脚本 宮下隼一、監督 天野利彦
1985年4月3日放送
【あらすじ】
叶が住む団地のゴミ捨て場に捨てられていた冷蔵庫から、15歳の少女の死体が発見された。死因は窒息死であり、第一発見者である廃品回収の老人より前に、誰かが気づいてさえいれば助かったかもしれない。自分もまた、被害者を死なせた無関心な隣人の一人だと痛感しつつ、捜査に加わる叶。
死体に巻かれていたマフラーのイニシャルは、被害者のものではなかった。被害者の両親は、「2ヶ月前から人が変わったようになり、会話も途絶えていた」と嘆き、心当たりは無いという。被害者の親友である少女の証言や解剖結果から、被害者が覚醒剤や売春を繰り返していたことが判明する。
捜査を続けるなかで、団地に移り住んできた人々と、土地の人々との対立を感じ取る叶。駅前で無法駐輪の自転車を整理している廃品回収の老人と再会した叶は、「同じ街に住んでいるという意識がないんですな」と嘆息する老人の言葉に、対立の根を察する。そんななか、被害者の両親は、周囲の風評に耐え切れず団地を去る。親友の死を茶化すような少女の姿に、叶は思わずその頬を張る。その際、叶が落とした被害者の死体の写真を見て、少女の顔色が変わった。少女は何かを知っているのか?
一方、桜井は被害者の売春客の一人が、吹っかけられた腹いせに被害者の鞄を持ち去っていたことを掴む。鞄の中から見つかった2ヶ月前の新聞記事。それは、被害者と同じ学校の女生徒が、万引きと疑われたことを苦に自殺したことを報じていた。女生徒のイニシャルがマフラーのものと同じだと気づいた叶は、自殺の背景を調べる。女生徒は土地育ちの優等生で、万引きを否定していた。女生徒を万引き犯と断言した店員は、顔を見たわけでなく、決め手となったのはマフラーだったという。
ショックで倒れた女生徒の母親を訪ねる叶。被害者の死体に巻かれていたマフラーは、やはり女生徒のものだった。女生徒は制服を切り裂かれるなどの嫌がらせに遭っていたが、誰の仕業か語らなかったという。女生徒に嫌がらせをし、万引きの罪を着せたのは、被害者と少女ではないかと推測する叶。団地で少女を待ち受け事情を聞こうとする叶だが、逃げ出した少女が何者かに襲われ、負傷する。団地の窓に「救急車を呼んでくれ!」と叫ぶ叶だが、誰も応えようとしない。慄然としながらも、犯人の落としていった手拭いに気づく叶。それは、廃品回収の老人のものだった。素直に連行に応じる老人だが、事件については沈黙する。
少女に女生徒の遺体の写真を見せる叶。「眼を逸らさず見ろ!これが君たちのしたことだ!」「ただ嫌がらせをしただけよ!」と開き直る少女。そのきっかけは、少女と被害者が、花壇の花を掘り返していたのを女生徒に咎められ「あなたたち団地の子ね。あんな所に住んでいるから、花の気持ちが分からないのよ」となじられたためだった。その花壇は、老人が育てていたもので、女生徒は老人に「私の一言で、あの子たちを逆上させてしまった」と詫び、花壇の世話を手伝うようになったという。女生徒が命を絶った後、被害者がマフラーを捨てるのを目撃した老人は、すべての事情を察し、懲らしめるために冷蔵庫に閉じ込めた。「殺すつもりはなかった。ただ、彼女が万引きなどしてないことを証明して欲しかった。だが、ワシが自分で開けるまで、誰一人気づこうとはしなかった」そんな老人に、叶は語る。女生徒が身を投げた川に、被害者が花を供え続けていたこと。そして、自分の身体を傷つけることしか償う術を知らず、覚せい剤や売春に走ったことを。「私たちは人殺しだ、死にたい」とひたすら贖罪の言葉が綴られた被害者の日記に、老人は突っ伏し、涙をこぼした。
「3年もあの街に住んでいながら、自分は何一つあの街を知ろうとしなかった」と自分を責める叶に、「みんな同じ人間なんだ。大丈夫、きっかけさえつかめばね」と語る船村。その日、団地に帰った叶が見たものは、女生徒に花を手向ける少女や、被害者の発見されたゴミ捨て場に花を供える団地の人々の姿だった。そのとき交わした挨拶が、船村のいう「きっかけ」となることを信じ、叶は笑顔で団地を見上げた。
【感想など】
