史はどうしても自分に身びいきになるから、そうした面をかなり割愛して読んでみても是非、一読を薦めたい一冊になっていた。

私も3・11は埼玉で震度6の烈震に見舞われ、原発事故の建て屋爆発の報道には固唾を呑んで見守った一人だ。
私とほぼ同年齢の総理があの1週間に何を考えどう動いたか。
それが書かれてある。

事故発生時、アメリカは原発から80キロの範囲からの退避を在日米人に指示していた。
また各国の大使館が関西への移転を検討しはじめたことはテレビで知った。
80キロ避難の判断は何に基づいたか。
あの時、私は杉戸と福島原発の間を220キロ相当とし、ここまでは到らないという思いだった。

一方、菅は青森を除く東北各県と首都圏と関東の大部分を事故被災の対象としてシュミレーションをしていたという。
この頃、管の脳裏には数週間で5000万人の避難を想い浮かべていたと書かれてある。
5000万人の避難などまるでありえない。
それが現実として起こったとすれば、生き地獄となっていたろう。
日本の40%強の人が放射能被災からあちこちに逃れるわけだ。
想像を絶するものがある。


事故後の3月25日に作成された文書が紹介されている。
文書は菅の要請で内閣府の原子力委員会の近藤駿介委員長が作成したもの。

 水素爆発で1号機の原子炉格納容器が壊れ、放射線量が上昇して作業員全員が撤退したと想定。注水による冷却ができなくなった2号機、3号機の原子炉や1~4号機の使用済み燃料プールから放射性物質が放出され、強制移転区域は半径170キロ以上、希望者の移転を認める区域が東京都を含む半径250キロに及ぶ可能性があるとしている。」
タイトルは
「福島第1原子力発電所の不測事態シナリオの素描」
というもの。
飛散放射能の影響は数週間かかって南下すると想定しているらしいが、この恐怖から逃れる術があったろうか。

現在、このシナリオが事故の公式文書として残ることに決まっているらしい。

事故後、被災した富岡町の人たちが杉戸町にも避難してきた。
近くの加須の廃校となっている高校がいま双葉町の役場となっている。
その後の放射線測定が茨城、栃木、埼玉など今でも行われている。
原発事故と影響は遠い存在ではない。
幸いに首都圏避難ということにはならなかったがその危険性は紙一重だったようだ。

管首相は
「もしベントが遅れた格納容器が、ゴム風船が割れるように全体が崩壊する爆発を起こしていたら最悪のシナリオは避けられなかった。」
としている。

彼がイラ管に変身したのは、保安院からはなんの事故提案も上がらず、一方で東電が撤退の方向であることを海江田大臣などから報告されたからだ。
事故から4日目。
14日夜から15日の明け方にかけて彼は東電に乗り込み、怒りをぶちあげる。

「日本がつぶれるかもしれない時に撤退はあり得ない。会長、社長も覚悟を決めてくれ。六十歳以上が現地に行けばいい。自分はその覚悟でやる。撤退はあり得ない。
撤退したら東電は必ずつぶれる。」

この発言内容は官邸の若いスタッフのメモから起こしたという。

この保安院という存在がオソマツな組織であったことを知った。
院長と話すとあまりにもトンチンカンなちぐはぐ答弁なので、「あなたは原子力の専門家か」と菅が聞くと院長は「東大経済学部の出身」ですと答えたという。
保安院とは経産省の外局の特別機関で、01年に発足、全国に21の事務所を持つ総勢800名の組織であるとのこと。
もちろん下部には原子力の専門家もいるだろうがトップが経済官僚だったことは一事が万事、押して知るべしの組織だろう。
保安院は「原子力安全」と「産業保安」とが主な所掌事務で、決して原子力関係のみを専門としている組織ではなかったのだ。
だから最悪の事故シナリオが想定されているのに保安院がボトムアップの機能を果たさない。

事実、保安院からはなんの原発事故提案も上がらなかったと管は回顧している。
彼が高く評価したのは東電の吉田所長であったらしい。
現場に飛んで野戦病院のようにごったがえっている免震重要棟で彼と面談しその現場指揮ぶりから感じたことらしい。
「ベント 決死隊を作ってやります」と吉田。
「匿名語らない人間と話ができた」とは管から見た彼の印象である。


3月11日20時。
1号機のメルトダウン始まっていた。 
大地震翌日1号機建屋 爆発は15:36分。これは地元民放が放映。
続いて日テレが全国放送したのが16:50分。
この間、東電からも保安院からも官邸には一切の連絡が無かったという。

管がイラ管に変身したのは、保安院からはなんの事故提案も上がらず、東電の現場と本店の意思疎通の悪さを体感する中で、その東電が撤退の方向ということを海江田大臣などから報告された時だった。

事故から4日目。
14日夜から15日の明け方にかけて彼は東電に乗り込み、怒りをぶちあげる。

「日本がつぶれるかもしれない時に撤退はあり得ない。会長、社長も覚悟を決めてくれ。六十歳以上が現地に行けばいい。自分はその覚悟でやる。撤退はあり得ない。
撤退したら東電は必ずつぶれる。」

この発言内容は官邸の若いスタッフのメモから起こしたという。


4月末にベントや水冷却によって、ようやく最悪の危機は脱した。
自衛隊の下で警察も消防署も機敏に動いた。
彼らは法をこえて国難に対処した。
政治の舞台では、これができなかった。
情けなかった。
地震 津波 原発事故 という三重のリスクを国難と言わずしてなんというのか。
この非常時にねじれ国会のまま、党派利益を争う野党の次元の低さに呆れた。


福島の原発事故を考えるとき次の事実は重要だと思う。
複数の原子炉が損傷し、次々と水素爆発を引き起こした。
紙一重で今回の致命的な危機は回避できたが、「首都圏から3000万人が避難を余儀なくされたとしたら、どれだけ経済がダメージを受けるか 財界人は検証したのか」と管は指摘している。
福島原発事故は国の存亡の危機であったという体験認識を示し
「原発の安全神話は崩壊したが 原発は安価という神話も崩壊した」
と括っている。
中間貯蔵施設も原発廃炉にいたる工程もいまだないが、莫大なコストがかかることは想像に余りある。

福島原発事故。
あのときの日本の総理は東工大出身のイラ管でよかった。
天の配剤ともいえる。





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