特捜最前線日記

特捜最前線について語ります。
ネタバレを含んでいますので、ご注意ください。

第427話 複数誘拐・子供たちは何処へ!

2008年08月05日 00時45分06秒 | Weblog
脚本 広井由美子、監督 辻理
1985年8月7日放送

【あらすじ】
同じ町内に住む7~9歳の子供5人が一斉に姿を消した。当初は事故と見て捜索に当たった警察だが、各家庭に子供たちの靴が届けられたことで、誘拐事件と見て特命課が捜査に乗り出す。
子供たちの家庭を訪れ、事情を聞く橘たち。各家庭間に交流はなく、子供たち同士のつながりも不明。唯一の共通点と言えば、どの家庭も良好な環境にはないということ。社長の娘と婿養子の家庭に生まれた息子は、毎晩の塾通いに疲れて家出の過去があった。両親の離婚後、父親に引き取られた息子は、引っ越し以来、学校に馴染めなかった。さらに、父親が愛人を作ったために夫婦喧嘩が絶えない家庭の兄弟、ホステスの母親と二人暮しのため毎晩一人で過ごす娘と、どの子も親の愛に満たされているとは思えなかった。
やがて、「子供の命が欲しくば5千万円用意しろ。3時に駅で待て」との脅迫状が届けられ、その後、同様に「7時に橋で待て」との要求が届く。ただ駅、橋だけでは、どこのことか分からず、親たちや特命課は困惑する。また、脅迫状の紙は、2年も前のチラシだと判明。誘拐犯の真意はどこにあるのか?
その後、親の証言がいい加減だったり、夫婦喧嘩を誤魔化すために嘘をついていたりで、子供たちが消息を絶った時間が丸一日も違っていたことが分かり、捜査はさらに混乱する。しかし、親たちは逆に警察の無能を責めたり、親同士で諍いを起こしたりで、捜査への協力は望めなかった。
子供たちの目撃者を探す特命課。やがて、ある少女から「この子たち、いつもリボンのお姉さんと遊んでる」との証言を得る。リボンの娘を探し出し、脅迫状を見せたところ、子供たちとの誘拐ゲームのために書いたものだという。娘もまた親の愛に恵まれず、同じ境遇の子供たちと意気投合。あるとき、娘は子供たちに「もし私が誘拐されたら、親は心配してくれるかしら?」と、かつて寂しさを紛らせるために書いた日記を読み書かせたことがあった。「本当にそうなったら?」「みんなのパパとママもきっと来るわ。子供のことが可愛かったら、必ず来るのが親よ」「来なかったら?」「死んじゃうな・・・」娘の話から、橘は真相に気づく。これは誘拐ではなく、親の愛情を求める子供たちの悲痛な叫びだったのだ。その声が親に届かないと知ったとき、果たして子供たちは?
2年目に町内旅行に出かけたとき、子供たちは娘が書いた脅迫状を使って、親たちと誘拐ゲームに興じた。子供たちにとっては、それが親との唯一の楽しかった思い出だったのだ。「これは、もっと愛して欲しいという、子供たちからのメッセージだったんです!」だが、親たちは脅迫状のことなど忘れてしまい、「駅」や「橋」がどこのことかも、思い出すことはできなかった。「思い出してください!子供たちは、あんたたちが探し出してくれるのを待ってるんだ!」橘の叫びに、ようやく親たちも子供たちとの思い出を取り戻す。工場跡に隠れていた子供たちを発見する特命課。「お前たち、もう安心だ!お父さんやお母さんが迎えに来ているぞ」子供たちを抱きしめる親たちの瞳からこぼれる涙に、わが子への確かな愛情を見た刑事たちは、安堵の笑みを浮かべるのだった。

【感想など】
親の愛情を求める子供たちの悲痛な思いが招いた事件を描いた一本。感想を言えば「子供たちが無事でよかった」の一言に尽き、それ以上でもそれ以下でもなく、脚本家が狙ったであろうほどの感動は、得られるべくもありませんでした。ただ一つ気になったのは、脚本家がこのエピソードを「現代社会の問題点の一端をえぐり取った」と考えているのなら、それは大きな間違いだということです。
子供が親の愛情に飢えているのは、放送当時や、それから20年以上を経た現代に限らず、いつの時代も変わりのないことであり、余程家計に恵まれた一部の例外を除いては、親はいくら子供を愛していても、仕事に追われて(あるいはそれ以外の理由で)、日々、子供に愛情を注ぎ続けることなど望むべくもなかったのでは?むしろ、現代の方が、親の幼児化や終身雇用の崩壊にともなう会社への依存度の低下などから、子供と接する親が増えているのではないでしょうか。(ただ、食事も与えない、学校にも活かさないといった育児放棄(ネグレクト)や、逆に異常なまで過保護に扱い、自分の息子だけを特別扱いするよう強要するモンスターペアレンツなど、両極端な方向で狂った親が出没しているのは最近のことかもしれませんが・・・)

私同様、1960年代生まれの者なら思い当たる節が多いのではないかと思うのですが、そもそも、子供は乳児期を除いては、親から放ったらかしにされていたものではなかったでしょうか?また、社会的に見てもそれが普通のことであり、子供たちは勝手に子供同士で遊んでおり、そんな子供たちが危険な目に遭わないよう、誰の子供だとかは関係なく、社会全体が遠巻きに、かつ折に触れて、見守っていたような記憶があります。
その分、各家庭では(特に父親は)子供の日常に過度に干渉することもなく、子供たちもそれを不満に思うこともなかったような気がします。劇中、子供の一人が「どうして親って約束を破るんだろう」と言うシーンがありますが、わたしの場合、そもそも子供時代に親から何かを約束された記憶がありません。たとえ守られなくとも、親が約束するということは、少なくとも「子供に何かをしてやろう」と思った証拠であり、それだけでもずいぶん恵まれていと思うのは私だけでしょうか?

「子供たちが本当に欲しかったのは、モノでもなんでもない。親たちが自分にどれだけ愛情を向けてくれるかということなんだ。しかし大人たちは、自分の都合だけで可愛がってみたり、見向きもしなかったりする。そういう大人のエゴを、子供たちは見ていたんだね」ラストで神代課長がまとめの言葉を述べていますが、私の個人的な感覚では、これは大人が想像する子供目線であり、当の子供たち自身は、「親のエゴ」などとっくに承知のことであり、幼児期や思春期などの一時期を除いては、さほど「親の愛情」を確認しようと躍起になることはないのではないかと思います。多くの特撮ファンにとっては、そんな独りよがりなテーマ性よりも、少女の言った「テレビのチェンジマンの日ね?」という台詞に、確かな時代性を感じ取ったのではないでしょうか。