脚本 藤井邦夫、監督 辻理
冬の夜、一年前の強盗殺人事件の容疑者を逮捕した特命課。凶器のナイフから容疑者の指紋が検出されたことが決め手だったが、男は「ナイフはドヤで盗まれた」と犯行を否定。犯行当日は猪苗代の温泉宿に行っていたとアリバイを主張する。「証人はいるのか」と問い詰められた容疑者は「老人を負ぶって歩いている女に会った」と語る。
猪苗代に飛んだ橘は、地元の警察から「該当する女性はいない」という調査結果を聞かされる。念を押す橘だが、その日は地元で事件が起こっており、記憶違いということはあり得ない。その事件とは、寝たきりの老父を息子が殺したというものだった。
自分では身動きもできない老父を、凍えるような納屋の中で置き去りにし、凍死させる。残酷な殺し方とは裏腹に、息子夫婦は老父を大切にしていたという。服役中の息子を訪ねた橘に、息子は「親父が望んだこと」と答える。東京で子供と二人暮らしの妻もまた「おじいちゃんが死にたいって言ったんです」と搾り出すように語り、老父を負ぶって歩いたことは否定する。
一方、特命課は、容疑者からナイフを盗んだ男の存在を確認。また「この中にお前が会った女はいるか」と複数の写真を見せられた容疑者は、「この女だ」と妻の写真を言い当てる。容疑者の証言が確かならば、事件当夜、妻はなぜ老父を負ぶって歩いていたのか?橘は、老父を凍死させたのは妻ではないかと推測する。橘がマークするなか、過労のために倒れる妻は。昼も夜もなく働き続ける理由は「夢を見たくなかったから。働いて働いて、何も考えられないくらい疲れてから眠りたかった」からだった。「貴方はいずれ、耐えられなくなる。そのとき、真実を知ったお子さんが許してくれるでしょうか?」罪の意識に苦しむ妻を救おうとする橘だが、子供を目の前にして、妻が事実を語れるはずもなかった。
当日の妻の足取りをつかむべく、再び猪苗代に向かう橘。そんななか、妻が子供を残して姿を消したとの連絡が入る。「お母ちゃんはおじいちゃんに会いに猪苗代に行きます。そしたら、お父ちゃんは帰ってきます」残された書置きを見て、妻が自殺するつもりだと察した橘は、拘留中の息子に書置きを見せ「奥さんがおおじいさんを凍死させたのはどこなんだ」と迫る。「身代わりになることが思いやりだと思っているのか?真実を明らかにして楽にしてやることが、本当の思いやりじゃないのか?」橘の言葉に、ついに息子は真実を語る。
父親から「早く楽にしてくれ。極楽に行かしてくれ」と頼まれ続ける日々は、息子にとって地獄だった。それを見かねた妻が、二人を楽にさせるために選んだのが、老父の望み通りに凍死させることだった。事態を知った息子は、妻と子供のために、自分が罪をかぶることを選んだのだ。息子の証言を得て、村外れの小屋に急ぐ橘たち。小屋の中で、妻は手首を切って倒れていた。無事に救出された妻の証言で、容疑者のアリバイは成立。真犯人も逮捕された。
事件当夜、老父は不自由な身体で自殺を図ったのだという。「そのとき、おじいちゃんは死んだ方が幸せだと思いました」どこか安堵したように、その夜を振り返る妻。そこに釈放された息子が子供とともに現れる。「今度は、俺が待っているから。いつまでも・・・」
老人介護の難しさと、安楽死という哀しい選択の是非を問いかける一本です。藤井脚本だけあって、早々に展開が読めてしまうものの、本編の主旨は謎解きやドラマ性にあるのではなく、ヘビー極まりないそのテーマ性にあります。
ただ、少し残念なことに、ドラマ内ではそのテーマ性をメインに据えることなく、加害者である妻の心の救済が軸となっています。「私たちはただの刑事だ。他人の人生を左右するほど偉くはない。しかし、真実を隠して、その重さに押しつぶされそうになっている人を、少しでも楽にしてあげることはできる」橘の台詞自体は非常に味のあるものであり(どこかで聞いたような気もしますが・・・)、妻を演じた左時枝さんの切ない演技も見ごたえはあるのですが、老父を安楽死させるという妻の行為を肯定的に描くようなストーリーには、納得いかない(というより納得してはいけない)ものがあります。
実際に寝たきりの親を抱えたことのない私が言っても説得力が無いことは十分承知の上ですが、「死んだ方が幸せ」という結論は、決して出してはいけないものだと思います。別に宗教的なものでも何でもなく、「生命の大切さ」という、言葉にしてしまうと何とも陳腐になってしまうものを、それでも口にし続けなければならないのが昨今の世の中です。自分の命や他人の命をゴミのように軽視する連中を見ていると、「それでも生き続けることが、この世に命を得たものの義務だ」などと、奇麗事を言ってみたくなってしまいます。
本編の妻や息子たちは、決して命を軽視しているわけではなく、悩み、苦しんだ末に哀しい選択をします。同情すべき境遇であり、救ってあげたい(実際に橘は尊属殺人ではなく自殺幇助として処理するよう奔走していましたが)のはもちろんですが、しかし、それでも「奥さん、あなたのしたことは間違っている」と、誰かに言って欲しかったのです。
