特捜最前線日記

特捜最前線について語ります。
ネタバレを含んでいますので、ご注意ください。

第432話 美人ヘッドハンターの完全犯罪!

2008年08月29日 22時00分14秒 | Weblog
脚本 石松愛弘、監督 松尾昭典
1985年9月11日放送

【あらすじ】
大手電機メーカーM社のエンジニアが殺害された。被害者はライバル企業O社からの引抜を受け、転職の決意を固めたばかりであり、殺害された理由もそこにあるのではないかと見られた。
同じ頃、神代に外資系ヘッドハンティング企業の女が強引に接触。将来の日本支社長として破格の条件で引き抜こうとするが、神代は「私は根っからの警察人間ですから」と一蹴する。会社に戻った女を待っていたのは叶と吉野。O社の依頼を受けて、被害者の引抜を画策していたのは、この女だった。事情を聞く叶たちだが、女は守秘義務を盾に証言を拒む。
M社では、被害者は上司の説得で転職を思い止まったと主張。一方、O社では「転職は決まったも同然だった。機密漏洩を恐れたM社の仕業に違いない」と憤慨する。食い違う両社の主張は、どちらが正しいのか?また、「私は何も知らない」と口をつぐむ被害者の妻の態度にも不審なものがある。カギを握るのは引抜の仕掛人である女だと見て、接触を図る叶だが、女は叶に対しても引抜の誘いを送る。「同じ人間を扱う仕事でも、貴方の仕事は人の粗探し」「一度きりの人生が仕事ばかりで終わるなんて味けない」女の言葉に、叶の心は揺れる。
そんななか、女が何者かに襲われ負傷する。まもなく、被害者の妻が特命課に自首してくる。女に示した条件に魅了され、被害者に転職を後押ししたのは妻だった。だが、事件の前日、妻のもとに届いたのは、酔った被害者が女とともにホテルの一室へと消えていく姿を映した写真だった。
被害者との関係を追及せんとする叶だが、女は姿を消していた。ヘッドハンティング企業では「会社に対する不都合があった」との理由で、女を解雇したという。その夜、自宅に戻った叶のもとに、女から「新宿のホテルに監禁されている、助けて」との電話が入る。ホテルに急行した叶は、何者かに拉致される女を救出、そのままホテルで休ませる。だが、翌朝、叶が目を覚ましたとき、女の姿は消えていた。
その頃、神代の前に現れた女は、叶との情事を想わせる写真を見せ「これでは、叶さんも、その管理者である貴方も、警察を辞めざるを得ませんね」と勝ち誇る。会社に解雇された女は、独自にヘッドハンティング会社を立ち上げようとし、そのスタッフに神代と叶を引き抜こうとしていた。だが、すべてが女の画策と看破していた神代は、何ら動じることはない。すでに、女を拉致する芝居をしていた仲間たちは逮捕し、女の仕業との証言を得ていたのだ。女が語った真相、それは、真犯人はM社の上司だというものだった。
被害者が引き抜かれることを恐れた上司は、女とのスキャンダルを写真に取り、それをネタに引き止めようとした。だが、激昂した被害者は説得を拒み、そのために殺害されたのだ。女は上司が被害者の死体を運び去る現場を撮影しており、それが証拠となって事件は解決する。だが、女は何ら罪に問われることなく、今日もヘッドハンティングを続けるのだった。

【感想など】
キャラクター的にも、論理的にも、常識的にも、あり得ない言動を取る刑事たち(特にひどいのは、仕事を終えて帰宅した叶が拳銃を所持していること)をはじめ、都合の良すぎる展開、演技の稚拙なゲスト女優、拍子抜けの真相、意味不明のラスト、「看板に偽りあり」のサブタイトル(どこが完全犯罪なのか?)など、珍しい課長のパジャマ姿以外には全く見るべきところのない一本。そもそも、こんな小娘の薄っぺらな言葉に、課長はもちろん、叶が心を動かされるはずはないのであり、「叶ファンに謝れ」という他には、長々と感想を述べる必要もなければ気力もありません。

第431話 単身赴任・妻たちの犯罪パーティー!

2008年08月27日 00時19分30秒 | Weblog
脚本 佐藤五月、監督 村山新治
1985年9月4日放送

【あらすじ】
蒸し暑い夜、帰宅途中の酔っ払いが殴られる事件が続発し、特命課が捜査に乗り出す。3週間に8人もの被害者が出たものの、被害者間に共通点はなく、強いて挙げれば酔って大声で歌っていたことくらいだった。
所轄署の作成した不審者リストをチェックした橘は、ある男の名に見覚えがあった。犯人の似顔絵ともよく似るその男は、橘の盆栽仲間で、3年前に大阪に転勤したはずだった。男の自宅を張り込んだ橘は、かつて盆栽で一杯だった庭が、妻のゴルフの練習場所になっていることに驚く。単身赴任から3年ぶりに戻っていた男の表情は暗く、仲睦まじかった妻との関係も冷え切っているように見えた。
偶然を装って男に接近した橘。男は「単身赴任の間に、家族は私のいない暮らしにすっかり慣れてしまった」と、家庭に居場所を失ったことを嘆く。妻は男の嫌いなクーラーをかけっぱなしにし、朝食も男の好きな和食から洋食に変わっていた。自宅は近所の奥様方の集会場所になり、娘からも邪険にされ、男は頻繁に夜の散歩に出かけ、公園でラジオのプロ野球中継を聞くのが唯一の楽しみだという。男の言葉に、妻と同居していた長崎時代の我慢の日々を思い出した橘は、そのストレスが男を通り魔に変えたのではないか、と推測する。
そんななか、特命課は高杉の思い付きから、犯行のあった夜、いつも巨人が負けていたことに気づく。紅林は大の巨人ファンで、巨人が負ける度に、ひどく陰気になるというサラリーマンをマークするが・・・

【感想など】
恥ずかしながらビデオテープの残量を勘違いし、上記あらすじ(25分頃)までしか録画できないという失態を演じてしまいました。佐藤脚本らしい救いの無さそうな展開に、結末が気になって仕方ありませんが、敢えて予想すれば、真犯人はサラリーマン→男が犯人でなかったことに安堵する橘→その矢先、男は我慢の限界を越えて妻を殺害→呆然とする橘、という展開だったのでは?どなたか、よろしければ以降の展開がどうなったか教えてください。よろしくお願いします。

