in the heart side・・ヒトツバタコ

いつもその時の出会いを大切に・・

母の死

2019-04-08 15:07:10 | パーキンソン病

何日ぶりだろう?自分のブログなのに、いつからか更新どころか見もしなかった・・
以前からコメントの少ないブログではあったが、もしコメントいただいていたら大変失礼な話だ、と思いつつ開けてみたが、やっぱり杞憂だった。と、言ったら健さんは怒るかな?
バタコはちゃんと生きてますよ~。息してるだけの日もあるけど・・・
健さん、ありがとう!!健さんは、いかがですか?
私は、前回の投稿から今日までに色んな事がありました。
先ず、母の死・・これはまだ最近だけど私にはまだまだ消化できてないこと
齢60も過ぎた私を”まつころ”と呼ぶような母だった。実家に行くとよっぽど、私の所作が気になるのかホントに私の一挙手一投足を見ていた。ふと母を見やるといつも目が合った。娘と行くと娘に”お世話になっております”とあいさつをする。娘もこれは、嫌だと言っていた、享年93才・・決して早い死ではない。むしろ長寿を全うした幸せな人生だったと思う。病名もなく、”老衰”とのことだ。奇しくも父の誕生日に逝ってしまった。
お骨拾いの際には骨がボロボロになってしまい、喉仏は見つけられなかった。これは、きっと私も同じだと思う。

”母さん、今まで大事に育ててくれ、いつもそばにいてくれてありがとう!
もっともっと兄達みたいに愚痴が出るほど面倒をみてあげたかったよ。
何にもしてあげられなくてごめんね。”

今はもう何処を探してもいない母には届く事もないとわかっている。けど、私の心の中にしっかりと居ついている母に話しかけている。
皮肉なことに母が救急車で搬送された頃から病院でも施設でも葬儀場でもオフにならずにいた。主治医も気が張ってる間はいいかも、と言っていたが・・この病気、やはりメンタルな部分に左右されることが大きいと改めて思った。
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留袖

2018-03-25 09:38:45 | パーキンソン病
先回の投稿からいつの間にか、年も明け早半年もたってしまった。
先月には娘の挙式があった。

私にこの病名がついたのは娘が6歳の時だった。
姉に電話をした。”きっとあの子の成人式は用意してやれないと思う。夫ではどうすればよいかわからないだろうから、お願いだからあの子に晴れ着を着せてやってほしい”と。姉は、”わかったよ。約束したからね、任せておいて”と答えてくれ、二人で泣いたことがあった。

病名ついて間もなく当時の主治医に”あと何年位普通の暮らしができますか?”と聞いたことがあった。困ったような表情をしながらも”あと、10年かな・・”と言われた。

あれから22年。

成人式は今から7年前。今思えば、私もまだまだ元気だった。
姉に”あの時の涙はなんだったのか?”と皮肉られた。

でもこの病気は間違いなく進行性だ。運よく進行が遅く、薬効が顕著で元気でいられたが、この2,3年オフがきつく、外出先で動けなくなることが多くなった。ジスキネジアも目に付くようになってきた。こんなふうで娘の結婚式に留袖など着られるだろうか・・そんなことばかり思っていた。

留袖・・母が私にあつらえてくれた晴れ着。娘の晴れ姿に私も正装で送り出したいと思っていた。

そんな時リハビリ入院で出会った医師から”シンメトレル”という薬を聞いた。主治医に言うと”救世主になるかも・・結婚式に合わせて使ってみよう”ということになった。あまり評判の良くない薬というイメージがあったけど、気が付くとジスキネジアがとまっている。底上げにもいい感じ。この先どうなるかは未知数だけどこの薬に救われた思いだった。主治医にも”僕が太鼓判押してあげるよ”と言われながら挙式の日を迎えた。

自宅にいるときはオンオフの繰り返しに疲れて何もできないのに、我が子の晴れ舞台という緊張感からか大したオフもなく無事に花束贈呈までちゃんとしていることができた。

”気力”ではどうしようもない病気・・でもやっぱり気持ちの持ちようってとても大切だと思った。

またしても間一髪の目くらまし戦法で乗り切れました。

同様の環境にみえる方へ・・大丈夫!大丈夫!何があっても大丈夫だからね!と言いたいです。
あとで思い返して”エライ羽目におちいった”ことになるか”大丈夫”になるかは本人の心の有り様にあるかもと思う。
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メダカちゃんのその後