コンクリートの箱に囲まれた団地暮らしのなかで、希薄になっていく人間関係が生み出した悲劇を描いた一本。悲劇の主が、わずか15歳の少女たちだということが、余計にやり切れなさを掻きたてます。田舎育ちの私には、団地の人々と地元の人々との軋轢は正直言ってピンときません。団地暮らしが人間性を損なわせるという論旨も、少し決め付けが過ぎるような気もしますが、ここで言う「団地」とは、生まれ育った土地を離れて都会に移住してきた人々、すなわち地縁とは無関係に生きていく他ない人々の象徴でしょう。
地域のつながりを失った人々の「無関心の怖さ」というものが、ある種の社会問題として囁かれ始めた時期だったのでしょうが、そうした社会的なテーマ以上に、深く胸をえぐるのが、ドラマを通じて描かれる「他人と分かり合うこと」そして「人を許すこと」の難しさです。個人的には、陰湿な嫌がらせを重ね、女生徒を自殺に追い込んだ少女や被害者を許すことはできません(自殺を選んだ女生徒に対しても、「なぜ死んだのか?それが最も母親を悲しませることだと気づけなかったのか?」と言いたくなりますが、それは別の話として、ここでは深く触れません)。のうのうと生き延びた少女が幸福になるのは、何だか理不尽のように思えますし、被害者に対しても、あまり同情の気持ちは湧いてきません。ただ、自分の身体を汚すことでしか贖罪の気持ちを表すことができない15歳ならではの未熟さに、言い知れぬ哀れみとやり切れなさを感じるのです。
なぜ、女生徒の母親に土下座し、万引きが濡れ衣だと告白しなかったのか?それ以前に、女生徒になじられた際、なぜ「花を掘り返したのが、殺風景な団地に花壇を作りたかったから」と言えなかったのか?彼女たちも、望んで団地暮らしをしていたわけではない。神代課長の言うように、団地暮らしに心の渇きを覚え、言葉にならない悲鳴を上げていたことを、なぜ土地の子である女生徒にも分かってもらおうとしなかったのか?立場の異なる者同士が、互いを理解するのがいかに難しいことか、分からないではありません。大人同士が軋轢を解消できないなかで、15歳の少女にそれを望むのは酷かもしれませんが、だからと言って被害者と少女の行為が許し難いことに変わりはありません。
しかし、叶や老人は、被害者(そして少女)が罪の意識を感じていたというだけで、その罪を許します。私にはとてもできないことですが、被害者や少女を憎み続けたところで、誰も幸せになれないのも確かです。ラストシーンに垣間見えた希望に、空々しさを感じないでもない私ではありますが、そこにかすかな望みを掛けないことには、この社会に明るい未来は無いのかもしれません。陰惨なドラマのラストに、せめてもの明るさを示した脚本家の姿勢に敬意を表するためにも、少女や被害者の罪を許そうという気持ちを持ちたいものだと思います(許せるかどうかは自信がありませんが・・・)。
1985年4月3日放送
【あらすじ】
叶が住む団地のゴミ捨て場に捨てられていた冷蔵庫から、15歳の少女の死体が発見された。死因は窒息死であり、第一発見者である廃品回収の老人より前に、誰かが気づいてさえいれば助かったかもしれない。自分もまた、被害者を死なせた無関心な隣人の一人だと痛感しつつ、捜査に加わる叶。
死体に巻かれていたマフラーのイニシャルは、被害者のものではなかった。被害者の両親は、「2ヶ月前から人が変わったようになり、会話も途絶えていた」と嘆き、心当たりは無いという。被害者の親友である少女の証言や解剖結果から、被害者が覚醒剤や売春を繰り返していたことが判明する。
捜査を続けるなかで、団地に移り住んできた人々と、土地の人々との対立を感じ取る叶。駅前で無法駐輪の自転車を整理している廃品回収の老人と再会した叶は、「同じ街に住んでいるという意識がないんですな」と嘆息する老人の言葉に、対立の根を察する。そんななか、被害者の両親は、周囲の風評に耐え切れず団地を去る。親友の死を茶化すような少女の姿に、叶は思わずその頬を張る。その際、叶が落とした被害者の死体の写真を見て、少女の顔色が変わった。少女は何かを知っているのか?