【あらすじの続き】
通りがかりの酔漢に襲い掛かるサラリーマンを取り押さえる紅林。「巨人が勝つことだけが生き甲斐なんです・・・」取調べに対し、サラリーマンは素直に犯行を認めた。事件の解決とともに、男が犯人でなかったことに安堵する橘。だが、男の自宅を訪れた橘が見たものは、妻の死体と、うろたえる男の姿だった。「妻の心無い言葉にカッとなって家を飛び出し、帰ってきたら死んでいた」と主張する男。特命課の疑惑は男に向けられるが、橘は一人、「彼は奥さんを愛している」と男の無実を主張する。「人間は変わる。現に、3年の別居の間に奥さんは変わってしまった」という神代の言葉に「女は変わっても、男の気持ちは変わらんのです・・・」と反論するものの、家を出ていた間の男のアリバイは無い。
信じている男を敢えて厳しく追及する橘。追い詰められた男は、黙っていた事実を語る。その夜、家に帰ろうとした途上で、男遊びの噂が耐えない同僚の妻と出会った男は、妻への反発もあって声を掛けた。女は男に「あんたの奥さんは最低ね!」と言い放ったという。
その後の捜査で、妻は主婦仲間を利用して高給下着の悪徳セールスを取り仕切っていたことが判明。女もその一人で、売上金を妻から厳しく取り立てられていた。特命課の取調べに、女は犯行を自白。事件の夜、女は妻に「知ってるのよ。売上金を浮気相手に貢いでるんでしょう」となじられ、思わず殺してしまったのだ。
こうして事件は解決。傷心の男を訪ねる橘。男が妻に壊された盆栽を植え直すのを見て、橘は「ここはまた盆栽で一杯になりますね」と、主無きゴルフの練習場所を見つめる。だが、男は答えた。「これは、このままにしておきます。女房が寂しがりますから」と。

【改めての感想】
鬼親爺さんのおかげで続きを見ることができましたので、改めて感想を。

単身赴任者の孤独と悲哀のなかに、変わってしまった妻を恨みながらも愛し続ける男の純真さを描いた一本。愛着のある盆栽を壊されるわ、同居していた実母と別居させられるわ、朝食を嫌いな洋食にされるわ、嫌いなクーラーを入れられるわと、やりたい放題な妻の態度にはブチ切れそうになり、ついつい「男が妻を殺す」という展開を予想してしまいましたは、橘の慧眼どおり、男はそれでも妻を愛していたのです。
いつもの五月脚本とは違って、悲惨な事件のなかに爽やかな印象が残るのは、ラストシーンに象徴されるように、そんな男の一途な気持ちが胸を打つからでしょう。「また根が生えてきますから。」盆栽は育て直すことができても、妻はもう戻らない。失って改めて実感できた妻への愛情が、ラストの哀切な一言に結実しているのだと思います。

この男だけでなく、通り魔となったサラリーマンも、そして妻を殺した女の夫も、いずれも単身赴任者。まるで単身赴任者=社会の犠牲者とでも言わんばかりの脚本ですが、それだけ当時は、会社の命令で心ならずも家庭を離れたサラリーマンが多かったのでしょう。しかし、事情が違うとはいえ、橘の前で「やっぱり夫婦は別れて暮らしちゃいかんですね」などと言う吉野らは、ちょっと無神経ではないかと思いました。
妻の横暴さに耐える男に共感しつつ、ただ一人、男の妻への愛情を信じる橘。そこには、妻との別居という道を選んだことへの自責の念とともに、「自分が乗り越えられなかった試練を、乗り越えられる夫婦がいるはずだ」と信じたい気持ちが込められていたのではないしょうか。「女はそうでも、男の気持ちは変わりません。」やや女性に失礼に思えるこの言葉に、今も(普段は自覚してなくとも)女房への思いを捨て切れない橘の真情が垣間見えるような気がします。また、そんな橘に敢えて「人は変わる」と言ってのける神代課長の真情も、その過去を考えれば、痛ましいものがあります。
改めて全編を通して見ると、おやっさんの不在を感じさせない味のある一本であり、橘主演編の中でも上位に入る出来ではないかと。見逃さなくて本当によかったと、改めて鬼親爺さんへの感謝の想いがこみ上げてきます。本当にありがとうございました。

第430話 昭和60年夏・老刑事船村一平退職!

2008年08月22日 03時57分15秒 | Weblog
脚本 塙五郎、監督 天野利彦
1985年8月28日放送

【あらすじ】
昭和60年夏、心臓の不調が深刻化していることを悟った船村は、自身の刑事生活を振り返るべく、30年前に初めて犯人を逮捕した思い出の坂を訪れる。かつては勢い良く駆け上がっていた名も知らぬ坂の中途で息が切れてしまう自分に気づいたとき、船村は密かにある決意を固める。
同じ頃、ある小学校で宿直の用務員が殺害される。第一発見者である女教師は、警察に通報せず、まず校長に連絡していた。捜査に当たった特命課は、その理由を追求するが、彼女はただ「怖くて・・・」と答える。犯人は返り血を浴びており、被害者の衣服を奪って着替えたと推測されたが、脱ぎ捨てた着衣は見当たらなかった。犯人の着衣を捜すべく、船村は吉野とともにゴミ集積場を捜索する。
そんななか、今度はおでん屋が殺害される。現場に脱ぎ捨てられていた血まみれの着衣が用務員のものだったことから、同一犯人の犯行と判明。事件前夜、おでん屋は巡回の警官にあった際、「城西署の船村刑事」と名乗る男と一緒だった。現在、城西署に船村という刑事はいないが、船村は30年前に勤めていたのが城西署だった。
一方、船村はゴミ集積場で犯人が捨てたとおぼしき血まみれの背広を判明。そのポケットから、坂の名前ばかりが綴られたメモを発見する。犯人が坂道に執着を抱いていると見た船村は、叶とともに坂道を回って歩き、周辺の旅館を当たる。ある旅館の宿帳に「船村一平」の名を発見する船村。だが、応援を頼もうと向かった電話ボックスで突然の発作に倒れ、その間に犯人の逃走を許してしまう。その後もドクターストップを隠して捜査を続けようとする船村だが、桜井や神代に捜査を外れるよう忠告される。
なおも単身で坂を回り続ける船村に、神代の命を受けた高杉婦警が同行。たまたま出会った坂上りの愛好者は、犯人のメモの字に見覚えがあるという。それは、仙台刑務所に服役中の囚人から受け取った「坂のことを教えて欲しい」という手紙の文字だった。その囚人とは、船村が30年前に初めて逮捕した犯人だった。高杉の制止を振り切って、仙台に向かう船村。犯人が出所する半年前、一度だけ面会に来たという女の名前が、船村の記憶を呼び覚ます。その女とは、30年前の事件で犯人が殺害した男の娘であり、用務員殺しの第一発見者である女教師だった。
「犯人はあんたに会いに来たんじゃないか?」と問い質す船村に、女教師は衝撃の事実を語る。犯人は女教師の実の父親だった。母親の遺言で事実を知った女教師は、実の父に会うべく面会に訪れたが、母の死は告げたものの、自分が娘だと打ち明けることはできなかった。犯人はかつて愛した女の死が信じられず、その行方を知ろうと女教師を訪れたのだ。「あんた、実の父親をかばおうとしたんだね?」船村の言葉に「違います!あんな男の娘だと、誰にも知られたくなかったんです!」と反論する女教師。「もっと凄いこと教えてあげましょうか・・・」30年前の事件の真犯人は、母親だった。「あなた、無実の人間を捕まえて、それを手柄にしてたんです・・・」女教師の言葉が船村の胸を突く。
同じ頃、特命課でも背広の元の持ち主の線から、犯人の素性、そして船村との関係を突き止めていた。言葉を失う刑事たちを前に、船村は犯人の心境を語る。「奴が独房の中で唯一見つけた楽しみは、地図の中の坂道を上ることだった。生涯で唯一愛した女が、坂の好きな女だったからだ。私が30年前に奴を逮捕したのも、奴が女と逢引していた坂の上の旅館だった。追い詰められた奴は、きっとそこに現れる」「あいつに、そんな人間らしい心が残っていますかね?」吉野の疑問に、船村は答える。「私が30年の刑事生活でわかったことは、たった一つだ。人間っていうのはね、ずるくて汚くて、浅ましくて卑しくて嘘つきで、恐ろしくて、そして、弱くて哀しいものだったことだ・・・」
蝉の声が響くなか、汗だくになりながら、ひたすら坂の前で張り込む刑事たち。「この坂を駆け上がれなくなったときが、あたしが刑事を辞めるときだ。そう思ってきたんだよ」やがて、現れた犯人を追う刑事たち。一人、息が切れて遅れる船村。「もう、やめるんだ」30年前、無実の罪で逮捕した男に、船村は再び手錠を掛けた。「私がこの凶悪な男にしてやれることは、この男にも哀しい心があると信じることと、手錠を打つことだけ。30年間私のやってきたことは、結局、そういうことです・・・」こうして、船村の刑事生活は終わりを告げた。
その夜、特命課に別れを告げた船村は、その身を案じ続けた娘に電話をかける。「これでお前も安心したろう。本当のことを言うとな、あたしゃ、辞めたくないんだ・・・辞めたくない・・・」こらえていた涙が堰を切ったように溢れてくるのを、船村は止めることができなかった。
後日、その坂を神代とともに歩く船村。「私たちは坂っていうと、駆け上がることしか考えなかった。しかし、こうやってゆっくり上がることもできる。そうじゃないかね」いたわりを込めた神代の言葉を、複雑な思いで受け止めながら、船村は振り返る。そこには、船村の30年にわたる苦難と充実感に満ちた道のりがあった。
昭和60年夏 警部補 船村一平 特命捜査課を退職。