2017-09-27 16:37:05 | パーキンソン病
久しぶりの更新・・10ヶ月ぶりだ。もっと長い時間放置していたかと思ってた。

色んな事があった。

姪の結婚式で仙台に行ったこと。

長年、籍を置かせてもらったパソコンのサークルをやめたこと。

友人の死。

兄の死・・この事は本当に辛かった。

東京で開催された第2回JPCへの参加。

京都での弥生会。

娘が入籍し家をでたこと。・・これも祝い事ではあるが辛かった。2月の挙式も一抹の不安が・・

加えて、夫が小さな小さな村のことではあるけれど今年と来年の2年間町内会の役職を引き受けてしまい、厄介な病を抱えた私は妙な緊張感です。

このほかにも参加させてもらった行事やら家の中の改装やら・・・

明らかに以前と違う私の身体。でも一般社会に身を置く以上いろんな方と接触せねばならず、私の生き方も少しずつ変えていかねばならないことを痛感させられている。

そんなこんなの泣き笑い・・仕方ない事ばかり。思い通りにいかぬことばかり。でもやっぱり頑張れ、私!

蛇足ですが、メダカちゃん3匹があのクソ寒さの中生き延び暖かな春を迎えたのですが、とうとう今夏の尋常でないクソ暑さにやられてしまった。氷の下から元気よく出てきてくれた時はホントに嬉しかった。与えられた命を生き抜いたメダカちゃんの一生(?)だったと思う。
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メダカちゃん

2016-11-02 11:56:00 | パーキンソン病
今、我が家で最も大切にしてもらっているものと言えば”メダカちゃん”だ。
朝に夕に水槽を覗いている夫を娘が苦笑まじりで眺めている。

夫はもともと魚を飼うような性格でない。私もである。
どうせ飼うなら犬とか猫とかありふれてはいるが、もっと能動的なものの方が面白いと思う。

3か月ほど前だ。あまり暇だったので近くの公園にでも行こうということになり、二人で出かけた。
噴水のまわりに睡蓮が置かれていた。睡蓮は白色というイメージでいたが色んな花があり楽しく見てまわれた。
その中に珍しく青色の花があり、新種で花の名前を募集しているという。二つ咲いていた。

 ”ブルー アイズ”

夫がそう書いて箱に入れた。
そんなことがあったことも忘れたころに夫が書いた名前が採用されたとの知らせがありビックリ。
もう一人の方との合作にしたいので賞品は半分ずつにしてもらいたいとのこと。それを聞いた私も子供達も”きっと応募者は二人しかいなかったんだ”、と言っていたのだが、夫は”いや、紙を入れたときカサッといったので10枚くらいはあったと思う。”と言っていた。
ところが後日新聞に取り上げられてその数、なんと220枚だったそうな。

二度ビックリ!!なんでもやってみるもんだな・・これが正直な気持ち。

前置きが長くなったが、その時にいただいた副賞が睡蓮の花だった。睡蓮を育てるには睡蓮鉢なるものがいるということや
その中にメダカを入れて虫を食べさせるということも初めて知った。

ここからメダカちゃんとの物語の始まりである。

まずどこで手にいれる?

ペットショップとは知らなんだ。そして私の中では”メダカごとき”のものに、あるわ、あるわ、メダカグッズの山。
知らないことっていっぱいだ。

買っては皆、死んでしまい、やっぱり野生のものがいいかもとジジイとババアが手にたもを持ち、池のまわりをうろついて中学生くらいの子に
”何、してんですか?”と言われ・・あれからおおいに楽しませてもらっている。

今、やっと子供が生まれ親と隔離して飼育しているところ。

睡蓮が先だったのにいつの間にか、可愛い可愛い”メダカちゃん”である。

いつも思う。ただ池を眺めるのもいい。だけど小さな石を投げ入れてやると思わぬ水紋ができることがある。
石を投げ入れるタイミング、石の大きさ、、そんなもの全部ひっくるめて”縁”というものかもしれない。
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卓球塾続報

2016-10-26 07:51:05 | パーキンソン病
今日のお題だけみると、大きな反響があったかのような大きな大きな誤解を招きそうだが・・でも正直はったりでも言いたく、いや言わせてください。という心境です。