一方、桜井は被害者の売春客の一人が、吹っかけられた腹いせに被害者の鞄を持ち去っていたことを掴む。鞄の中から見つかった2ヶ月前の新聞記事。それは、被害者と同じ学校の女生徒が、万引きと疑われたことを苦に自殺したことを報じていた。女生徒のイニシャルがマフラーのものと同じだと気づいた叶は、自殺の背景を調べる。女生徒は土地育ちの優等生で、万引きを否定していた。女生徒を万引き犯と断言した店員は、顔を見たわけでなく、決め手となったのはマフラーだったという。
ショックで倒れた女生徒の母親を訪ねる叶。被害者の死体に巻かれていたマフラーは、やはり女生徒のものだった。女生徒は制服を切り裂かれるなどの嫌がらせに遭っていたが、誰の仕業か語らなかったという。女生徒に嫌がらせをし、万引きの罪を着せたのは、被害者と少女ではないかと推測する叶。団地で少女を待ち受け事情を聞こうとする叶だが、逃げ出した少女が何者かに襲われ、負傷する。団地の窓に「救急車を呼んでくれ!」と叫ぶ叶だが、誰も応えようとしない。慄然としながらも、犯人の落としていった手拭いに気づく叶。それは、廃品回収の老人のものだった。素直に連行に応じる老人だが、事件については沈黙する。
少女に女生徒の遺体の写真を見せる叶。「眼を逸らさず見ろ!これが君たちのしたことだ!」「ただ嫌がらせをしただけよ!」と開き直る少女。そのきっかけは、少女と被害者が、花壇の花を掘り返していたのを女生徒に咎められ「あなたたち団地の子ね。あんな所に住んでいるから、花の気持ちが分からないのよ」となじられたためだった。その花壇は、老人が育てていたもので、女生徒は老人に「私の一言で、あの子たちを逆上させてしまった」と詫び、花壇の世話を手伝うようになったという。女生徒が命を絶った後、被害者がマフラーを捨てるのを目撃した老人は、すべての事情を察し、懲らしめるために冷蔵庫に閉じ込めた。「殺すつもりはなかった。ただ、彼女が万引きなどしてないことを証明して欲しかった。だが、ワシが自分で開けるまで、誰一人気づこうとはしなかった」そんな老人に、叶は語る。女生徒が身を投げた川に、被害者が花を供え続けていたこと。そして、自分の身体を傷つけることしか償う術を知らず、覚せい剤や売春に走ったことを。「私たちは人殺しだ、死にたい」とひたすら贖罪の言葉が綴られた被害者の日記に、老人は突っ伏し、涙をこぼした。
「3年もあの街に住んでいながら、自分は何一つあの街を知ろうとしなかった」と自分を責める叶に、「みんな同じ人間なんだ。大丈夫、きっかけさえつかめばね」と語る船村。その日、団地に帰った叶が見たものは、女生徒に花を手向ける少女や、被害者の発見されたゴミ捨て場に花を供える団地の人々の姿だった。そのとき交わした挨拶が、船村のいう「きっかけ」となることを信じ、叶は笑顔で団地を見上げた。
【感想など】
コンクリートの箱に囲まれた団地暮らしのなかで、希薄になっていく人間関係が生み出した悲劇を描いた一本。悲劇の主が、わずか15歳の少女たちだということが、余計にやり切れなさを掻きたてます。田舎育ちの私には、団地の人々と地元の人々との軋轢は正直言ってピンときません。団地暮らしが人間性を損なわせるという論旨も、少し決め付けが過ぎるような気もしますが、ここで言う「団地」とは、生まれ育った土地を離れて都会に移住してきた人々、すなわち地縁とは無関係に生きていく他ない人々の象徴でしょう。
地域のつながりを失った人々の「無関心の怖さ」というものが、ある種の社会問題として囁かれ始めた時期だったのでしょうが、そうした社会的なテーマ以上に、深く胸をえぐるのが、ドラマを通じて描かれる「他人と分かり合うこと」そして「人を許すこと」の難しさです。個人的には、陰湿な嫌がらせを重ね、女生徒を自殺に追い込んだ少女や被害者を許すことはできません(自殺を選んだ女生徒に対しても、「なぜ死んだのか?それが最も母親を悲しませることだと気づけなかったのか?」と言いたくなりますが、それは別の話として、ここでは深く触れません)。のうのうと生き延びた少女が幸福になるのは、何だか理不尽のように思えますし、被害者に対しても、あまり同情の気持ちは湧いてきません。ただ、自分の身体を汚すことでしか贖罪の気持ちを表すことができない15歳ならではの未熟さに、言い知れぬ哀れみとやり切れなさを感じるのです。
なぜ、女生徒の母親に土下座し、万引きが濡れ衣だと告白しなかったのか?それ以前に、女生徒になじられた際、なぜ「花を掘り返したのが、殺風景な団地に花壇を作りたかったから」と言えなかったのか?彼女たちも、望んで団地暮らしをしていたわけではない。神代課長の言うように、団地暮らしに心の渇きを覚え、言葉にならない悲鳴を上げていたことを、なぜ土地の子である女生徒にも分かってもらおうとしなかったのか?立場の異なる者同士が、互いを理解するのがいかに難しいことか、分からないではありません。大人同士が軋轢を解消できないなかで、15歳の少女にそれを望むのは酷かもしれませんが、だからと言って被害者と少女の行為が許し難いことに変わりはありません。
しかし、叶や老人は、被害者(そして少女)が罪の意識を感じていたというだけで、その罪を許します。私にはとてもできないことですが、被害者や少女を憎み続けたところで、誰も幸せになれないのも確かです。ラストシーンに垣間見えた希望に、空々しさを感じないでもない私ではありますが、そこにかすかな望みを掛けないことには、この社会に明るい未来は無いのかもしれません。陰惨なドラマのラストに、せめてもの明るさを示した脚本家の姿勢に敬意を表するためにも、少女や被害者の罪を許そうという気持ちを持ちたいものだと思います(許せるかどうかは自信がありませんが・・・)。