【感想など】
中村雅俊の名曲「ふれあい」のメロディーに乗せて綴られるおやっさん最後の事件簿(そして塙氏最後の特捜脚本)は、30年にわたる刑事生活で培われた刑事としての手腕や矜持、さらには犯人に対する深い人間洞察力が遺憾なく発揮されると同時に、そのキャリアの出発点が、取り返しようのない失敗であったことが明らかになるという、いかにも塙脚本らしい味のある展開でした。
おやっさん退場編という事実にまず心を動かされ、情感溢れる台詞や、おやっさんへの想いに満ちた刑事たちの重厚な演技(ただし、なぜか紅林だけが出番が少なく、そんな描写に乏しいが・・・)が胸を打つものの、冷静になってみるといろいろと粗が目立ってしまうのも事実です。たとえば、犯人が坂にこだわる理由が薄弱であり、無意味な殺人を重ねる理由も明白ではない。さらには、おやっさんが犯人の素性を知るプロセスが偶然に頼りすぎているなど、プロット面でのマイナス要素も少なくありません。また、これは意図的なのかもしれませんが、女教師の犯人に対する心情や、過去の過ちに対するおやっさんの感情、退職を決意した理由などが、ごく表面的にしか語られてなく、その内面にある本心は、視聴者の判断に委ねたのかどうか、深く描きこまれていないように感じられ、やや残念に思えました。

これまで「裸の街」「檻の中の野獣」「哀・弾丸・愛」「対決の72時間」「死体番号6001」「レジの女」など、刑事ドラマ史上、いや日本のドラマ史上に残る傑作の数々を生み出してきた塙・おやっさんコンビの最終章ゆえに、期待が高すぎたという側面もありますが、これらの傑作群に比べれば、やや見劣りがするのも確かです。しかし、逆に言えば、おやっさんの刑事生活で語るべきドラマは、これまでの傑作群で描き切ってしまったことも事実であり、すでに燃え尽きていたとしても仕方ないかもしれません。
とはいえ、本編に節目の作品という以外の価値がないかといえば、そんなことはありません。特命課を去るおやっさんへの刑事たちの想いを、あえてラストではなく中盤にもってきたシーンは、各刑事の熱演もあって、胸に迫ります。
・・・「これ以上、刑事を続けていたら命取りになる」ドクターストップが掛っていることをひた隠し、事件を追うおやっさん。事情を知りつつ、医者に口止めしてまで現場にこだわるおやっさんに「外れてください」と迫る桜井。「年寄りはすっこんでろって言うのか」「いいから休んでください」険悪な雰囲気をなだめようと「いいじゃないですか。事件を追ってばったりなんて、格好良いじゃないですか」と茶化す吉野に、「黙ってろ!」と声を荒げる桜井。「おやじさん、今回はどうかしているよ。焦りすぎている」課長の言葉で場は収まり、休息を取るおやっさんを残し、出動する刑事たち。きつい言い方をしてしまった自分を悔やむ桜井を、黙って見つめる叶。腑に落ちない様子の吉野に、事情を語る橘。桜井は、おやっさんの体調に触れないために、あんな言い方をするしかなかったのだと。「辞めたくないんだよ。現場を離れたくないんだ。好きなんだな、この仕事が・・・」
ちょっと吉野が可愛そうな気もしますが(加えて紅林だけ蚊帳の外ですが)、おやっさんの刑事という仕事への愛着と、その仕事を満足に続けられない自分に対する苛立ちや諦念、それらを分かった上で、それでも身を案じずにはいられない。そんな不器用な桜井の優しさや、それを理解する橘や叶。言葉どおりに単純に受け取るしかできない吉野も含めて、各刑事の持ち味が活かされた名シーンではないでしょうか。

後日一度だけ再登場の機会はあるものの、特捜の魅力の重要な一部を担った名優の退場エピソードだけに、語り出すと切りがありませんが、今は、見る者の胸を打つドラマを紡ぎ続けた塙五郎氏に、誰にも代わることのできない唯一無二の刑事像を演じ続けた大滝秀治氏に、そして、この二人が中心となって創り上げた船村一平という愛すべきキャラクターに、心からの敬愛の念を込めた言葉を送りたいと思います。「ありがとう、そしてお疲れ様でした」と。

皆さま、よいお盆を

2008年08月08日 19時28分11秒 | Weblog
いつも当ブログをご覧いただいている皆さまや、コメントをお寄せいただいている皆さま、誠にありがとうございます。
明日から十日ほど関西に帰省しますので、しばらく更新をお休みさせていただきます。
次回はいよいよおやっさん退職編ですが、ファミリー劇場での放送は一週お休み。私が視聴するのは水曜の再放送(20日)になりますので、更新はそれ以降になります。
暑い日が続きますが、皆様も熱中症などにはくれぐれも気をつけて、よいお盆をお過ごしください。

第429話 OL暴行・3分間のミステリー!