嘘はいけないのでホントのことを書いておこうと思います。

全く反響なし・・ガツクリ


覚悟はしていたがホントに”0”とは・・

正直私自身、今症状がすこぶるよくない。薬の薬効時間が短くなり、切れるとすくみがひどく、きっと以前の私を知る人は驚くかもしれない。
そんな私が無責任に声掛けをしてよいものかという気持ちもある。
でも、もう一人の私が、だからこそ”頑張れ”と言う。

以前の私なら片っ端らから連絡をとり強引に人集めをしたことと思う。今はそんな元気もない。ただ週に1度好きなことを続けられたらいいなという思いだけである。
そのためには、そろそろ一本釣りしかやはり手はなさそうだ。
ボチボチやっていこうと思う。
と、いうわけで一本釣りの糸が目の前に下りてこられた方はどうぞご協力いただけたらと思います。
少々気が長くなったというか、スピードダウンの私のこと、まだしばらく様子見の状態です。
何時とは言えませんが・・・

そんなこんなでまだまだ皆さんからのお声を待っています。
どうぞよろしくお願いいたします。。


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卓球塾

2016-10-12 07:43:48 | パーキンソン病
本当に下手の横好きを絵に描くと私が卓球をしている姿になろうかと思うほど、ビックリするほど上達しない。でもやっているときは、とても楽しく時間を忘れるほどだ。でも諸々の事情で卓球をやれる機会がう~んと少なくなってしまった。楽しくやりたいことをやっている友人を羨ましいとだけ見ている自分を思い、そして”やってみよう!自分でやれる環境を作ってやるんだ!!”と思った。友の会の会報の紙面をいただきアナウンスすることにした。
卓球は一人ではできない。きっと私と同じような気持ちでいる方がみえることを信じて待つことに決めた。同文を記載します。近隣にお住まいの方で、一緒にやってもいいと思われる方は連絡いただけると幸いです。

   卓球塾を一緒につくりませんか?

4,5年前この病には運動療法がとてもよいと聞いて徳島病院にリハビリ入院したことがある。5週間の間、PTの先生の計らいで会議用の机を3つ並べ、その上にゴム紐を張った卓球台を作ってもらい、毎日暇さえあれば同室の方と卓球をしていた。退院が近づくほどに“ずっと続けてね”といぶかしく思うほど言われた。帰ってから3年くらい病にふれず教室などに行っているうちはよかったけれど、自分が病気を罹患していることを告げると、仲間に入れてくれるところはなかった。障害者スポーツセンターも勿論あるにはあるが、あまりに遠くて通うのが億劫で・・・あのくどいほどの声掛けはこういう意味だったんだ。進行性で日内変動が激しい病を持って、新しくスポーツを始めたり継続するのは至難の業だ。でもやっぱり面白い。白い球を追いかけて上手く打ち返せた時の爽快感は薬1錠分の薬効より身体にいいような気がする。今、私は健常の友人や夫に付き合ってもらい月に2,3度何とかやっているが、今回思い切って声を上げ仲間を募りたいと思います。患者でもご家族の方でも友人の方でもどなたでも結構です。そして初めての方でも子供のころに部活でやっていた方も大歓迎です。熟練者の方がボランティアで私どもに教えていただけたりしたらこんなに嬉しいことはありません。取り敢えず一度やってみませんか・・場所は名駅に近いスポーツセンターか一宮市のスポーツ文化センターを考えています。
宜しくお願いします。
連絡先は下記です。

メールアドレス tomamkm5@gmail.com

   
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テレビの向こう側

2016-04-15 08:07:43 | パーキンソン病
昨夜また大きな地震があった。熊本は長男のお嫁さんの実家がある。
他人事ではない。幸い実家のご家族の方々は皆、無事とのことで一安心だ。