冬の夜、一年前の強盗殺人事件の容疑者を逮捕した特命課。凶器のナイフから容疑者の指紋が検出されたことが決め手だったが、男は「ナイフはドヤで盗まれた」と犯行を否定。犯行当日は猪苗代の温泉宿に行っていたとアリバイを主張する。「証人はいるのか」と問い詰められた容疑者は「老人を負ぶって歩いている女に会った」と語る。
猪苗代に飛んだ橘は、地元の警察から「該当する女性はいない」という調査結果を聞かされる。念を押す橘だが、その日は地元で事件が起こっており、記憶違いということはあり得ない。その事件とは、寝たきりの老父を息子が殺したというものだった。
自分では身動きもできない老父を、凍えるような納屋の中で置き去りにし、凍死させる。残酷な殺し方とは裏腹に、息子夫婦は老父を大切にしていたという。服役中の息子を訪ねた橘に、息子は「親父が望んだこと」と答える。東京で子供と二人暮らしの妻もまた「おじいちゃんが死にたいって言ったんです」と搾り出すように語り、老父を負ぶって歩いたことは否定する。
一方、特命課は、容疑者からナイフを盗んだ男の存在を確認。また「この中にお前が会った女はいるか」と複数の写真を見せられた容疑者は、「この女だ」と妻の写真を言い当てる。容疑者の証言が確かならば、事件当夜、妻はなぜ老父を負ぶって歩いていたのか?橘は、老父を凍死させたのは妻ではないかと推測する。橘がマークするなか、過労のために倒れる妻は。昼も夜もなく働き続ける理由は「夢を見たくなかったから。働いて働いて、何も考えられないくらい疲れてから眠りたかった」からだった。「貴方はいずれ、耐えられなくなる。そのとき、真実を知ったお子さんが許してくれるでしょうか?」罪の意識に苦しむ妻を救おうとする橘だが、子供を目の前にして、妻が事実を語れるはずもなかった。
当日の妻の足取りをつかむべく、再び猪苗代に向かう橘。そんななか、妻が子供を残して姿を消したとの連絡が入る。「お母ちゃんはおじいちゃんに会いに猪苗代に行きます。そしたら、お父ちゃんは帰ってきます」残された書置きを見て、妻が自殺するつもりだと察した橘は、拘留中の息子に書置きを見せ「奥さんがおおじいさんを凍死させたのはどこなんだ」と迫る。「身代わりになることが思いやりだと思っているのか?真実を明らかにして楽にしてやることが、本当の思いやりじゃないのか?」橘の言葉に、ついに息子は真実を語る。
父親から「早く楽にしてくれ。極楽に行かしてくれ」と頼まれ続ける日々は、息子にとって地獄だった。それを見かねた妻が、二人を楽にさせるために選んだのが、老父の望み通りに凍死させることだった。事態を知った息子は、妻と子供のために、自分が罪をかぶることを選んだのだ。息子の証言を得て、村外れの小屋に急ぐ橘たち。小屋の中で、妻は手首を切って倒れていた。無事に救出された妻の証言で、容疑者のアリバイは成立。真犯人も逮捕された。
事件当夜、老父は不自由な身体で自殺を図ったのだという。「そのとき、おじいちゃんは死んだ方が幸せだと思いました」どこか安堵したように、その夜を振り返る妻。そこに釈放された息子が子供とともに現れる。「今度は、俺が待っているから。いつまでも・・・」
老人介護の難しさと、安楽死という哀しい選択の是非を問いかける一本です。藤井脚本だけあって、早々に展開が読めてしまうものの、本編の主旨は謎解きやドラマ性にあるのではなく、ヘビー極まりないそのテーマ性にあります。
ただ、少し残念なことに、ドラマ内ではそのテーマ性をメインに据えることなく、加害者である妻の心の救済が軸となっています。「私たちはただの刑事だ。他人の人生を左右するほど偉くはない。しかし、真実を隠して、その重さに押しつぶされそうになっている人を、少しでも楽にしてあげることはできる」橘の台詞自体は非常に味のあるものであり(どこかで聞いたような気もしますが・・・)、妻を演じた左時枝さんの切ない演技も見ごたえはあるのですが、老父を安楽死させるという妻の行為を肯定的に描くようなストーリーには、納得いかない(というより納得してはいけない)ものがあります。
実際に寝たきりの親を抱えたことのない私が言っても説得力が無いことは十分承知の上ですが、「死んだ方が幸せ」という結論は、決して出してはいけないものだと思います。別に宗教的なものでも何でもなく、「生命の大切さ」という、言葉にしてしまうと何とも陳腐になってしまうものを、それでも口にし続けなければならないのが昨今の世の中です。自分の命や他人の命をゴミのように軽視する連中を見ていると、「それでも生き続けることが、この世に命を得たものの義務だ」などと、奇麗事を言ってみたくなってしまいます。
本編の妻や息子たちは、決して命を軽視しているわけではなく、悩み、苦しんだ末に哀しい選択をします。同情すべき境遇であり、救ってあげたい(実際に橘は尊属殺人ではなく自殺幇助として処理するよう奔走していましたが)のはもちろんですが、しかし、それでも「奥さん、あなたのしたことは間違っている」と、誰かに言って欲しかったのです。