2008年08月08日 19時00分13秒 | Weblog
脚本 宮下隼一、監督 北本弘
1985年8月21日放送

【あらすじ】
ある日、車道を渡ろうとして立ち往生していた老人を助けた紅林は、間近にいながら助けようとしなかった若い警官を「君はそれでも警察官か!」と叱責する。警官が不服そうな態度で見せたのは、難関とされる巡査部長昇進二次試験の合格通知書だった。だが、紅林は「それで君の警官としての資質が認められたつもりかもしれんが、そんな考え方では、面接もある三次試験には通用しない」と批判する。
その夜、女性を襲った強盗を捕えた若者が、パトロール中のため無人だった交番で強盗の反撃にあい、重傷を負った。駆けつけた紅林が見たものは、昼間の若い警官が呆然と立ち尽くす姿だった。
捜査を担当する特命課に、その警官が「捜査に加わりたい」と志願してくる。その申し出を認めた神代に、紅林は「彼は捜査を昇進試験に利用しようとしている」と抗議。だが、神代は「捜査には現場に詳しい者の協力が必要だ」と退け、紅林に警官と組むよう命じる。
強盗の被害者に名乗り出るようマスコミを通じて呼びかける一方、目撃者を探す特命課。事件当夜に若者が強盗を追跡する姿を目撃していた娘やサラリーマンは、「110番お願いします!」という若者の声を無視していたが、その理由を問われると「何か悪いことしました?」「そんなの警察の仕事でしょう」など非協力的な態度を隠さない。紅林も不快感を禁じえなかったが、警官の怒りはそれ以上で、目撃者に猛然と食ってかかるほどだった。
交番でコンビを組むベテラン巡査によれば、警官のそんな態度の理由は3年前の事件にあった。喧嘩の仲裁のため留守にしていた交番がシャブ中患者に襲われたことから、ベテラン巡査は厳しく叱責された。罵られるままの巡査の姿に、警官は「自分は使い捨ての駒にはならない。それを動かす側に這い上がって見せる」と誓い、以来、交番勤務よりも昇進試験に力を入れるようになったという。だが、警官の妹によれば、そもそも警官を志した理由は、詐欺に遭って家財を失った両親を見て、「世の中から犯罪を無くしたい。犯罪で苦しむ自分たちのような人間を一人でも助けたい」と決意したからだった。
やがて、重体だった若者が息を引き取る。「薄情な人間と言われてもいい。生きていて欲しかった」と号泣する母親の姿に、慟哭する警官。捜査が難航するなか、紅林は警官が単身で頬に傷のある男を探していることを知る。そんななか、強盗の被害者である女性が特命課に名乗り出る。女性は頬に傷のある男に暴行され、結婚を控えていたため名乗り出るのを躊躇していたが、若者の死を知って勇気を振り絞ったのだ。「なぜ、頬に傷のある男が犯人だと知っていたのか?」と、警官を事情聴取する紅林だが、警官は黙秘を貫く。
その後、頬に傷のある男が別件で逮捕されるが、女性の証言も決め手にはならず、若者殺しの証拠はない。警官の証言を得るため、紅林は警官の前で事件当夜の様子を再現する。「考えられることはただ一つ。君は、交番の2階の窓から犯人を見ていた。だが、なぜだ?君はパトロールにも出ずに何をしていた?なぜ、若者の声に気づかなかった?」なおも沈黙を守る警官を、若者の通夜に連れて行く紅林。若者の遺影を前に、良心の呵責に耐えられなくなった警官は、真相を語る。「あの夜、自分は交番の2階で寝ていたんです!」試験に合格した気の緩みからうたた寝をしてしまい、叫び声に目を覚ましたときには、若者は刺された後で、犯人の顔しか見ることができなかったのだ。
こうして事件は解決し、警官は自ら辞表を出した。紅林の尽力もあって、若者の母親は警官を許し、再就職先を紹介する。額に汗して働く元警官の目に、警官を志した当初の真摯な光が戻っていることを確かめつつ、紅林は「私も刑事である前に、一人の人間でありたい」と自らに厳しく課すのだった。

【感想など】
警察組織内での地位を追う余りに、いつしか警官をめざした当初の想いを忘れてしまった若い警官の悲劇を描いた一本。前回と同様「本筋と関わりの薄い要素をサブタイトルに据えるのは何とかならないものか」との思いはあるものの、なかなか見応えがありました。

当初は「犯罪に苦しむ人を救いたい」という崇高な想いから警官を志した警官が、警察組織内にはびこる「上下関係の壁」に触れたことから「自分の理想を実現するためには組織内での権力が必要」という勘違い(一概にそうとも言い切れませんが)を生み、いつしか「昇進試験に受かることがすべて」となってしまう。組織の構成員一人ひとりが、組織全体で達成すべき目的を見失い、組織内での権力を獲得・維持することのみを目的としてしまうことは、現実にも良く見られることです。その理由の一端は、警察がそうであるように、競合する組織がなく、組織として切磋琢磨する必要がないことでしょう。組織間の競争がないため、構成員は組織内での競争のみに汲々としてしまい、結果として、その組織は腐敗する。そんな例は警察に限らず、枚挙に暇がありません。
そんな組織を救うには、「組織の目的を忘れさせない風土」が不可欠ですが、残念ながら、警察組織の風土はそうではありません。本来、警察組織における上下関係の厳しさは、命令系統の機動性を高めるためのものであり、決して上下間の能力の隔たりを意味するものではないはず。しかし、人の上に立つ地域や権力を獲得したものの意識や姿勢によって、「上に立たねば何もできない」という風土が生まれてしまうと、「(たとえば交番勤務の警官など)下に位置するものの仕事はくだらないこと=無能なものがやること」という認識が浸透してしまうのも無理からぬこと。市民に慕われたベテラン巡査(演じるはスナック「ゴン」」のマスター兼イーグルの総司令である高原駿雄氏)が、組織内では全く評価されず、若い警官からは「ああはなるものか」とすら思われてしまうように、下積み仕事を軽視するかのような警察組織の風土は、警官一人ひとりに「人々の暮らす社会の治安を守る」という本来の目的を見失わせるばかりか、その人間性すら損なわせてしまいかねません。
つまるところ、やや強引に言えば、勇気ある若者は警察機構という組織に殺されたとも言えるわけで、憎むべきは歪んだ組織風土を作り出し、その頂点にふんぞり返っている連中です。しかし、「国民年金保険」なる「官僚が国民の大切な財産を自由に使うための奇怪な集金システム」を生み出した奴らが、その責任を問われることがないように、連中に正義の鉄槌がくだることなど、フィクションの世界にしかないのです。

今回の脚本は、そうした警察組織の歪みを鋭く指摘しつつ、その歪みに翻弄され「善意」と「悪意」の狭間で揺れる若い警官の姿を巧みに描いています。ただ、少し気になったのは、警官が若者の母親に土下座して詫びた言葉です。彼は「自分が寝ていたばっかりに、申し訳ありませんでした!」と謝りましたが、本当に反省し、詫びることは、勤務中に寝ていたという「勤務評価上のマイナス行為」ではなく、刺された若者を放置して(半ば言い訳的な行為として)もはや追いつくはずのない犯人を追ったことや、責任追及を(そして昇進試験への影響を)恐れる余りに嘘をついたという「人としてのマイナス行為」ではないでしょうか?ただし、これは脚本上の手抜かりというよりは、この期に及んでも自分の行為を直視できない若い警官の人間性を描く底意地の悪さかも知れません。彼が本当に人間性を回復するのはこれからであり、そのためには紅林や若者の母親のような、周囲の許し、そして優しさが必要だということでしょう。