と、ここまで書いて被災された方のご苦労を思った。

偶然、今回は難をまぬがれただけのこと。私の住む地方でもいつ大地震がおきても不思議ではない。

昨夜テレビに映っていた光景・・学校の校庭で毛布にくるまってみえた方々、同じ病気の方もみえるだろう。
どんなに大変だろうかと思う。

テレビのチャンネルを変えればすぐに違う画面だ。
見たくないものはチャンネルボタンをプチっとおせばいいだけ・・

自分の身体一つままならない私が言うのもおこがましいが、テレビの向こう側にあるものを忘れちゃいけない時がある。

被災地の方々には心よりお見舞い申し上げます。
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春爛漫

2016-02-26 08:28:19 | パーキンソン病
>今年も爺さんたちの恨み節が聞こえてきそうだけど・・やっぱり全員集合は堪忍してもらうことにした。

お雛様・・やっぱりいいもんだな。春爛漫って言葉がぴったりだ。

お雛様の穏やかな顔を見ながら母のことを思った。
私は5人兄弟の末っ子。いつまでも母には”まつころ”だ。
そして”まつころ”のそばにはいつもいつも母がいた。
それがどんなに幸せなことかということが、還暦間近になって実感している。

先日私たち夫婦、長男夫婦と孫、次男夫婦、娘の8人で日帰り温泉ツアーに出かけた。タコで有名な日間賀島だ。
その席で長男のお嫁ちゃんが”実は・・”と切り出した。聞くところによるとちょっとした手術をした。で、その間、一週間程孫ちゃんは保育園に預けたとのこと。我が家とは車で小一時間の距離・・戦力にはならない私のことを気遣ってくれたのだと思う。まだ1歳半の子供を抱えどうしようかと思い悩んだ姿を思うと、胸がキュンとする。

私は長男がおなかにいたとき卵管摘出している。その時も母はすっとんできてくれた。長男が難産で保育器にいたこともあり産前産後合わせて実家には4か月か5か月世話になった。長男が9か月のころ川崎病で入院した時も次男の出産のときも長女を授かったときも勿論、出産のときも家を建てた時もいつもいつも母がそばにいてくれた。夫は正直なところどう思っていたのか分からないけれど、私には何があっても母がいてくれるのが普通の風景だった。当たり前のことだった。

私が結婚するとき嫁入り道具にとあれやこれやと家具を見に行くときも母は”娘をもっていちばん幸せな時間だ”と言っていた。私は母たちの出費のことなど考えてもいなかったと思う。お雛様もそうだ。七段飾りが欲しくて欲しくて仕方なかった私は母たちの懐具合など思いもせずに気に入ったものを買ってもらった。

当たり前のことなんてなんにもないってことがよぉ~くわかったよ。

優しいお雛様の顔を見ながら”母さん、ありがとう”って口に出た。

母は今年で91歳になる。
その母が”毎夜毎夜、お前の家の方角を向いて元気になるようにお祈りしているよ”という。

いつまでも母の愛に包まれてぬくぬくしている私・・

私は母から受け取ったものを息子や娘に上手に譲り渡すことができているだろうか・・
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タンポポさんの十か条

2016-02-03 13:03:12 | パーキンソン病
ホントにいつからだろう・・?なんか体に一本線がとおらない。

こんなこと言うと”当たり前だろ!!そういう病気なんだぞ!!何年この病気と付き合ってるんだ!!”とどこからともなく声が聞こえてくるようだが、どうしても未だに諦めきれずにいる私がいる。

いつまでも同じところをグルグル回ってる私に時折、たんぽぽさんが電話をくれ、先日も友の会の全国誌に寄稿したという原稿を送ってくれた。

さすがだと思った。30年以上この病と生きてきた人の賢さを思い、紹介させてもらうことに承諾してもらった。

同じ病の人は勿論のこと、そうでない人にもきっと役にたつものと思う。

題して”難あることを生きる力に変えるための十か条”タンポポさん著

1条・・・   薬のこだわり「主治医と仲良くし、薬は自分の身体とも相談しよう。」

    器の小さい医者は処方箋通りにと言い、器が大きくなれば患者の自主性を求める。医者にとってもパーキンの薬は厄介だろうな。・・中略・・ 薬を飲むのはお医者さんではない。薬をどう意識するかは患者。患者は薬をもっと知ったほうがいい。

2条・・・  今日一日を大事に生きよう!明日は明日の風が吹く。

    なぜか今日のことより将来のことばかり心配する人が多い。私もその中の一人だった。でも30年以上この病気と暮らしてしまった。そして今日 一日を大事に暮らすことを知った。一日を一生とし、生きることに意味がある。明日のことは誰にも分らないのだから明日のことは明日かんがえたらいい。