長くなって恐縮ですが、もう一点気になったのは、「勇気ある大学生の正義感が無駄に!」といった(それこそ「無駄」にセンセーショナルな)新聞報道や、事件解決後に紅林が語った「青年の尊い勇気はようやく報われた」という台詞など、若者の行為が「犯人逮捕」という結果があって初めて報われるかのような表現です。
自身の安全を省みず、自らの正義感に従って(そんな自覚すらない無意識の行動だったでしょうが)犯罪者を捕らえようとした若者の行動は、それだけで美しく、崇高なものであり、仮に犯人逮捕につながらなかったとしても、決して「無駄」ではない。その行為が生み出した「結果」にではなく、その行為を促した「気持ち」にこそ、価値があるのではないかと思うのです。
「薄情な人間と言われてもいい。生きていて欲しかった」という母親の言葉、「仕返しとかされたら怖いし・・・」「(通報しないのが)当たり前でしょう」という目撃者たちの言葉は、至極まっとうなものであり、決して批判されるものではないと思います。まずは自身の安全を守るのが、市民としての当然の判断であり、だからこそ、「社会正義」を優先した青年の勇気の尊さが、ひときわ価値あるものとして、私たちの胸に残るのです。彼の行為が本当に無駄になるのは、その行為に誰も価値を認めなかったときであり、「犯人逮捕につながらなかった」→「無駄な行為だった」→「価値がなかった」という認識を生み出しかねない報道は、厳に慎んでもらいたいものだと思います。

しつこくなって恐縮ですが、最後にもう一点だけ、一際印象に残ったのが、ラストシーンでのおやっさんの台詞でした。「彼は、警官の仕事が好きだったんです。純粋に犯罪に立ち向かうという最初の気持ちに戻ることができたからこそ、警官を辞めた。私はそう思います」と語る紅林に、「自分の気持ちを誤魔かしながら警官であり続けるより、一人の人間として生きたい。そう思ったんだね」と応える課長。その会話を受けて、おやっさんが語ります。「自分の中の人間らしさをすり減らしながら生きている。そうしなければ生きられないのが、今の世の中だ。人間らしさを取り戻すために仕事を辞める。これはなかなか勇気のいることだ。私も、できりゃあそうしたいんだけどね」この台詞を聞いた課長の気がかりそうな表情は、おそらく、次回への伏線なのでしょう。

第428話 追跡・ラブホテルの目撃者!

2008年08月06日 23時43分46秒 | Weblog
脚本 山田隆司、監督 天野利彦
1985年8月14日放送

【あらすじ】
かつて短期間だけ特命課に加わっていた若手刑事・的場が、ある事件の解決に協力。久々の再会を期して、吉野と飲みに行く約束を交わす。その夜、少し遅れて約束の屋台に向かった吉野が見たものは、警官に連行される的場の姿だった。
吉野に電話を掛けに行った的場は、ラブホテルから逃げるように出てくる年の差カップルと出くわした。その背後では、少年たちが集団で男を暴行していた。仲裁に入った的場だが、警察手帳を携帯していなかったことから少年たちと乱闘になる。少年の一人が男をナイフで刺そうとしたため、慌てて少年を突き飛ばしたところ、少年は頭を強く打って負傷。少年を介抱する的場だが、少年らはおろか、的場に助けられた男まで慌てて逃走。通報を受けた警官によって、的場は暴行の現行犯として連行されたのだ。
マスコミが警官不祥事として騒ぎ立てるなか、事態を重く見た刑事局長は特命課に真相究明を託す。所轄署の厳しい取調べに不満を抱いていた的場は、旧知の仲である特命課からも同様に厳しい扱いを受け反発。神代から自宅謹慎を言い渡される。
特命課の捜査で、少年たちの喧嘩沙汰があったことは確認されるが、的場が仲裁に入った経緯を見たものはく、被害者であるはずの男の消息も不明だった。ラブホテルから出てきたカップルが目撃していることを期待し、特命課はその身許を追う。
一方、新聞で少年の意識が回復したことを知った的場は、見舞いのために病院を訪れる。だが、そこでは少年の父親が、マスコミに向かって的場を「暴力刑事」と罵り、告訴を宣言していた。激昂した的場は「酔った的場が絡んできた」と主張する少年に詰め寄るが、桜井に制止される。少年の両親は激怒するが、少年の妹だけは「ごめんなさい」と的場に頭を下げた。
特命課の懸命の捜査によってカップルが発見され、的場の正当防衛が証明される。一方、的場は得意の似顔絵を駆使して独自に男を探し出す。男を締め上げた結果、明らかになった真実。それは、男が少年の妹を暴行し、その復讐のために少年とその仲間にリンチにあっていたこと、そして警察に暴行の事実が知られることを恐れて逃走したことだった。男を殴り倒した的場は、「俺は、あんな奴のために、少年に怪我を負わせてしまったのか・・・」と激しい自己嫌悪に捕らわれる。
再び少年の病室を訪れた的場は「事情は聞いた。俺はこのことを誰にも喋らん。その代わり、お前も奴を狙うのはやめろ。今の妹さんが頼れるのは、お前だけなんだ」と少年を諭す。一方、特命課も少年の仲間たちの証言で真相を知り、証拠固めに走る。少年のもとを訪れた桜井は、的場が辞表を出したことを告げる。「当然だ」と頷く父親だが、妹は真相を語り、男を告訴することを決意。少年もまた、男を刺そうとしたことを認めるのだった。
一人特命課で的場を待っていた船村は、辞表をもって現れた的場に酒を勧める。「君は、あの兄弟をかばって辞表を出せば気が済むかもしれない。だが、君の主張を信じて必死で捜査している課長や我々の立場はどうなる?」「課長たちは、俺の言うことを信じてくれていたんですか?」「当たり前だ。そんなことは分かった上で、刑事としての厳しさを教えるために、あえて叱りつけてたんだ」神代らの真意を知ってなお、決意を翻そうとしない的場を、叱りつける船村。「甘ったれんじゃねぇよ、この野郎!刑事ってのはな、辞めるより、続ける方がずううっと難しいんだ!刑事を続けたくても続けられないような年寄りに、こんなこと言わせんな!」船村の言葉に打ちのめされるなか、刑事たちの無線が次々と入ってくる。事件解決を告げる先輩刑事たちの報告を聞きつつ、的場は自分がどれだけ刑事として恵まれた環境にいるのかを、改めて知るのだった。

【感想など】
第397話から第400話にかけて、おやっさん不在の穴埋めとして短期レギュラーを勤めた的場刑事が、一度きりの再出演を果たした一本。「同じ釜の飯を食った仲なのに、どうして俺の正当防衛を認めてくれないんですか?」という台詞に象徴される的場の甘えっぷりには、正直言って不快感を隠しきれず、課長や橘の厳しい態度には溜飲が下がる思いでした。
また、父親の態度に怒りを見せる的場に対する、「あれが俺たち警察官に対する一般市民たちの声なんだ!」という桜井の台詞が説得力に満ちているだけに、余計に的場の未熟さが際立ちます。さらに、少年を負傷させたことばかりが騒がれ、手帳をクリーニングに出して紛失するという失態がスルーされていましたが、こちらも相当の不祥事では?
とはいえ、過熱するマスコミ報道に「的場に即刻辞表を書かせたまえ」と命じる刑事局長に対し、「的場の処分は、我々の捜査が終わってからにしてください。全責任は私が取ります」と言ってのける課長をはじめ、吉野や桜井、おやっさん、そして必死で捜査に当たった橘や叶、紅林と、口では厳しいことを言いながら、的場に対して兄貴分としての優しさや思いやりを見せる特命課刑事たちの姿は非常に好感が持て、その点が今回の一番の(というか唯一の)見所ではないでしょうか。

このように、個人的には再登場を果たした的場の未熟さばかが印象に残った本編ですが、別の見方をすれば、的場の未熟さを描くことで、特命課の面々の高いプロ意識が際立っているのも事実であり、的場をことさらに「未熟者」として描いたのは、脚本上の必然であり、その意味では成功と言えるでしょう。ご存知の方も多いと思いますが、今回、初めて特捜の脚本を務めた山田隆司氏は、不朽の名作「おジャ魔女どれみ」シリーズをはじめ、児童向けアニメなどのシリーズ構成・脚本で知られています(特撮作品でも仮面ライダーBLACKやレスキューポリスシリーズなどで脚本を務めています)。初脚本ながらも各刑事たちのキャラクターを的確に把握し、退職を間近に控えたおやっさんに伏線となる言葉を吐かせるなど、後の評価をうかがわせる堅実なつくりにはなっているのもの、何と言うか、非常に優等生的なストーリー仕立てになっているのが残念。視聴者としては、先の見えた予定調和なドラマをただ追っているだけであり、特別な感慨は得られませんでした。

第427話 複数誘拐・子供たちは何処へ!

2008年08月05日 00時45分06秒 | Weblog
脚本 広井由美子、監督 辻理
1985年8月7日放送

【あらすじ】
同じ町内に住む7~9歳の子供5人が一斉に姿を消した。当初は事故と見て捜索に当たった警察だが、各家庭に子供たちの靴が届けられたことで、誘拐事件と見て特命課が捜査に乗り出す。
子供たちの家庭を訪れ、事情を聞く橘たち。各家庭間に交流はなく、子供たち同士のつながりも不明。唯一の共通点と言えば、どの家庭も良好な環境にはないということ。社長の娘と婿養子の家庭に生まれた息子は、毎晩の塾通いに疲れて家出の過去があった。両親の離婚後、父親に引き取られた息子は、引っ越し以来、学校に馴染めなかった。さらに、父親が愛人を作ったために夫婦喧嘩が絶えない家庭の兄弟、ホステスの母親と二人暮しのため毎晩一人で過ごす娘と、どの子も親の愛に満たされているとは思えなかった。
やがて、「子供の命が欲しくば5千万円用意しろ。3時に駅で待て」との脅迫状が届けられ、その後、同様に「7時に橋で待て」との要求が届く。ただ駅、橋だけでは、どこのことか分からず、親たちや特命課は困惑する。また、脅迫状の紙は、2年も前のチラシだと判明。誘拐犯の真意はどこにあるのか?
その後、親の証言がいい加減だったり、夫婦喧嘩を誤魔化すために嘘をついていたりで、子供たちが消息を絶った時間が丸一日も違っていたことが分かり、捜査はさらに混乱する。しかし、親たちは逆に警察の無能を責めたり、親同士で諍いを起こしたりで、捜査への協力は望めなかった。
子供たちの目撃者を探す特命課。やがて、ある少女から「この子たち、いつもリボンのお姉さんと遊んでる」との証言を得る。リボンの娘を探し出し、脅迫状を見せたところ、子供たちとの誘拐ゲームのために書いたものだという。娘もまた親の愛に恵まれず、同じ境遇の子供たちと意気投合。あるとき、娘は子供たちに「もし私が誘拐されたら、親は心配してくれるかしら?」と、かつて寂しさを紛らせるために書いた日記を読み書かせたことがあった。「本当にそうなったら?」「みんなのパパとママもきっと来るわ。子供のことが可愛かったら、必ず来るのが親よ」「来なかったら?」「死んじゃうな・・・」娘の話から、橘は真相に気づく。これは誘拐ではなく、親の愛情を求める子供たちの悲痛な叫びだったのだ。その声が親に届かないと知ったとき、果たして子供たちは?
2年目に町内旅行に出かけたとき、子供たちは娘が書いた脅迫状を使って、親たちと誘拐ゲームに興じた。子供たちにとっては、それが親との唯一の楽しかった思い出だったのだ。「これは、もっと愛して欲しいという、子供たちからのメッセージだったんです!」だが、親たちは脅迫状のことなど忘れてしまい、「駅」や「橋」がどこのことかも、思い出すことはできなかった。「思い出してください!子供たちは、あんたたちが探し出してくれるのを待ってるんだ!」橘の叫びに、ようやく親たちも子供たちとの思い出を取り戻す。工場跡に隠れていた子供たちを発見する特命課。「お前たち、もう安心だ!お父さんやお母さんが迎えに来ているぞ」子供たちを抱きしめる親たちの瞳からこぼれる涙に、わが子への確かな愛情を見た刑事たちは、安堵の笑みを浮かべるのだった。

【感想など】
親の愛情を求める子供たちの悲痛な思いが招いた事件を描いた一本。感想を言えば「子供たちが無事でよかった」の一言に尽き、それ以上でもそれ以下でもなく、脚本家が狙ったであろうほどの感動は、得られるべくもありませんでした。ただ一つ気になったのは、脚本家がこのエピソードを「現代社会の問題点の一端をえぐり取った」と考えているのなら、それは大きな間違いだということです。
子供が親の愛情に飢えているのは、放送当時や、それから20年以上を経た現代に限らず、いつの時代も変わりのないことであり、余程家計に恵まれた一部の例外を除いては、親はいくら子供を愛していても、仕事に追われて(あるいはそれ以外の理由で)、日々、子供に愛情を注ぎ続けることなど望むべくもなかったのでは?むしろ、現代の方が、親の幼児化や終身雇用の崩壊にともなう会社への依存度の低下などから、子供と接する親が増えているのではないでしょうか。(ただ、食事も与えない、学校にも活かさないといった育児放棄(ネグレクト)や、逆に異常なまで過保護に扱い、自分の息子だけを特別扱いするよう強要するモンスターペアレンツなど、両極端な方向で狂った親が出没しているのは最近のことかもしれませんが・・・)

私同様、1960年代生まれの者なら思い当たる節が多いのではないかと思うのですが、そもそも、子供は乳児期を除いては、親から放ったらかしにされていたものではなかったでしょうか?また、社会的に見てもそれが普通のことであり、子供たちは勝手に子供同士で遊んでおり、そんな子供たちが危険な目に遭わないよう、誰の子供だとかは関係なく、社会全体が遠巻きに、かつ折に触れて、見守っていたような記憶があります。
その分、各家庭では(特に父親は)子供の日常に過度に干渉することもなく、子供たちもそれを不満に思うこともなかったような気がします。劇中、子供の一人が「どうして親って約束を破るんだろう」と言うシーンがありますが、わたしの場合、そもそも子供時代に親から何かを約束された記憶がありません。たとえ守られなくとも、親が約束するということは、少なくとも「子供に何かをしてやろう」と思った証拠であり、それだけでもずいぶん恵まれていと思うのは私だけでしょうか?