3条・・・  治らない病気であっても個々の症状をよくすることを考える。

    病気そのものを治そうとすることはできないかもしれないが症状の一つ一つをよくしたいと思うことはそんなに大変でないかもしれない。

4条 ・・・ できないことを嘆くのではなく、楽しくできることを増やそう。

    不思議なことにやってみたいなと思うことは少々難しくてもできるのに、やりたくないことをやらねばと思うと相当な気力がないと簡単なことで もできない。だったら楽しくやれることをやったほうがいい。

5条 ・・・ リハビリは病院や器具を使ってやることだけではない。

    ・・略・・パーキンソン病の場合機能維持のためのリハビリを考えるべきだろう。そのことは日常生活の中でできる。手足の症状が目立つため本職のリハビリの指導も筋肉を鍛えることをメーンにすることが多い。が、経験から緊張しているところをほぐしてもらったほうが効果があるように思う。

6条・・・  死ぬまで自分のことを自分でできる身体でいたいと思うことが大事。

    思いには力がある。思いがあれば創意工夫はそう難しいことではない。社会資源などの助成などの活用で住環境を整えることも必要である。また 転倒などによる骨折には十分きをつける。

7条・・・   自分自身にも感謝のできる心境を持とう。

     ・・略・・「つらい」「しんどい」と思っていても私を生かす心臓は休むことなく動いていてくれる。

8条 ・・・ パーキンソン病以外の体調管理を忘れない。

     このことはY病院のK先生の講演で聞いた「薬をピッチャーとするとそれを受けるキャッチャーはあなた方の身体全体だ。いくらピッチャーが いい球を投げてもそれを受けるキャッチャーが下手くそだったら」いいチームと言えないように、体調を良くしないと薬は十分な働きをすることができません。」
     
9条 ・・・  家族とともに過ごす時間こそ、体調がいいように。

     ずいぶん以前に夫がわかってくれないと主治医に訴えたことがあった。意外な答えがかえってきた。「あなたが病気をどう受け止めたらいいのか分からないようにご主人もパーキンソン病になったあなたをどう受け入れたらいいのか分からないのですよ。」それから私のパーキンに夫を巻き込むことをしないでおこうと思っている。

10条 ・・・  決してあきらめない。

      ちょっとだけ頑張ってみる。

      そして決してあきらめない。

以上です。

タンポポさんは・・こんなことを自分に課して生きてきました。本当はもう疲れちゃいました。

         ちょっとだけ思い出してみようかな?

とあとがきしています。いい文章だと思った。こんな病気やってりゃ、心底疲れます。でもそんなとき思い出すと”力”が沸いてくるかも・・そう思いながら転写しました。


タンポポさん、ありがとう。これからも宜しく!

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新しい朝

2016-01-06 09:03:03 | パーキンソン病


年々”お正月感”がなくなっているのは温暖化のせいか私自身が色んなことに鈍感になってきてるせいか・・よくわからない。でもひたすら時は刻まれ年があけてからもうそろそろ一週間がたとうとしている。

医療に携わっている息子が元日にやってきた。二日からもう仕事だと言って慌ただしく帰って行った。母親としては何とも寂しいけれど口に出たのは”病気を持つ身には休みがないからなぁ・・”だった。息子は苦笑しながら復唱していた。

と、いうわけで”新しい朝”といってもいつものごとくオンとオフの狭間で暮らしていくだけだ。

でも今回の長引くトンネルの中で一つ確信したことがある。

”私は、病人。そのための障害もあり助けてもらうことも多々あり、支えなくして生きてはいけない。でもその前に1人の人間でありたい。”ということ。

罹患して早20年近くなる。これからもっと曲がり角も山もでてくるかと思うと正直ゾッとする。でも何が普通かと聞かれても答えられないけど、私のせいで回りのものが不幸になるのはやだなって思う。そのためにはどうしたらいいか?いつもそう考えていこうと思う。

今年はどんな一年になるのかなぁ?まぁ、考えてもなるようにしかならんか・・

ただ一つだけ忘れずにいたいことがある。

何があってもどんなことも絶対に人やもののせいにはしない、ということ。全部、自己責任。平たく言えば”身から出た錆び”ということ。

とは言っても認知症になったあかつきには”ボケたもん勝ち”ということになると思うけど・・

そんなことを思った元日の朝でした。
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