「子供たちが本当に欲しかったのは、モノでもなんでもない。親たちが自分にどれだけ愛情を向けてくれるかということなんだ。しかし大人たちは、自分の都合だけで可愛がってみたり、見向きもしなかったりする。そういう大人のエゴを、子供たちは見ていたんだね」ラストで神代課長がまとめの言葉を述べていますが、私の個人的な感覚では、これは大人が想像する子供目線であり、当の子供たち自身は、「親のエゴ」などとっくに承知のことであり、幼児期や思春期などの一時期を除いては、さほど「親の愛情」を確認しようと躍起になることはないのではないかと思います。多くの特撮ファンにとっては、そんな独りよがりなテーマ性よりも、少女の言った「テレビのチェンジマンの日ね?」という台詞に、確かな時代性を感じ取ったのではないでしょうか。

第426話 海外特派員殺人ミステリー!

2008年08月02日 00時14分38秒 | Weblog
脚本 佐藤五月、監督 宮越澄
1985年7月31日放送

【あらすじ】
ある雨の夜、刑事有志の勉強会に講師として招かれた米国人記者が、自宅マンション近くの歩道橋から転落死を遂げた。目撃者の証言から、記者が何者かに突き落とされたこと、記者が転落の直前「さ」で始まる叫び声を上げていたことが判明する。マンションの管理人夫婦に事情を聞くが、記者は親日派で知られており、日本人の恨みを買うとは思われないという。また、記者の部屋に飾っていた写真から、勉強会にも訪れていた女性記者(日本人)と交際していることが判明する。
記者の持っていた傘は女物であり、内臓に内出血の跡があったことから、女に傘で脇腹を突かれたのではないかと推測する紅林。女性記者を尋問したところ、傘で突いたことは認めたものの、転落死との関わりは否定する。その動機は、勉強会の帰りに「父に会って欲しい」と記者に告げたところ「可愛そうな親父さんとかい?」と揶揄されたためだという。貧しかった女性記者の両親は、苦労して娘を大学まで行かせた。だが、そのことを誇らしげに語ったとき、記者は「子供を大学に行かせることで中流階級の仲間入りか?可愛そうな両親だ。その金で自分の人生を楽しめばよかったのに」と嘲笑したという。愛の告白のつもりの言葉に、両親への侮辱で返されたことで、女性記者の怒りが爆発したのだ。被害者の爪には犯人を引っ掻いた跡が残っていたが、その傷跡がないため女性記者の無実が証明される。
記者の葬儀の日、親しかったはずのマンションの管理人夫婦が来ていないことに疑惑を覚える紅林。念のために調べたところ、管理人が事件当夜の行動について嘘をついていたことが判明。右腕に包帯を巻いていることからも疑惑は深まる。かつてボルネオで米軍の捕虜になっていたという管理人と、その勤勉ぶりに尊敬の念を抱いていたという記者。仲が良かったと言われる二人の間に、殺意が芽生える余地があったのだろうか?
紅林の調査によると、記者は日本向けには「アメリカも日本人の勤勉さを見習うべき」と書きながら、同国人に対しては、学歴偏重や中流意識、住宅事情の劣悪さなど、日本人の欠点を厳しく批判していたという。管理人の妻に聞き込んだところ、三人の子供を大学に行かせるために休みもなく働いた挙句、貯金もなく「ウサギ小屋」のような部屋にしか暮らせない管理人の人生を、記者は「それで満足?」と哀れんだという。悔しがった管理人は、後日、郊外に自宅を持つ息子の家庭に記者を招待した。しかし、記者はそこでも、ローンに追われ、妻が内職に励む息子夫婦の暮らしを「信じられない」と嘲笑したという。
管理人の軍隊での階級が曹長=サージェントだと気づいた紅林は、管理人の包帯の下に傷跡を確認。紅林の追及に、管理人は全てを告白する。「自分のことならともかく、息子までバカにされて許せなかった」その怒りは、あの夜、歩道橋で出会った際の一言で爆発した。脇腹の傷を気遣う管理人に対し、記者は「PW(Prisoner of War=捕虜)の世話にはならん」と言い放ったという。「曹長殿、あなたは戦地ではアメリカのPW、今は日本のPW。楽しむことを忘れたPWなんだよ」思わず記者を突き落とした管理人の行為を、誰が責められるだろうか。「あの男は、上辺ではニコニコしていながら、本音では日本人を軽蔑していたんだ!」管理人の言葉が紅林たちの胸に重く響いた。

【感想など】
今回の感想は、アメリカ人の方や親米派の方には不愉快に感じられるかもしれない(いや、たぶん不愉快に思うであろう)内容になっていることを、予めお断りしておきます。その点を踏まえてお読みいただけますようお願いします。

戦勝国・アメリカの驕りと、我々日本人に対する隠し切れない侮蔑の想いを鋭すぎるほど鋭く描いた一本。女性記者はこんな裏表のある外人のどこが気に入ったのが不思議でならず、内臓が出血するほど脇腹を突いて傷害罪に問われないのも不思議でなりませんが、脚本の佐藤氏にとっては、とにかく日本人に対するアメリカ人のえげつないまでの優越感さえ描ければそれで満足だと思われるので、そうした瑣末な疑問は全く問題ありません。(記者にあれだけこき下ろされても友人づきあいをしている管理人のガマン強さもある意味信じられませんが、仕事上の付き合いだと思えばどんな屈辱にも耐えられるのも日本の強みであり、また欠点でもあるので、そこは問題なしとしましょう。)

紅林や神代課長は、「外国人の二面性に気をつけろ」ということでまとめていますが、アメリカ人だけでなく「親日派」とか「日本びいき」とか訳知り顔で主張する外国人を信じるのが、そもそもの間違いではないでしょうか?ファッション、あるいは芸術などとして、日本文化の一側面が外国人に受け入れられ、時にもてはやされることはあっても、日本人の美意識や価値観が、そのまま異なる文化に受け入れられることなど期待する方が間違いです。
特に、広大な土地を背景に、建国以来の肥大した個人主義が幅を利かせるアメリカで育った連中に、狭い島国で譲り合って生きていくため、周囲の顔色をうかがう習慣を半ば宿命的に背負わされてきた日本人の気持ちなど、分かるはずがないのです。ましてや、先の大戦の関係を踏まえて考えれば、戦勝国が敗戦国、占領国を見る目に見下した態度が込められるのは当然のことであり、極論を言えば「全てのアメリカ人は日本人をバカにしている」と考えても差し支えありません。アメリカ人と会うときは、このことを忘れないようくれぐれも注意してください。(何様だ?)

今回のエピソードでは、日本の欠点の一つとして住宅環境の劣悪さを上げていますが、本来、国土の広さや人口密度は、それぞれの国の優劣を決めるファクターになりえるものではなく、「国民一人あたりの住宅の広さ」が米国>日本となることは単なる地理上の必然であって、何ら両国間の優劣を語るものではないはずです。もちろん、広い家に住みたいというのは、国籍や人種、文化を問わず、(一部のへそ曲がりを除いて)ほぼ共通の願いでしょうが、生まれた国の地理的な環境による差をことさらに取り上げ、「ウサギ小屋に住んで可愛そう」などと嘲笑されるいわれは全くありません。狭い家に住んでいるのは、私たちが貧しいからではなく、国土が狭いがゆえの必然であり、そのことを何ら恥じる必要はありません(さらに言えば、貧しさすれ恥じる必要もありません)。むしろ、相手の気持ちを慮ることなくズケズケと物を言い、他人のプライドを傷つけても平気な厚顔無恥な態度こそ恥じるべきであり、そんな輩に対しては「日本人は時として、誇りのために死ぬことも厭わぬ」ことを教えてやる必要があるのではないでしょうか?
舐められていることが分かっている相手に笑顔で応対するということは、「舐めてください」と言っているに等しいわけですから、対等な関係など築けるはずがありません。もし、こうした態度を取る人(あるいは国)と友人関係を築きたいのであれば、「舐められっぱなしではいない」、せめて「舐めないで欲しい」とはっきり態度や言葉で示すことが、絶対に必要なことだと思います。日本という国が、これ以上国際社会でバカにされないためには、そうした毅然とした態度が必要であり、それは日本政府の外国政府に対する態度だけではなく、仕事やプライベートで外国人と接する際の、私たち一人ひとりの態度にかかっているのではないでしょうか。

第425話 あるサラリーマンの死!

2008年08月01日 02時51分01秒 | Weblog
脚本 宮下隼一、監督 天野利彦
1985年7月24日放送

【あらすじ】
勤務先のビルの屋上から、一人の男が飛び降り自殺を遂げた。その報せを受けて、橘は顔色を変える。男の勤務先は、プラント輸出に関わる贈賄が取り沙汰されている総合商社であり、男は橘の説得を受け、内部告発の決意を固めたばかりだった。屋上には遺書ではなく辞表が残されていたことから、橘は男の自殺に疑念を抱く。
屋上への出入りの記録を確認した結果、男は別の階から突き落とされ、何者かが自殺に見せかけるため辞表を屋上に置いたことが判明。特命課は内部告発を阻止するための殺人と見て、経営陣のアリバイを調べる。
そんななか、橘の息子、信一が家庭教師を務める少女が万引きを働いて補導される。所轄署に駆けつけた橘は、少女をかばう信一を説得し、身許を明かさせる。少女の父親は、商社の常務であり、マスコミから「倉田」社長への忠誠ぶりを「チビ倉」と揶揄されていた。「この忙しいときに、お前って奴は!」少女の頬を張り、マスコミ対策に腐心する常務。「忙しいとか、マスコミとか言う前に、親としての言葉をかけてやっては・・・」と諭す橘だが、常務親子の間に横たわる溝は深かった。
少女から「常務が事件当夜に外出した」との証言を得る橘。また、清掃婦の証言で、事件当夜に被害者が自部署で何者かと口論していたことが判明する。被害者は口論相手を「だから『チビ倉』なんて呼ばれるんだ!」と罵っていたという。常務を容疑者として取り調べる特命課。当初は犯行を否定していた常務だが、「チビ倉」証言を聞いたとたん、完全黙秘に転じる。橘は「常務は誰かをかばっている」と推測する。
マスコミから常務に殺人容疑がかけられていることを聞かされた少女は、ショックを受け、交通事故に遭遇。入院した少女を見舞った橘は、信一から「あの子は、自分の証言で父親が逮捕されたって思ってる。人を利用して傷つけるのが、父さんの仕事かよ!」と非難される。常務は釈放されたその足で病院に駆けつけるが、少女から「こんな人、お父さんじゃない!」と罵られる。常務は家庭を顧みずに仕事に没頭し、病床の妻の最期を看取るのも、娘任せだった。失意の常務に、自身の過去を重ね合わせる橘。「仕事というのは、男にとって何なんでしょう?」常務の問いに、橘は答える。「誇りじゃあないでしょうか?貴方が誰かをかばうのも、仕事に対する誇りなんでしょう?」
常務が商社に潰された会社の出身だと知った橘は、常務のかつての同僚を訪ね歩く。職を失った同僚たちからすれば、商社に引き抜かれた常務たち3人は裏切り者であり、やっかみ半分で「チビ倉三羽ガラス」と呼ばれていた。その3人とは、常務と被害者、そして秘書だった。死体近くで発見された社員バッチを証拠に、橘は秘書を逮捕。常務の無実は証明される。同じ「チビ倉」である常務には、会社を辞めて告発しようとした被害者の気持ちも、社長たちに内緒でそれを止めようとする秘書の気持ちも、痛いほど分かり、それゆえに沈黙を守るほかなかったのだ。
橘の説得を受け、被害者に代わって会社を告発する決意を固める常務。親として、人として新たな出発を果たすべく、法廷へと向かう常務を、少女や信一とともに見つめる橘。そんな橘に、神代は3日間の休暇を与え、息子と一緒に長崎への帰省を促すのだった。

【感想など】
仕事一筋に生きる余り、家族との時間を犠牲にしてしまう男たち。家族との絆と、仕事への誇りの狭間で揺れる哀しき男たちを描いた一本。「仕事人間の悲劇」と一言でまとめてしまえば、前話「渓谷に消えた女秘書」と同じテーマと言えますが、今回の方がはるかにまとまっており、特に矛盾点や不明点は見当たりません。しかし、にも関わらず、見ていて何も心に響いてこないのはなぜでしょうか?オカリナというありふれた小道具が陳腐に思えせいなのか?それとも、仕事熱心=家庭を顧みない=家族に恨まれる、という展開が余りにステレオタイプなせいなのか?

同じ男として、あえて常務を弁護させてもらえれば、男が仕事に必死になるのは、決して仕事にやり甲斐を感じているから「だけ」ではなく、家族を養うためでもあるのです。仕事を適当にこなし、家族との時間を大切にするようなサラリーマンが、果たしてどれだけ出世できるか、この娘さんは考えたことがあるのでしょうか?出世しなくても、そこそこ給料をもらえてさえいればいい、という意見もあるでしょうが、娘さんの将来、亡くなられた奥さんの治療費などを考えれば、より高給を得られるポジションを望むのも無理はありません。常務らを「チビ倉三羽ガラス」と蔑んだ方々は、果たして家族を満足させられるだけの収入を得ているのでしょうか?「お金よりも家族との時間を大切にして欲しい」というのは、お金のありがたみを知らない子供のたわごとか、単なる無いものねだりにしか聞こえないのは、私だけでしょうか?

そうした点を考えれば、今回のテーマは「家族の絆」ではなく、「親子間の価値観の相違」と言えるかもしれません。だとすれば、そうした親子の間の溝を埋めるのは、まさに信一君が言っていたように「逃げないで、時間をかけて向かい合うしかない」のでしょう。今回の事件を機に、常務と少女、そして橘と信一君の間の溝が少しずつでも埋まっていくことを、心から祈りたいものです。